求む、泉虹天(+嘘つき筆者の言い訳)

人 物
・本 名 泉名 貞次?
・生没年 1921年10月31日?
・出身地 東京?
今から言うそれは苦言でも煽りでもなく、単純な要望であると同時に「こういわれても打つ手がない」という筆者の嘆きである。
4年以上前に筆者は電子書籍で紙切り考の本を出した。それはまあいい。その評価が低いので見てみたら、泉虹天のご遺族という人が低評価レビューを書かれていた。
高松虹天はひいお爺ちゃん、泉虹天はお爺ちゃん、高松虹菊は私の母ですが、内容が間違いだらけで驚きました。母はまだ健在なので、聞きに来たらどうでしょうか?
とある。低評価は致し方ないものであり、大変ありがたい申し出である反面、なんでこれをAmazonレビューという返信の出来ない代物に書き込んでしまったのか。
筆者の名前を引けばサイトは色々と繋がるようにしているつもりである。目安箱もあり、XやFacebookのメッセンジャーも開放している。メールも半ば解放済みである。
「母に聞いたらどうでしょうか?」と言われてもどう連絡を取ればいいのだろうか。御母堂と思しき顔写真は出ているが、これだけでは当方どうにも手の打ちようがない。
そして、筆者がSNSにこの女性の写真を無断にあげて「この人のプロフィールや住所教えろ!」といったものなら、筆者が不謹慎警察にしょっ引かれない。
昔みたいに独断で電話をかけたり、無断で尋ね人でもやろうものなら、こちらのプライバシーが問われる事態となっている。
そもそも、泉虹天や高松虹天に関しては謎が多い。今なお筆者はこれについて悩み続けている。資料がない手前、細かい細かい資料まで何とか絞り出して、一筋の線にしようとしているような有様である。
煽りでもクレームでもなく、本当の要望なのだが、「詳しい話を身内に聞いたらどうでしょうか?」と啖呵を切っていただいた手前、筆者に高松虹天・泉虹天の真実をみっちりご教示賜りたい。
繰り返すが、これは煽りでも皮肉でもない。この後も高松虹天や泉虹天のことは書くつもりであるし、本にする算段も立てている。
「神保喜利彦は間違った嘘を書いている」とご遺族から批判なされるのは仕方ないことであるが、「虹天の真実を知ってほしい」「虹天のウソを書かないでいただきたい」というならば、ご遺族のご証言いただけなければこちらは事実を更新できないのである。
ただ、漠然と批判された所で、筆者は手元にあるカードでしか論じることができない――と自己弁護をするよりほかはない。
ご遺族から見たこちらの高松虹天・泉虹天の経歴はさぞバカバカしく穴が多いものに見えることだろうが、生没年はおろか経歴さえもまともに表に出されておらず、参考にできるデータや証言もなければ何もできない。
漠然に批判はするけど、先祖のことを書いてほしいし、でも嘘ついてほしくはない、でも教える気はない――というのではこちらも困ってしまう。
これから記すそれは当方が文献資料や芸人関係者から聞いた「事実誤認のある経歴」である。もし、ご覧いただけるのならば是非とも泉虹天の経歴の過ちを正していただきたいものである。これは本当にお願いする次第である。
連絡先は kirihiko.manzai☆gmail.com
であります。
来 歴
泉虹天は戦後大阪で活躍した紙切り芸人。数少ない大阪中心の紙切り師であった。従来の
公式プロフィールは『日本演芸家名鑑』に詳しく出ている。曰く、「泉虹天 本名・泉名貞次、1921年10月31日生れ。東京都台東区出身。」云々。
経歴は、『週刊読売』(1981年1月18日号)掲載の「新春奉納極付珍芸」に、詳しく出ている。
紙切りの早業にかけてはこの人の右に出る者はいないといわれる泉虹天師匠は今年のトシ男で六十歳。紙切りというのはご存じ、はさみで器用に物の形を切り抜く芸でおますけど、虹天師匠は「ただの紙切りやった遅いかいかだけの違いで誰にもやれるやないかいな」といわはるぐらいで、チンタラとただ紙を切るだけの芸やない。”紙切りジャグラー(曲芸)”つまり曲芸をしながら紙を切らはります。
紙切りでは名人といわれた東京の高松虹天師匠(五十三年、九十歳で没)の長男で、六歳の時から奇術、紙切り、曲芸などを教え込まれたそうですが、父の下ではうだつが上がらんということで、昭和二十六年に妻の美佐子はん(六〇)と大阪へ飛び出してきはった。
「当時は大阪で芸ができたらいっぱしの芸人といわれたもんで、決して都落ちやなかったんです。町の映画館で五分間の休憩時間に頼み込んで舞台へ上げてもらいまして、お客さんに知ってもらうことから始めましてな。食べてこられたのは大阪という町のおかげ。なにしろ市場へ行けば魚の骨を売ってくれる土地でしたさかい」
という苦労をなめてはる。で、その芸でおますが、卵が回転している二、三十秒の間に客のリクエストに応じるといった芸は序の口。
すごいのはテーブルの上にガラスコップを積み上げ、てっぺんに一升びんを立てて乗っかるとびんごと一回転。この間に手のほうはチョキチョキと動いているという芸でおます。バランスを崩して転落すると、テーブルの四方には出刃包丁が刃先を上にして突っ立ててあるので、目もあてられん大惨事になりますな。
「時々失敗しますねん。これまでにも前歯十八本折ったし、右腕と背中二か所に包丁が刺さったことがおますけど、こういう芸をやらんと、やったという気がせんのです」
という師匠に、美佐子夫人は「頼むさかい、やめといて」と、手を合わせたはります。
『日本演芸家名鑑』では「昭和26年まで父の東京高松舞踊劇団で働く」とある。
父・高松虹天は自身の略歴によると「栃木県の生まれで、鉄道学校卒業後に鉄道学校に勤めていたが、奇術師になった」という人物であったという。本名は高松甲子男というらしい。
ただ、ご遺族の書き方を見ると「誤りがある」とのことなのでどこまで信頼していいことやら。
東京生まれ、東京育ちという特異な経歴、見ごたえのある芸もあってか、どこにも所属せずに独立独歩で活躍した。
そのため、「てんのじ村」の芸人と親しくてんのじ村在住ではないにもかかわらず、そこにカウントされることがあった。辻脇保夫『てんのじ村の芸人さん』でも、体育館で紙切を演じる泉虹天の姿を確認する事ができる。
関西を中心に忙しく働いていたそうで、長らくキャバレーや余興の人気者だったらしい。賑やかな所で鍛錬を積んだ関係から、お色気や凝りに凝った作品、お題の方に力を入れた。
司会や曲芸もこなしたため、いわゆるマルチタレントとしても活躍した。
とにかく見栄えのある派手な芸を得意とし、寄席よりも広い会場や余興の方で才能を開花させた稀有な芸人だった。
基本的には大劇場には出演しなかったというが、トップホットシアターや大須演芸場など、所属先が無くても出られる寄席や舞台には出ていた。
また、独立独歩の無所属を貫いたが、巡業や余興のよしみから、関西芸能親和協会に招かれ、同会に所属。この会が事実上、虹天の窓口になっていたともいう。
その物珍しい芸風から、昭和末から平成にかけて何回かテレビや特別な会にも出演。
1990年4月30日、朝日放送の「午後の部・古今東西!一芸名人博覧会」に出演し、紙切りジャグラーを演じている。これはワッハ上方で見られたはずである。
平成に入った後は一度病気で倒れ、療養していたらしいが(『演芸連合』などの記載)、リハビリの末に復帰。最後まで舞台に立っていた。
永らく門真市に居を構えていたようだが、1994年に和泉へ転居した様子が『演芸連合』に出ている。これが目下最後の消息である。


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