菅原家千代丸

人 物
菅原家 千代丸
・本 名 ??
・生没年 1883年?~1941年?
・出身地 ??
来 歴
菅原家千代丸は漫才黎明期に活躍した漫才師。玉子家圓辰の高弟で菅原家という一派を立ち上げた。芸名の由来は『菅原伝授手習鑑』の松王女房千代からだろう。エンタツ・アチャコ両人と関係のある人物でもある。
前歴は謎まみれである。玉子家圓辰が明治末に漫才で一家を成した際には既に関与していたらしいが不明。1920年代に入ってきた荒川清丸によると「先輩」とのことなので、明治末からやっていた可能性はある。
元々、玉子家千代丸という名前だったらしいが、大正期に独立して「菅原家千代丸」となる。弟子たちには基本的に菅原伝授手習鑑にちなんだ芸名をつけることが多く、「梅王」「松王」「桜丸」というような芸人も普通にいたという。
昔の漫才師らしく相方を転々とした。確認できるだけでも菅原家利三丸、玉子家政夫、花菱アチャコ、横山エンタツがいる。
初期の相方は弟子だったというが、大正期には時田一瓢の「鬼笑会」と手を組み、個々に出入りする喜劇役者とコンビを組んだ。
その中の一人が俳優の卵であった花菱アチャコであった。1916年頃よりコンビを組んだ。
アチャコは千代丸から漫才のイロハを仕込まれたようで、千代丸のことを「恩師です」と語っている(『週刊読売』1956年1月8日の対談で)。
その後、数年ほどコンビを組んでいたが、花菱アチャコが一座を抜けたためにコンビを解消。藤本義一は『大いなる笑魂』の中で「アチャコが養子縁組のために一座を抜けることを千代丸に恐る恐る告げると千代丸は激励してくれた」といい師匠のように書いている。
アチャコとコンビ解消後は、玉子家政夫とコンビを組んだ。
1922年1月、公声レコードから『三曲萬歳(千両幟)・お笑ひ』を発売。
翌月2月にも同じメンバー、会社から『数え唄(大津名所)』を発表している。
同年6月、千代丸とのコンビで公声から『数え唄(安来節)』。
この頃には既に大看板だったようで、落語席や吉本にも出入りしていた。1922年9月の漫才師の中に、菅原家千代丸と共に採録されており、
荒川金時・芳丸 芦ノ家雁玉・玉子家春夫 玉子家政夫・菅原家千代丸 浮世亭清・出羽助
この頃、横山エンタツとコンビを組み、玉子家政夫と別れる。
演芸作家の正岡容などは浅草でこのコンビを見たらしく――
「かのエンタツなどは菅原家千代丸と云ふ老練につかはれてお尻許り振る惨めな高座を未だ勤めていた」
と『わが寄席青春録』の中で批判しているが、吉本にいた林正之助は面白いコンビだったと桂米朝との対談(一芸一談)で述べている――
林 前はね、僕はエンタツを見た時びっくりしたんです。一時間。
米朝 一時間もったですか。
林 はあ。(菅原家)千代丸というやつと二人でやりまんね。それで、三味線持ってガァーッとやりよったりガァーッと踊りよるんです。なかなかそれは客は来たもんだ。それで僕はね、噺ちゅうもんは、お茶飲んで、扇子を笑うたり、汗かかんのに手ぬぐいで顔ふいたりして、それで噺にかかると。こいつは芝居は下手でも芝居の物真似はするし、歌は歌いよるし、踊りよるし、バラエティーに富んでるというので、漫才を全部集めて、のべつ漫才大会、十何年もちましたで。ここでもね、花月があって、三友倶楽部があって、常盤座があってね、それであの花月、四軒です。新世界でも三軒ですわ。みんな満員だ。
米朝 正宗館、あしべ、天満、三光館……南陽館。
林 南陽館は十銭で入れました、十銭で。
なお、『漫才世相史』などを見ると、芸づくし漫才の他に派手な暴力漫才もやっていたという。二人で長靴で殴り合ったり、細工をした青竹で殴り合う――というすさまじいバイオレンス振りで人気を集めたという。
その後も第一線で活躍を続けたが、1923年の関東大震災に罹災。その際、エンタツが重傷を負ったため、再び玉子家政夫とのコンビに戻っている。
1924年1月、『滑稽萬歳・芋の説教』を東亜レコードから発売。
1924年4月、東亜レコードから『数え唄』を発売。
同年7月、東亜から『謎かけ・りん廻し』。枚数こそ多くないが、当時の萬歳を偲ぶ貴重なレコードである。
1925年頃、コンビをエンタツに戻し数年ほど行動を共にしていた。昭和初期では既に一枚看板であり、トリを取ることも珍しくなかった。
1928年2月、弁天座の漫才大会においてエンタツと共にトリを取っている。
1928年4月には橘家太郎・菊春、中村種春などと手を組み、名古屋御園座で華々しい漫才大会を開催している。
1930年代の第一次漫才ブーム以降はエンタツ・アチャコの華々しい売り出しを横目に、フリーでのんびりと漫才をやっていたらしい。橘大正坊を相方にしていたようである。
1932年6月7日、JOBKより「万歳」を披露。上にある写真はこの時新聞に出たものである。数少ない肖像といえるだろう。
後年、娘の千代丸嬢に二代目を譲り渡し、戦時中に亡くなったらしい。
花月亭九里丸調査メモの中に二代目菅原家千代丸の項があるが、そこに「師匠初代千代丸は1942年、67歳で没」とある。


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