翠みち代

翠みち代

 人 物

 みどり みち 
 ・本 名 黒川 由紀江(旧姓・内田)
 ・生没年 1935年3月27日~2018年2月11日
 ・出身地 東京 五反田

 来 歴

 翠みち代は戦後関西で活躍した女流声帯模写芸人。数少ない女声帯模写として第一線で活躍した。芸能一家出身としても知られ、兄は江口紘三郎、義理の姪に泉ピン子がおり、2025年現在も第一線で活躍する落語家の桂福團治は夫、桂福若は息子である。

 福團治と親しい前田憲司氏によると「江口紘三郎の実の妹」であるという。幼い頃から兄が浪曲師であった関係もあり、芸能界とは縁深かった。

 一方、親からは堅実な未来を望まれたらしく、エリート校であった都立三田高校に進学している。夫の福團治が『上方芸能』(1997年5月号)に提供した聞書き『パートナー讃か』によると――

 都立三田高校へ入学したころは、彼女、弁護士志望でしたんやて。それが美空ひばりさんのファンで、歌まねを始め、やがては歌舞伎や新派の役者さんの声色もするようになった。ラジオの素人参加番組に出て賞金かせぎをしたりするうち、地方巡業の一座に加わって、物真似のセミプロみたいになったんです。えらい方向転換ですやろわら。公演で大阪へ来た時に、松竹芸能の勝忠男社長にスカウトされ、角座へ出るようになった。その楽屋で私と知り合うたんです。

 在学中、民間放送の放映が始まり、のど自慢ブームが起こった。これを機に由紀江はのど自慢大会に出るようになり、のど自慢荒らしとして知られるようになった。美声であったことから女性の物真似を得意とし、のど自慢の賞金だけで相当な稼ぎがあったという。

 高校卒業後はしばらくの間働いていたらしいが、のど自慢の方が熱心だったようで、30近くなってプロの芸人に転身。旅回りの一座に飛び込んで物まねを演じるようになった。

 1965年、大阪の松竹芸能に見初められて専属となる。同年4月、角座で早くも初舞台を踏んでいる。

『週刊新潮』(1965年5月3日号)掲載の「プロになった女”道場荒らし”」という記事に――

“物真似コンクール”の道場荒らしと放送関係者にさわがれた女性が、いまプロとして道頓堀・角座に初出演している。その名を椿みちよ。女で声帯模写を専門にするのは彼女が初めて。”春の傑作爆笑大会”とあって「ゴジラの親類みたいな芸人が多い」だけに、若いキレイな女性の登場は珍しがられている。
 彼女は東京五反田生まれ。コンクールで合格の鐘を鳴らした数は「自分でも数えきれない」くらいだというが、いま高座にかけている七人のうち、声色では大江美智子と若水ヤエ子が一番似ている。若水の女中ごえで『明治一代女』を聞かせ、拍手を浴びているが、相手の中村錦之助の声はどうもいただけない。結局、受けているのは「この女の声色屋、美人やな」といった色どりらしいが、やはり顔に似合わず舞台度胸は万点。ただし、当人は「心臓つよいといわれれば、その通りですが、これでも本当はテレやで恥ずかしがりやなんですよ。テレビにあまり出なかったのも、顔みられて合格しなければ恥ずかしいと思ったからです。道場荒らしなんて、むごいいい方ですよね」と反論している。

 その後はしばらくの間、松竹の大劇場に出演。角座、神戸松竹座、浪花座などがホームであったという。

 当時、声帯模写が少ない事もあり、絶大な人気を誇った。寄席にとどまらずテレビやラジオ、キャバレーなどの仕事も多く、スターのような扱いを受けた。

 川勝敏夫というアコーディオン奏者を伴奏につけ、美空ひばりや島倉千代子の歌声まで器用に真似た。

 松竹入社後まもなく、若手落語家の桂小春と結婚。妻として家庭を支えながら、高座に出続けた。

 その頃の稼ぎは夫よりもすさまじかったようで、家計はみち代が握っていたという。これは夫も認める所で、『パートナー讃か』に――

「結婚したころは彼女の方が売れてましたし、出番も私は午前中やのに、女房は昼から、それでも芸種が違いますから、ライバル意識はなかったです。とは言うものの、ギャラの桁は違うし、ほんまのとこは情けなかった(笑)」

 1969年3月には長男・桂福若が誕生している。

 1969年に吉本興業へ移籍。「翠みち代」と改称している。吉本移籍に当たっては、島田洋介・今喜多代を頼ったそうで、一部文献では「洋介・喜多代門下」と記されたりする。

 当時、演芸部門の主戦力が少なかっただけに、みち代はすぐさま一枚看板に回され、厚遇を受けた。

 1970年代の吉本ポスターを見ると笑福亭仁鶴、林家小染、人生幸朗・生恵幸子、中田ダイマル・ラケット、Wヤングなどと同列の扱いをうけている。

 夫の福團治が喉ポリープで一時休業をしたり、スランプに陥る中でも夫をよく支えた。

 この頃、次男・晃次が誕生している。二人の子を抱え、夫の面倒も見ていたというのだから相当なものである。

 そうした苦労のかいあって福團治は復活し、1981年には上方お笑い大賞功労賞を受賞。『相羽秋夫の演芸落ち穂拾い』の中で――

ユニークな人物模写翠みち代
 桂福団治は、昨年の暮れ、「上方お笑い大賞功労賞」に輝いた。その副賞三十万円の使い道をきかれて、
「へい、うちの嫁はんが欲しがっていたダブルベッドを買うてやろうと思とりまんねん」
と語った。
 そのダブルベッドに眠る主が、関西で唯一の女流声帯模写翠みち代だ。
 福団治の倍もあろうかというグラマラスな体躯。あれでは普通サイズのベッドでは不便をかこつこと請け合いだ。
 だから、福団治とみち代が二人で寝るためにダブルベッドを買うのではない。
 あらぬ邪推をする人がいるといけないから、あえてこの点を強調しておこう。
 さて、女流ものまねの彼女の存在は、関西演芸界で貴重である。
 なぜかこの分野に女性が育たなかったが、彼女はもうかれこれ二十年近くもの長期にわたって、男性のやらないユニークな人物の模写を続けてきた。
 若水ヤエ子、島倉千代子、美空ひばり、浦辺粂子……。
 彼女の大ぶりのジェスチャーのなかに、こういった人たちが躍動する。
 ちなみにみち代は、泉ピン子の叔母にあたり、芸界のいろはをピン子に教えたのも彼女だ。
 ダブルベッドに寝て、いま以上に愉快で楽しい声帯模写を編み出して欲しい。

 と記されている。

 夫の復活と前後して次男が白血病に罹患し、入院生活を送るようになった。当時、白血病になすすべはなく、息子は1982年に8歳の若さで亡くなっている。一家は大変なショックを受けたという。

 1983年11月11日にはうめだ花月で福團治・みち代夫婦会を行っている。福團治が別事務所の劇場に出られたのは珍しい出来事であった。

 息子の死を乗り越えて平成以降も吉本の一枚看板で活躍。MANZAIブーム、ダウンタウン世代の勃興などあっても看板を揺るぐことなく守り抜いた。

 吉本・演芸協会の中では非常に面倒見がよいとして知られ、NSC出身の若手たちにも分け隔てなく接したという。行儀には厳しい一方で、仕事や世話の面倒を見るなど、よき姉御として知られたという。

 さらに浪曲三味線の虹友美を演芸協会入会の骨折りをする、岡本貞子を紹介して浪曲三味線を勧めるなど、影の功労もたくさんある。

 2000年代に入ると老齢ということもあり、余り高座に上がらなくなった。吉本の劇場が変わったというのもあるのだろう。

 それでも演芸協会の公演などには列席するなど、存在感を発揮していた。

 2009年1月9日~12日、国立文楽劇場小ホールで開催された上方演芸特選会に出演したのが最後の大舞台だった模様か。

 晩年は足を悪くしたそうで、2015年頃より介護施設で暮らしていた。夫や家族の支援を受けながら静かな余生を送っていた。当人は「足がよくなったらまた舞台へ」と張り切っていたという。

 2018年1月末、体調不良を訴えて入院。検査の結果、「末期の胃がん」であったという。ガンは肺にも転移していた。

 それから間もなくガンの悪化のために死去。82歳であった。臨終には福團治をはじめ、家族が看取ったという。

『スポニチアネックス』(2018年2月15日号)に訃報が出ている。

 漫談や歌手の声帯、形態模写で活躍した女性芸人の翠みち代(みどり・みちよ、本名黒川由紀江=くろかわ・ゆきえ)さんが11日午前2時16分、肺がんのため大阪市内の病院で死去した。82歳。東京都出身。葬儀・告別式は大阪市内の斎場で近親者のみで営まれた。

 

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