海乃ワカメ

海乃ワカメ

海乃ワカメ

 人 物

 海乃うみの ワカメ
 ・本 名 佐々木 希於子
 ・生没年 1928年~1982年5月
 ・出身地 鳥取?

 来 歴

天才漫才師と称された初代ミスワカナの実娘。自身も「ミスワカナ」と称したことがある。女優、漫才師、コメディアンと活躍したが母以上の活躍は残せず引退。交通事故で急逝するという悲劇の最期を遂げた。

父親はワカナが鳥取時代に結婚していた玉子家金之助だという。玉松一郎は養父に当たる(後にワカナと一郎は離婚したがワカナ没後も一郎は義娘の動向を気にしていた)。

ワカナの娘として生まれるが、ワカナは両親が無理やり決めた結婚を嫌がっており、娘を産んで間もなく故郷を飛び出し、玉松一郎と共に駆け落ちしてしまった。

そのため、希於子はワカナの姉の手で育てられた。ワカナの姉は京都にいたため、そこで育ったのだろう。

後にワカナは漫才師として成功し、関西へ凱旋してきたこともあり生母と再会した。

日本一の漫才師を親に持った希於子であったが、若い頃は漫才嫌いでワカナからの勧めや提案はことごとく断っていたという。

ワカナも娘の無関心にはほとほと弱り、「希於は漫才に見向きもせん」と嘆いたという。

一方、芸人一家で生まれ育ったこともあり芝居や新派には興味を持ち、劇場には出入りしていた。

旧制女学校二年生まで進んだものの、出世よりも役者の夢を描くようになり、学校を飛び出して演劇界へと飛び込んだ。ワカナも叔母も猛反対したというがこれを押し切った。

1942年頃、正式に歌舞伎界へ入り、中村喜代子の芸名で舞台に立った。大スターの娘のデビューということもあり、新聞でも大々的に報じられた。『東京新聞』(1942年11月12日号)に――

ワカナの十五になる娘が漫才ではない舞台女優へ
今月の大阪道頓堀の角座、写生劇と関西歌舞伎合同興行の『町の歌』に、佐兵衛娘おさよの役を勤める中村喜代子といふ子が、玉松ワカナの娘だといふ事で話題になつてゐる
彼女今年十五歳本名は桑原きよ子、玉松一郎より前の夫との間に生れたが、当時ワカナが未だ修業中の余りに若い母だつたため、ワカナの姉さんが引取つて子供として育て、土地の女学校の二年まで進んだが、血は争へないもので、舞台へ立ちたくてならず、産みと育ての二人の母親の反対を口説き落として、漫才ではなく、女優として舞台に立つ〇〇が叶つたといふ譯
しかもきまつた師匠といふものは取らず、すつかり彼女を氣に入つた大阪白井會長夫人のお声がかりで、梅玉の弟子の中村福二郎がついて、楽屋の一切を世話してゐるといふ行き方である、そしてワカナに似た面立で頗る〇〇な、水谷八重子ではなくて『ウチ翫雀さんんのやうに出世したいワ』と云ふのだから、これも變つてゐる

 その後は主に大阪の舞台を中心に子役・娘役として出演。歌舞伎のみならず新派の舞台などにも出た模様。

戦後も引き続き歌舞伎中心に大舞台に出ており、1945年11月、大阪歌舞伎座の『土の人』、1946年1月、南座の『紺屋のおろく』、1946年10月、南座の『夕霧伊左衛門』などに「中村喜代子」の名義で出勤している。

1946年10月、母のミスワカナが急死。心の支えを失ってしまった。

多忙やショックもあり、母同様一時はヒロポン中毒になりかけたが何とか持ち直したという。

一方、子役や娘役としては育ちすぎてしまったこと、上方歌舞伎が衰退して思うような活動ができなくなった。

そこに相方を失い、色々悩んでいた玉松一郎から「漫才師にならないか」と誘われた。色々悩んだようだが、元々漫才界とつながりの深かった希於子は漫才の世界に入った。

一郎は林田五郎とコンビ別れしたばかりの柳家雪江を紹介し、二人はコンビを組んだ。「柳家雪江・玉松ワカナ」と名乗る。

達者な雪江にリードしてもらう形で漫才術を学ぶ予定だったらしいが、当時の観客から見れば「素人娘が駄々こねているような舞台」だったという。

さらに便宜的に玉松一郎と組むこともあったようで、番組ごとに名前が違っていたりする。ややこしいことこの上ない。

1950年9月、戎橋松竹中席において襲名披露を実施。正式に「二代目ミスワカナ」と称するようになった。なお、今日ではミヤコ蝶々も加えて「三代目」と記されることが多い。戎橋松竹では襲名披露が開催された。

漫才 秋田右女助・右女菊
漫才 夢路いとし・喜味こいし
漫才 流行亭歌麿・八千代
漫談 花月亭九里丸
漫才 矢代セブン・香島ラッキー
東京落語 三遊亭圓遊
漫才 芦の家雁玉・林田十郎
中村喜代子改メ二代目ミスワカナ襲名口上
漫才 ミスワカナ・柳家雪江
漫才 浪花家市松・芳子
漫才 都家文雄・静代
曲芸 宝家和楽

 大幹部勢揃いの口上までついた大掛かりな襲名披露公演ということもあり、前途が期待されたものの等の喜代子は漫才嫌いが続いていた。

1951年、義父の玉松一郎とコンビを結成。

漫才に対する熱意は賛否あったというものの、ミスワカナという威光も相まって待遇は悪くなかった。

母同様、一郎がアコーデオンを弾き、ワカナが歌うというスタイルだったというが残念ながら母親ほどの人気を得るには至らなかった。

1950年代半ばにはすでに漫才廃業を考え始めており、間もなく玉松一郎とコンビを解消。漫才界を去った。

その後は「佐々木希於子」と改名して女優に復帰。

1958年3月、南座で開催された「ミスワカナ追善興行漫才顔見世大会」に、ミスワカナの遺児として口上に列席。他の出演者は砂川捨丸、都家文雄、花月亭九里丸、芦の家雁玉・林田十郎、玉松一郎、ミスワカサ・島ひろし、河内家鶴春

1959年秋、玉松一郎の紹介で吉本興業に入社。吉本新喜劇の女優となる。雷門五郎や笑福亭松之助の相手役として活躍した。 

1961年、松竹芸能へ移籍。同年7月結成の松竹とんぼり座に参加して、角座へ出るようになった。

数年ほど喜劇女優として活躍していたがとんぼり座解散に伴い、一時期芸能界を退いた模様。『吉本新喜劇名場面集』では「結婚して九州に引越した」とある。

しばらく結婚生活を送っていたが、芸能界に復帰。相羽秋夫『上方演芸家名鑑』によると「かしまし娘の説得で復帰した」云々とある。
 その後、松竹芸能に復帰し、当時相方を失ってピンで活動していた浮世亭とん平とコンビを組む。

1975年正月、浮世亭とん平とコンビを組む。

松竹芸能の後見や浮世亭とん平の奮闘もあり、「実力派コンビの誕生」と期待されたというが、わずか半年でコンビを解消。

以降は芸能界を辞め、大阪市内にスナックを開店。そこの女将におさまっていたが、最期は交通事故に遭い急逝を遂げたと聞く。

香川登枝緒は『マンスリーよしもと』(1982年9月号)の中でこんな噂話を記している。

初代ワカナの実子の希於子は、一たんワカナを継いでいながら、何故か海乃ワカメという芸名で浮世亭とん平とコンビを組んだが、これまた永続しなかった。
「会社の人がつけはったんですけど、 ワカメという名はイヤですねん。お母ちゃん(初代ワカナ)のお弟子のワカメさんが前線慰問に行った帰りに、敵の潜水艦に攻撃されて台湾海峡で死にやはったんです。ゲンの悪い名前をつけてもろたわ」と、とん平とのコンピを組んだ直後に彼女は眉をひそめていたから、ワカ・とんコンビが短命で終ったのも無理はないだろう。
 ところが・・・その後しばらく消息のわからなかった、その希於ちゃんがつい最近に、交通事故で亡ったというのだ。 たよりの伝聞で詳細は不明だが、先代ワカメと同様に畳の上の死でないことは間違いがないだろう。思えば不思議な因縁である。

 なお、没年は『上方芸能』掲載の「角座の25年と漫才のこれから」に「ミスワカメ(57年5月)」とあるのが確認できる。芸能関係者が書いたので信憑性はありそうである。

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