京はる子

京はる子

関係者提供

高座で漫才を熱演する二人

 人 物

 きょう はる子
 ・本 名 福島 治子(後、三浦治子)
 ・生没年 1928年04月06日~2011年12月27日
 ・出身地 大阪

 来 歴 

 戦後活躍した女流漫才師。元は浪曲師であったが、見事な美貌と美声を買われて漫才に転向。漫才界の「京マチ子」と囃されるほどの美貌で受けたという。

 『上方演芸人名鑑』には「昭和3年」とあるが、『著作権年鑑』などには「昭和4年4月6日」とある。ここでは、『上方演芸人名鑑』に誕生日を加味する形で、割り出した。関係者からも同じ発言を頂いたので、多分これであっているだろう。

 父親は末広亭竜丸、母は岡本梅嬢という浪曲一家に生まれ、幼いころから芸事を仕込まれ、7歳の時に、岡本白梅としてデビュー。前田和夫『漫才繁笑記』に経歴が出ているので引用する。

 はる子は末広亭竜丸と岡本梅嬢という浪曲師父母の間に生まれた。七歳にして岡本白梅としてナニがナニンテナントヤラ……をうなった。浪曲一筋に専念したが、菊二のノドの良さに惚れこんで相方となった。

 今日も活躍する岡本貞子は梅嬢の姪――はる子と貞子の二人は親類関係にあたる。

 なお、岡本梅嬢は、初代岡本梅寿軒(小松梅吉・1878年10月15日~?)の弟子で、関西の女流浪曲師の売れっ子であった。

 幼いころから天才少女浪曲師として売り出されたらしく、父母と共に一座を結成し、全国を巡業した。この一座には、親戚の岡本貞子や、ソフトショウの京山幸枝栄が出入りしていたと聞く。

 長らく、浪曲師として一線で活躍を続けてきたが、浪曲人気の低迷や母・梅嬢(1959年・64歳没)の死などを受けて、迷走をしている所へ、けんか別れをしたばかりの五條家菊二(浮気のし過ぎで相方の五條家松枝と大喧嘩をしてコンビを解消した)とコンビを組み、漫才師に転向。

 1960年12月、新花月中席で初舞台――と『上方演芸人名鑑』にある。

 然し、『松竹70年史』には、1960年1月新コンビ、とある。多分であるが、後者が正しいと思われる。

 菊二・松枝時代は、男勝りでハスキーボイスの松枝がなよなよとした菊二にガンガンどやしつけて、相手をてんてこ舞いにする女性優位漫才で人気を集めたが、流石にそういう路線に行くことはできず、はる子の三味線で菊二が都々逸や小唄をひとくさりぶつけたり、はる子が浪曲の一節を聞かせる……という情緒ある音曲漫才を展開した。

 派手さこそないものの、美男美女のコンビで相応の評価をされ、何処に出演しても邪魔にならない芸は高く評価をされたと聞く。貴重な音曲漫才として、市川福治藤浪扇太郎等と共にそこそこに重宝された。

 前田和夫『漫才繁笑記』に――

 菊二・はる子は笑わすことよりノド芸を前に押し立てた。菊二のたんたんとしたしゃべくりを艶っぽく、はる子のお色気がからんで高座は派手さを誇った。
「艶っぽい秘密。そないたいそうなことをいわれるほどのものがおますかいな。ま、これは、わたいの地でっかなァ」と、菊二は何気なく言った、関西のイキさをいっぱい身につけていた芸人。
 そんな菊二にはる子は「工工年をさらしたオッサンが気色の悪い色気を出して……。いくらモー ションかけても、こんなヘナヘナしたオッサンにひっかかる人がおますかいな。そこを芸のためや と思って辛抱してアイヅチをうっているのを知らんと、かわいそうな人ですわ。ま、早い話が引き 立てているのは私ですわ」といった調子でもあった。若いころからの修業のつみ重ねが実ってしっとりした四畳半ムードの芸であった。
 五十七年に菊二は数多くの和芸を残して他界した。
はる子はコンビを解消してから『おしゃべりジャーナル』と称して三味線片手に漫談をやっていたが、現在は元関脇の玉乃海(片男波親方)と結婚、廃業した。

 コンビ解消後、『おしゃべりジャーナル』なる三味線漫談をやっていたというが、すぐに廃業し、以前から交際のあった片男波親方玉乃海太三郎)と電撃結婚。内外の関係者を驚かせたという。

 以降は芸能界から引退し、相撲部屋の女将として、夫をよく支え、弟子たちの面倒を見た。但し、廃業後も嘗ての芸人たちとの交友は続いていたそうで、相撲人との交友を含めて、色々手広く活躍をしていたと聞く。

 余談であるが、夫婦そろって、幼い頃の河内家菊水丸を可愛がっていたそうで、菊水丸本人がこの夫婦の事をブログでたびたび言及している。

 1987年、夫が急死し、未亡人となる。方男波部屋も勢力を失いかけるが、懸命に弟子たちを守り、部屋を守り抜いた。

 夫亡き後は、八尾市に戻り、「ちゃんこふじ」なるちゃんこ屋を経営。姪たちと共に手堅い経営を続けた。今日でも店は現存し、姪がこれを受け継いでいる。

 晩年は、店の経営も成功し、女将として悠々自適の生活をする傍ら、河内家菊水丸のパーティーや村田英雄のパーティーなどに出演して、旧知の仲間と交友を続けていたという。

 関係者によると、2011年12月27日、83歳で没したとの由。なぜかお悔やみサイト「まいり」に生没年が出ている。関係者が記載した模様か。

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