浮世亭柳平

浮世亭柳平

 人 物

 浮世亭うきよてい 柳平りゅうへい
 ・本 名 北村 修
 ・生没年 1925年7月13日~1969年5月22日
 ・出身地 大阪

 来 歴

 浮世亭柳平は戦後活躍した漫才師。元々市電の運転手であったが漫才が好きで、浮世亭一門に入門。弟弟子と組んで「とん平・柳平」として明るいしゃべくり漫才を得意とした。人気はあったものの、胃癌にかかり夭折した。

 経歴は『大阪朝日夕刊』(1966年3月16日号)掲載の「ザイ界紳士録」に詳しい。

「うちの会社では、若手ということになってますねン」
うちの会社――というのは、二人が所属する日本ドリーム観光のことである。なるほどこの会社のタレントは、松鶴家光晴・浮世亭歌楽など、ザイ界の大先輩が多い。この歌楽が二人の師匠である。
柳平はもと市電の運転手の運転手。毎日漫才をやりたいなア…と、うわの空で市電を動かしていると、電車の前へ、ファーッと人の顔が浮かぶ。この顔が、みな彼を見て笑ってくれる観客の顔に見えたというのだから、相当な重症であるより前に、そんな物騒な運転手など、客の方で願い下げである。
やめて歌楽の弟子になった。野田阪神に近い自宅から千日前の戎橋松竹ー師匠の歌楽が出演していたーまで、昨日まで自分が運転して走っていた電車通りを、トコトコ歩いて通った。金がないからである。

 また、『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』では、「同僚と演芸会に出ている内に芸人を志した」という。曰く――

あれと柳平とはどっちもが大阪市の交通局に勤めていてね、交通局の催し物があったりしたら素人漫才で出演していた。それで玄人になりたいというンで、秀児の方は浮世亭夢若はんのところへ行って、で、柳平は浮世亭歌楽さんのところへ入門した。

 この秀児は後に五代目平和日佐丸を襲名し、平和ラッパが没するまでの相方として活躍した。

 さらに山川静夫『上方芸人ばなし』では、バスの車掌もやっていたという。山川は上方演芸会などで、度々出会い、経歴を聞いていたというのであながち嘘ではなさそうである。

柳平は市電の運転手だったが、めしより漫才が好きで、運転しながら考えるのは漫才のことばかり。あまりにも事故が多いので餓になり、地下鉄なら、よそ見せずにやれるだろうと思って地下鉄の改札係になった。「しかし考えてみなはれ、わざわざ穴の中へもぐって、キップに穴をあけるやなんておもろいことおまへんで。キップようやめたった。次はバスのシャショウだァ。社長とちゃうで。けど、これもアカンかった……」。

 戦後まもなく大阪市電に就職し、車掌として活躍。しかし、上の記事にあるように余り真面目ではなかったようである。

 当時売れっ子であった浮世亭歌楽に入門し、「浮世亭おさむ」と名付けられる。師匠の付き人をしながら芸を磨き、弟弟子の浮世亭とん平とコンビを組んだ。

 浮世亭とん平の公式プロフィールだと1955年コンビ結成であるという。

 1956年、千日前大劇の専属となり、若手漫才として活躍。天真爛漫なとん平がボケ倒し、大人びいた柳平がツッコむ――というスタイルで人気を集めた。

 芸風は、織田正吉『笑話の時代 立ち読み演芸館』の「ゆうべの火事」で偲ぶことができる。

 大劇で高い人気を集めた事もあり、千土地興行に入社。千土地の若手として華々しく売り出す事になる。

 マスコミブームという事もあり、司会者としても活躍。当時の関西の演芸番組やラジオでたびたび出演している様子が確認できる。

 漫才師になって間もなく生まれた娘の一人は子役として活躍し、三波春夫や島倉千代子ショーの天才子役として人気を博した。また、柳平は麻雀が非常に強く、大御所歌手や俳優の相手役としても重宝されたという。

 なお、Wikipediaでは「趣味は日本刀の収集であった。」とあるが、これはとん平の事。山川静夫曰く、「キ○ガイに刃物」と芸能界で評判であった――という。

 千日劇場の人気が下火になる頃、体調不良気味になり、1967年にコンビを解消。その後、胃癌が発覚し、闘病をつづけたが44歳の若さで夭折した。

 相羽秋夫『惜別お笑い人』によると、戒名は「廣悟修道信士」という。

コメント

You cannot copy content of this page

タイトルとURLをコピーしました