浜お龍

浜お龍

河内家鶴春(右)と

藤浪扇太郎とおりう(右)

 人 物

 はまりう
 ・本 名 武藤 起代子(一時、魚谷)
 ・生没年 1910年10月17日~1992年以降
 ・出身地 大阪府 大阪市

 来 歴

 浜お龍は戦前戦後活躍した女流漫才師。

 長らく夫の河内家鶴春とコンビを組んでいた他、奇人で有名な松葉家奴、上方漫才の大御所、橘家太郎などとも漫才を組んでいた事もある。

 晩年は三味線を片手に女道楽風の漫談や音曲をやっており、貴重な芸風を留める存在として珍重された。

 長生きした事もあって、基本的なプロフィールは『日本演芸家名鑑』に残っている。生年月日、出身地はここから割り出した。

 ただ、詳しい略歴を語っていないせいもあって、どういう経緯でこの世界に入ったのかは不明。『笑根系図』などでは、橘家太郎門下として扱われている。

 あくまでも推測であるが、若い頃から音曲を習っていたらしく、これが後年の武器となった模様。事実、「小唄端唄」「舞踊」「諸芸」は老いてもなお趣味兼仕事として成立しており、三味線や舞踊は「師範」であったという。

 昭和初頭に漫才界に入り、河内家鶴春と結婚した模様。そのため、戦後まで夫の「魚谷」を名乗っていた。

 ここで解せないのは、結婚していたと思しき時代の名簿を見ると「魚谷八重子」という別の名前に置き換わっている点である。どうしたものだろうか。 

 1938年、新興演芸部発足に伴い、同部へ入社。同社の中堅格として、ワカナ・一郎、ラッパ日佐丸ラッキー・セブンなどの人気スターをよく支えた。

 この頃、「浜お柳」と名乗っていた様子が『近代歌舞伎年表』等から伺える。

 以来、新興演芸部解散まで松竹劇場を中心に、新興演芸部系の大劇場に進出する事となる。

 戦後は引き続き鶴春とのコンビで戎橋松竹系の舞台に出演し、堅実な活躍をしていたが、間もなく解消。喜久奴と死に別れた松葉家奴とコンビを組んでいる。

1951年9月27日、「上方演芸会」に出演し、「お笑い馬肥ゆる頃」なる漫才を披露している。以下は同日『読売新聞』に掲載されたラジオ情報。

つづいて松葉家奴と浜お龍のコンビが「スポーツ漫才」をきかせる、奴は最近まで吉奴とコンビだったのでお龍とははじめての出演である

 その後、奴さんと別れ、鶴春とコンビを組み直すも、1950年代に鶴春とコンビを解消し、別居。鶴春は寝屋川に、お龍は大阪市に居を構える、という謎の生活を送っている。

 鶴春とコンビ解消後は、師匠筋の橘家太郎を頼って、トリオ漫才になる。間もなく太郎が一線を退いた為、残った菊春・由惠と共にトリオ漫才を結成。三味線主体の女道楽風漫才を転向する事となる。

 詳しい事情は不明であるが、由惠はほんの一時期「橘太郎」と名乗っていた事がある。いいのだろうか。

 間もなくトリオ漫才ブームに触発されてか、「バンチャガトリオ」なる改称をした。関係者は呆れたそうであるが、お龍たちも「ヤケクソ」という自嘲があったとかなかったとか、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中で、

(上岡)浜お龍さんは、戎橋松竹の出番では河内家鶴春・浜お龍のコンビになっていますが、ぼくらのころは三味線トリオでやってはりましたですね。
米朝 「バチャンガトリオ」というてね。わざわざそんな名前を名のらンでも ええやないかというた。「いや、もうやけクソや」というてな。芸人としての最晩年はお龍さんと藤浪扇太郎という名前の、藤間かなんかの名取で踊りのうまい人と女道楽やってましたわな。

 と、触れられている。

 そのトリオも間もなく解消し、奇人で知られた松葉家奴とコンビを再結成。「東お龍」名義で、奴さんをよく助けた。

 一方で、奴さんの奇行にはよく振り回されたそうで、矢野誠一『昭和の芸人千夜一夜』などを見ると、

 浜お龍とコンビを組んで間もない頃、玉松一郎・ミスワカナ(三代目か)等と共に四国へ巡業に出かけた。さて辿り着いた旅館が四畳一間の相部屋。お龍は夫のある身、しかも相手は奇人と来ている。困惑していると奴さん「押し入れの上下に布団引いて、わしが上、下にお龍さんが寝る。それを代表者が一晩中監視しとったら間違いはおきまい」。
 これにはお龍も呆れて、同行のミスワカナの部屋に泊まる事でその場はうまくまとまった。

 お龍とのコンビ時代、珍しくギャラは折半していた。月末にその時の月収をきっかり折半し、「月給」としたためた封筒に入れ、それを渡すのが恒例であった。
「芸は他人とやってる方が楽やけど、月給は不便や」と口癖のようにいっていた。お龍はこれと言って気に止めることはなかったようだが、二代目喜久奴と一緒になってからは、その口癖がヒートアップ。
 毎月の給料日になると、給料袋を名残惜しそうに取り出し、
「ああもったいな、喜久奴の有り難みがわかるなあ、喜久奴やったらやらんで済む金、お龍はんやとやらなあかん、ああ、もったいな、もったいな……」
 とおもむろに口上を述べた後、
「はい、お龍さん月給や。有難うさん」。
 それが毎月続くものだから、流石のお龍も閉口して、「おろしてください」と奴に頼み、コンビを解消。そのくせ、コンビを解消する事を決意した奴さん、お龍に「退職金」と書いた封筒をポンッと渡した。お龍が中を見ると「五万円」入っていたという。

 この後、なぜか鶴春とコンビを結成し、吉本に参じたものの、すぐ別れた。

 後年、死別したのか、離婚したのか、「武藤」に戻っている。そのくせ、名簿では「武藤八重子」である。解せぬ。 

 その後は、藤浪扇太郎とコンビを結成し、女道楽風の漫才を展開。お龍と扇太郎で仲良く三味線を弾き、音曲をひとくさりやった後、扇太郎が立ち上がってお龍の地にあわせて踊りを踊るというスタイルを確立した。

 派手さこそないものの、滋味のある芸風は好事家に喜ばれたという。

 1971年12月11日、YTVサロン『上方寄席囃子』と称する特別番組に出演。古老たちと共に心ゆくまで至芸を演じた。以下はその出演者と演目。

寄席踊り
花柳芳兵衛『大津絵(忠臣蔵五段目)』
藤浪扇太郎『深川くづし(松井須磨子)』
桂南天『ずぼらん』
落語 橘ノ圓都『掛け取り』
寄席囃子 笑福家松鶴、桂米朝、桂春團治、桂小文枝、池中スエ、岸本テル

 1976年、LPレコード『上方演芸 今は昔 藤本義一が訪ねた天王寺村』で浜おりうと共に音曲を吹き込み。これが一番入手できる資料だろうか。

 上方演芸協会を中心に、堅実な活躍を続けていたが、1979年に扇太郎と死別。以来、特定の相手とコンビを組む事なく、三味線漫談・音曲というべき一人舞台へと変わっていった。

 また、舞台の傍らで、三味線や舞踊といった――五目の先生もして、生計を成り立たせていたという。

 平成と改元した後も時たま舞台に立っていたが、1990年代になると、老齢の為に一線を退いた。詳しい消息が辿れなくなる。

 少なくとも1992年までは健在だったことが、上方演芸協会の名簿から把握する事が出来る。

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