五條家松枝

家松枝

菊二・松枝時代(右が松枝)

 人 物

 五條家ごじょうや 松枝まつえ
 ・本 名 清水 まつの
 ・生没年 1909年4月25日~1990年2月3日
 ・出身地 
大阪市(兵庫県佐用郡生まれ?)

  来 歴

 五條家松枝は戦前戦後活躍した漫才師。義太夫漫才という特異な芸を得意とし、夫の菊二と共に義太夫や新内、俗曲などを唄う古風な漫才を得意とした。当人も女流義太夫の第一人者であった。

 最晩年に掲載した『日本演芸家名鑑』に経歴が出ている。

五条家松枝
芸種 漫才 

本名 清水まつの 
生年月日 明治42年4月25日 
出身地 大阪府大阪市

〈ぷろふぃーる〉
・女義太夫竹本春駒の弟子となり、竹本琴八を名のる
・昭和14年 五条家菊二の妻となり漫才に転向
・その後、浪花家市松、花柳つばめらとコンビを組んだが、再び夫の菊二とコンビ復活

 一方、これまた最晩年の1985年に出された井上理津子『女・仕事』の記事では――

 五條屋松枝 本名清水まつの。一九〇九(明治22)年、兵庫県佐用郡生まれ。尋常小学校卒業後、娘義太夫の道に入る。漫才師・五條屋菊二との結婚を機に漫才 に転向。現在の相方・吉原つばめとは二十年来のコンビ。京都市内で息子と同居
 趣味:「毛糸編むこと」
 働くとは:「今は金儲けとちごて、楽しみ」

 と別の事を言っている。どうも生まれは兵庫であるが、修業先が大阪だった関係から大阪生まれを自称していたのだろうか。

 井上理津子『女・仕事』によると、幼い頃から三味線が好きで、三味線を使う仕事を夢見ていたという。

 漫才になぜ浄瑠璃? と思われるだろうが、松枝師匠はそもそも娘義太夫の世界から漫才に移ったという、漫才界の最古参。兵庫県佐用郡に生まれて、九つの頃から三味線狂い。「もう好きで、好きで。床屋の兄チャンの持ってる三味線借りて、ペンペコ、ペンペコ弾いとった」。門付けの新内流しのおばさんをつかまえては習ったというのが十歳をいくつも越えぬ頃のこと。
 その後、竹本春駒太夫に弟子入りして本格修業し、折からの娘義太夫ブームにのって、十年ほどは待着けて見台の前に坐った。その少しあと亡き夫・五條屋菊二に出会って、漫才コンビを組むに至ったのである。得意の義太夫をはめ こんだ義太夫漫才。これがうけた。

 『国立劇場演芸場』(1984年1月号)掲載の『寄席芸能の現状』にも詳しい経歴が出ていた。

 義太夫の本拠の文楽ですら、いまやテレビの中継番組の出演者順に、人形遣いの方が太夫より優先して書かれている世の中である。義太夫愛好家の減少は年を追って目立っているが、そうした風潮に棹さして、トリネタに義太夫を売り物にしている漫才師がいる。五條家松枝さんがその人だ。
 明治四十二年兵庫県の農家の生まれで、物心ついた時、鉄工所に勤めていた長兄を頼って一家で神戸に移住したという。
 父は太鼓饅頭を売ったり、学校の用務員に働き口を求めた。当時、女の子には何か芸事を身につけさせるのが、庶民の親たちの慣習。「男運が悪くとも一人で生計を立てられる」という心づかい からだ。とはいっても家の事情から立派なお師匠さんにつけるわけにはいかない。そんなある日、 門付けの義太夫語りがやってきたのをみて、父は小学生の松枝さんを連れ出して、義太夫の手ほどきを頼みこんだ。
 松枝さんは夕食を終えると稽古に通った。

「『酒屋』などいくつか教わりましたが、お師匠さん、昼間の疲れもあって稽古中居眠りすること が多くて、子供心にも嫌気がさしましてね」。そこで母の姉が義太夫をやっていたつてをえて、竹本栄之助という女義太夫のお師匠さんに鞍替した。だが、小学校を終える頃には栄之助さんが「私の手におえなくなった」と、先代竹本春子太夫の弟子の竹本春駒さんにバトン・タッチされた。この人はギネスブックに、世界最長老のエンターテナーとして掲載されて話題になった九十三 歳の現役・豊沢団司さんと同期生。宝塚歌劇の舞踊の名手だった天津乙女の踊りの演奏をしたこともあるそうだ。

尋常小学校卒業後、当時売り出しの女義太夫の竹本春駒へ入門。「竹本駒千代」と名付けられ、高座に出るようになった。

 竹本春駒は大変人気のある女流義太夫太夫で、松枝の姉弟子には女流義太夫の名手と謳われた竹本越駒、妹弟子には2024年現在、義太夫界の最長老として第一線を走る竹本駒之助がいる。

 師匠・春駒や豊竹團司に可愛がられて少女義太夫語りとして活躍。一時は春駒に認められ、春駒の師匠であった大阪義太夫界の重鎮・竹本春子太夫の内弟子にまでなっている。

 春子太夫は二代目春子太夫のことだろう。名人と謳われた竹本大隅太夫の弟子で、「春子節」という独特の風格と情を持った語り口で明治から大正末までの義太夫界を代表する存在となっていた。

 春子太夫の引き立てを受けて出世するお膳立てをたてられたが、春子太夫に肉体関係を迫られたことに嫌気がさして家出。これがもとで春子太夫と春駒の間にも確執が生まれてしまい、松枝は「駒千代」の名を返上して独立することとなった。『寄席芸能の現状』曰く――

 団司さんとはよく一座を組んで地方巡演したことがあり、松枝さんも竹本駒千代を名乗って時折同行を許された。そうした実績を認められて、大阪の「因会」に義太夫のプロとして登録されるが、十九歳の時、駒千代の名を返上して独立した。この裏には春駒さんのすすめで大師匠筋の春子太夫の許で内弟子生活をしていたある夜、師弟の関係をこえてせまる大師匠におじけづいて飛び出し、師春駒さんとの仲もこじれたからだ。
 春子太夫の家を出た松枝さんは、駒千代から琴八と改名、十二歳年上の竹本京枝改め琴千代さんを相手に神戸・新開地にあった千代廼座に出演した。「琴千代さんの三味線で私が太夫、女義太夫の活気のある頃で、十年余り居続けました」。二人がコンビを解消したのは松枝さんが五條家菊二さんと結婚、漫才に転向してからだ。

 長らく女義太夫として高座に出ていたが、女義太夫が衰退するようになると、寄席に出るようになった。

 ある時、神戸の千代廼座に専属に近い形で買われて、暫くの間興行をやっていた。そこで知り合ったの五条家菊二であった。二人は恋に落ち、駆け落ち同然にそのまま結婚してしまった。

 後に漫談で大成する西條凡児は菊二夫妻の印象を以下のように記している。

五條家菊二・平和ニコニコ 千代之座の色男。番附の一番。端唄や鶯童の百人斬に人気があった。ニコニコ氏との舞台は怖かった。一寸嫌味はあったが、のちにコンビ解消、 彼氏は義太夫の升本琴八と一緒になり、新興へ行った。琴八は当時、私ともめて万才が!と汚そうに云ったが、その万才になった。ヒステリが強くむしろ狂人に近かった。ニコニコ氏は歌楽(花楽)氏と永く千代之座にいた。現在、 六甲にいる。

 1939年、一時的に「菊二・琴八」の名前で高座に出ていたこともある。後に「五条家菊二・琴廼家松枝」と改名。

 1940年頃、新興演芸部に引き抜かれ移籍。その後、子供が出来たりしたこともあり一時的に舞台を退いた模様。

 敗戦直前、菊二の相方・春多楼(流行亭歌麿)が満洲へ行ってしまった事もあり、カムバック。

 戦後、「五條家菊二・松枝」として再出発。松枝が太棹を響かせ、それに合わせて菊二が歌を歌う――という古風な漫才で人気を集めた。

 松枝が義太夫出身だったこともあり、義太夫のネタを唸ることも多かった。また菊二は浪曲が好きで、浪曲のネタをチャンポンにして唸ることもあった。

 トリを取れる派手さはないものの、その堅実な味わいはモタレや中トリにはぴったりであったようで、幹部として遇された。

 1952年4月、コロムビアより『流行歌吹寄せ浄瑠璃』なる漫才を発表。戦後の漫才SPレコードとして記録が残る。内容は「吹き寄せ」の通り、義太夫に合わせて当時の流行歌の歌詞を並べるというもの。

 1959年末に夫婦喧嘩をし、コンビ解消。一説には菊二の不倫とも、夫婦仲の悪化ともいう。当の松枝は菊二亡き後のインタビュー(井上理津子『女・仕事』)の中で―――

 相方の夫は、確かに横ハゲはあったものの水もしたたる好男子。となれば、ついて回るは”女の苦労”。あとは例にもれず浪花の女漫才師の泣き笑い人生という次第。
「そらもうホンマに、次から次へと、バクチはするわ、女遊びはするわ。自分の娘より年下の女とできてみたり。家なんか寄りつきまっかいな。ハア、息子かて娘かて母子家庭で育ったよなもんでっせ(笑)。ほんで、ある時その相手を家に連れて来て、私が知らん思て泊めるゆうたときには堪忍袋の緒が切れましたわいな」

 とボロカス貶している。その上、菊二は京はる子と組んでしまった事もあり、松枝は相方を失ったばかりの浪花家市松とコンビを結成したが、その市松も1962年にポックリ死んでしまった。

 その間にも夫婦仲は悪化し、最終的に松枝が激怒して家出をしてしまったという。『女・仕事』では「家出したりましてん、私。三味線と衣装一枚持って、東京へ」とまで言っている。

 上京後、林家染團治の斡旋で木馬館に出演。

 1969年、染團治の推挙もあり、相方を失って宙ぶらりんになっていた染團治の異母妹・花柳つばめとコンビを組んだ。つばめとは戦前から面識があったという。

 つばめとのコンビでは俗曲や義太夫を生かした「吉原ムード」を出したそうで、「吉原つばめ・松枝」と改名している。つばめがボケ、松枝がツッコみであった。

 いわゆる、古風な女道楽の系統を受け継ぐ芸として、寄席や落語会などにも呼ばれ、根強い人気を集めた。

 1977年6月、木馬館が閉鎖されたのを期に菊二とよりを戻し、「菊二・松枝」のコンビが復活した。

 1983年2月、夫の菊二が膀胱癌で死去。その後は再びつばめとコンビを戻し、つばめが病気がちになるまで舞台に出ていた。

 1985年頃にはすでにつばめが体調を悪くしていたそうで、井上理津子『女・仕事』の中でも――

 苦労し通しで連れ添った夫・菊二も二年前膀胱ガンで他界したあとは、好きな漫才を気の合う相方とボチボチやっていけば、と思っていた。「けど、ちょっと前から、つばめさん入院してまんねん。私、毎日世話に行ってるんですけどな、調子ええとき病院で〈野崎参り〉やら〈堀川猿回し〉やら演ったるんですわ。看護婦さんに内緒でコソッとな」。相方には何よりの励まし。同部屋の人が喜んでくれれば”芸人魂”がうずく。
「はよ良うなって退院してもらわんと。私、つばめさん一所懸命に世話しもっていうんですわ。『あんた退院しても私に何かしてくれへんかってええねんで。私、貧乏しててもお金もらいたいとか思てへん。私はな、舞台に上がるのがいちばん幸せやねんから、なっ!十五分だけでもええねん。一緒に演ってくれたら、そうしてくれるのんがいちばんうれしいこっちゃねんで』って。私の生き甲斐や、真底そう思てるんですわ」

 1986年4月、相方のつばめが死去。さらに師匠の春駒も1月に亡くなっている。

 それ以降はピンで活動をしていた。

 晩年は女流義太夫の先輩・豊竹団司の頼みで、義太夫のカルチャー教室を開いて、素人相手の義太夫講座で余生を送っていたという。最晩年まで好きな道で生きていけたのは幸いだったといえよう。

 平成の誕生を見届けて間もなく体調を崩し、1990年に81歳で亡くなった。

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