のらくろショウ(櫻山のらくろ)

のらくろショウ(右端がのらくろ?)
人 物
櫻山 のらくろ
・本 名 ??
・生没年 1908年~1963年5月5日
・出身地
来 歴
櫻山のらくろは戦前・戦後活躍した漫才師。妻は二代目菅原家千代丸。「のらくろショウ」と称する歌謡グループを率いて人気を博した。
花月亭九里丸『笑根系図』によると元々は「曾我廼家艶笑」と称する喜劇役者だったという。
1930年代に漫才界へ進出し、櫻山源丸に入門。「のらくろ」と称した。芸名の由来は当時大ヒットを飛ばしていた田川水泡原作の『のらくろ』だろう。
師匠から一本立ちした後は兄弟弟子の櫻山ガソリンとコンビを結成し、「ガソリン・のらくろ」となる。ガソリンは後に「我曾林」と改名し、東京漫才の一員として活躍した。
戦前は新興演芸部に所属し、新人枠として高座に出ていた。当時のパンフレットなどを見ると「剣戟漫才」とある。派手なアクションでも得意としたのだろうか。
戦時中、菅原家千代丸の娘の菅原家千代丸嬢と結婚。夫婦で一時期活動していたという。
戦後、一座で楽器をそろえて歌謡漫談を演じる「のらくろショウ」を結成。アコーディオン、三味線、ラッパ、ドラム、ギターなどが並ぶ大所帯であり、寄席よりも劇場や地方巡業で高い人気を誇ったという。
一時期のメンバーには古川一郎・二三子の古川一郎、花くれない・中山たかしの中山たかしなどもいた。
巡業が得意だけに芸人との交流も広く、色々と顔が利いた。父に死なれ、少年漫才師としてもトウが立ち、極貧同然で地方を巡業していた若井はんじ・けんじを上方漫才界にカムバックさせるキッカケを作ったのはこののらくろであったという。
山川静夫は『上方芸人ばなし』の中ではんじ・けんじから聞いた話を次のように紹介している。
こうした福児・笑児時代の苦難の旅をぬけ出す日がやがて来る。父荒川久丸の友人で「のらくろショー」をひきいていたのらくろが兄弟に目をつけて、
「お前らがそんなことをいつまでもしとっては親父かて浮ばれんやろ、大阪の漫才も復興したんやきかい、ちゃんとした芸を身につけて大阪へ早よ帰って来い」
と手をさしのべたのである。
二人はのらくろの意見にしたがって、ひとまず金沢のヘルスセンターで、大阪の漫才に復帰するために稽古を重ねた。団体客がステージに見むきもせずに酔って蛮声をあげても決して舞台を投げることなく歌を歌い話術をみがいた。新川二郎もこの頃一緒に下積みの歌を歌っていたらしい。
また、若井はんじは一時期のらくろショウの一員として加入し、売り出すまでの間ここで食っていたこともあるという。
のらくろの声がけがなければはんじ・けんじは一生流浪の旅に出たままではなかっただろうか。
1960年にはんじ・けんじは本格的に復帰し、一躍人気漫才師として一世を風靡することとなった。
その後ものらくろは一座を率いて巡業を中心に活動を続けていたが、1963年5月5日、巡業先の鹿児島で倒れそのまま息を引き取ったという。
吉田留三郎の調査メモで没年が発覚した。


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