喜利彦山人

上方漫才を彩った人々(仮)

立花幸福・林美津江

立花幸福・林美津江は戦前戦後活躍した漫才師。大柄な美津江が小柄な幸福を振り回すオーソドックスな夫婦漫才を得意とした。漫才師としては古株で、1930年代にはすでに活躍が確認されている。若い頃は古風な芸尽くし萬歳、戦後は音痴な美津江を全面に出したしゃべくりで長い息を保った。
上方漫才を彩った人々(仮)

千代廼家蝶九

千代廼家蝶九は戦前活躍した漫才師。当時の漫才師としては異例の国際派として知られ、渡航に色々と壁のあった戦前当時で三度もアメリカ公演を行っている。横山エンタツをアメリカに手引きしたのは実はこの人でもある。その割に経歴は謎に包まれている。
上方漫才を彩った人々(仮)

吉田奈良夫(二代目)

吉田奈良夫(二代目)は戦前戦後活躍した人物である。純粋な漫才師とはいいがたいが、長らく漫才界隈で活躍した。三代目吉田奈良丸門下からスタートし、漫才、歌謡ショーと転々し、中堅として復帰するものの、遂に売り出す事なく夭折をした。
上方漫才を彩った人々(仮)

ジョージ多田

ジョージ多田は戦後~平成に活躍した奇術師。本格的な奇術を武器に吉本系の寄席で活躍した。漫才師や色物関係者とも仲がよく、晩年まで活躍を続けた。現在も関西で活躍を続けるMr.マサヒロの父としても知られる。
上方漫才を彩った人々(仮)

笑福亭鶴蔵

笑福亭鶴蔵は漫才以前~漫才黎明期に活躍した芸人。本業は四代目笑福亭松鶴門下の落語家であったが、落語以上に掛合噺や喜劇の創作が上手く、長らく吉本の文芸係としても活躍した。春風亭枝雀などと深い関係を持ち、戦前吉本の喜劇ブームの一翼を担った。
上方漫才を彩った人々(仮)

保田春雄

保田春雄は戦後活躍した奇術師・腹話術師。吉本興業や東宝の文芸部社員からプロの奇術師になったという稀有な経歴の持ち主であった。「ドラゴン魔術團」なる一座を率いて大阪奇術界においてセンセーショナルな人気を獲得。また若手の育成にも熱心でジョージ多田、木村フクジなどを輩出した。
上方漫才を彩った人々(仮)

一陽斎蝶一

一陽斎蝶一は戦後活躍した奇術師。一陽斎一門の係累を守り、大掛かりな西洋奇術を得意とした――が、凄まじい粗忽と失敗談を残し、「上方随一の面白奇術師」のあだ名を残すほどの奇人・変人として知られた。その逸話の数々は今なお語り草となっている。
上方漫才を彩った人々(仮)

三遊亭柳枝

三遊亭柳枝は戦前戦後活躍した漫才師。漫才黎明期より活躍し、澤田正二郎や阪東妻三郎の芝居を真似にする漫才で人気を集めた。戦時中はミヤコ蝶々と結婚、数年間の夫としても知られた。戦後は柳枝劇団の座長として活躍。上方柳次・柳太、やなぎ浩二などを育てた。
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赤井タンク

赤井タンクは戦後活躍した漫才師。175センチ85キロという巨漢で、漫画トリオと別れたばかりの青芝フックとコンビを結成し、「フック・タンク」で売っていたことがある。芝居も上手で明るい人であったが40代半ばで夭折した。
上方漫才を彩った人々(仮)

加藤瀧子

加藤瀧子は戦前活躍した漫才師。砂川捨丸の初期の相方として活躍し、数多くのレコードを残した。大変な芸達者として知られ、戦前における女流漫才の大御所であったというが、最期はトラブルに巻き込まれて殺されたという。

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