クレバ栄治

クレバ栄治

クレバ栄治(左)・シンジ

足芸を披露する栄治と妻の筆子

 人 物

 クレバ 栄治えいじ

 ・本 名 荒井 栄治郎(旧・仲西)
 ・生没年 1890年?~1973年8月21日
 ・出身地 大阪

 来 歴

 戦前戦後長きにわたって活躍をつづけた曲芸師。漫才師ではないものの、世界を股にかけ、かつ大阪吉本の一枚看板として、多くの漫才師と共演したことから採録をした。関係者からのリクエストでもある。

 出身は大阪。幼児の頃は、謎に包まれているが、幼くして父・菊松について曲芸の修業を始めたという。この辺りは他の曲芸師と同じだった模様か。

 生年には少し齟齬があり、1902年時点のパスポートでは「10歳」とあるため、本当は1892年ころの生まれだったのかもしれない。日外の『芸能人辞典』などは、何を参照にしたのか。

 また、菊松は養父だったらしく、青木深氏が『サーカス学 創刊号』に掲載した『足芸師クレバ栄治の痕跡』によると、元々は「仲西栄治郎」という名前であったが、わけあって「菊松」こと「荒井菊松」の養子になったのではないか――とパスポートの記録を元に、推測している。

 以来、「荒井栄治郎」として生涯名乗り続けた。

 その経歴が「内外タイムス」(1955年12月7日号)、「手八丁アシ八丁」に掲載されているので引用。

 ○…「ライム・ライト」という映画があった。近代的な設備もなくガス灯に似た照明ライム・ライトを使っていた時代から、やがて瞬く電気照明の時代へと移ろうとする頃の話である。時は変りゆく時代の波に押し流された往年の花形スターの舞台芸人が、いつの日か返り咲く日を念じ、ついにとらえた大役も空しく出演中にあえなく死んでゆく、舞台上に横たわった彼の死体を照らしだすそれは、古いライムライトではなく、非常なまでに冷く鋭く光る近代照明のそれだった。つまり映画は古いものから新しいものへそこにハジきだされる古きものへの悲哀を舞台芸人にこと寄せてつづったものだった。それは映画技術の良さもさることながら、それにましてアメリカに限らず、世界どこにでもいる芸人に共通するうら悲しさ、わびしさが観る人の胸を強く打っていたようだ。ここにとり上げた“手八丁足八丁”に生きるある舞台芸人も、なぜか『ライム・ライト』に似た情感をにじませていた。
 〇…この十二月で満六十三才になったクレバ栄治さんは日本交通芸能社に専属して“足芸”を売りものに村から村へ、町から街へ舞台をつづけている。だが旅はクレバさん一人ではなく、いつのときも離れることなく若妻兼三味線弾きの君子さん(五〇)が影カタチのように連れ添って歩く。芸は足でタルを転がしたり、やはり足で傘を開いたりツボめたり、ビンを頭に乗せて逆立ちする。ただそれだけの芸だが、傘芸だけで二十種類、タル芸は三十種類からある。それに一応、人さまの前に出て観せるようになってからの修業が大変でそれを『寄席なんかでやると“あれ見た、もう見んでもええワ”で長い間の修業の辛さも何も見イせん、人間の機微いうもンが判らんやろか?』とボヤく。
 〇…クレバさんは大阪で歌舞伎役者の浅尾梅香丈をおじいさんに曲芸師の菊松師匠を父にして育った。やはり蛙の子は蛙…で六つのときから菊松師匠につき、九つでアメリカに渡った。明治三十五年のことだった。それからクレバさんは映画『地上最大のショウ』にも出演したバーノン・アンド・ベリー・サーカス団を振出しに二十年間みっちり修行して大正十一年帰ってきた。滞米中は十三才のときにあるボードビル・クラブに入って、当時それほど有名でもなく、給料も週わずかに二十五ドル時代のチャーリー・チャップリンや、バスター・キートンらと毎日ケンカし合って暮らしていたものだと、過ぎし日への回顧は尽きない。
 〇…日本へ帰ってからは弟子三人を抱えて賑かにやっていた、せっかく苦労して仕込んだ内弟子も戦争でつぎつぎに死んでしまった。小さいときからトンボ返り、竹のぼりと二十年は修業しなければ一人前といわれないこの世界。しかも一人前になって報いられるのも、寄席の前座か、村や町やの年寄り、子供の拍手だけ。『だから、こんなソロバンに合わんもン修行しようなんて、とても今の若いもンにはアキまへん、あたしがこの年までやってるのも、みんな好きやからや、好きでもないもンを誰がこの年してやるバカ、ありまっか』ということになる。クレバさんはこうして年々絶えて行く“足芸師”それもいまでは日本に十人とはいなくなったそのうちの一人である。今一番口惜しいのは『アメリカでサーカス生活しとった時の写真。色々ええのあった。皆さんホントせんような素晴らしいもンばかりや、それもみな空襲で焼いてしもた』と自分にいいきかせるようにコックリ肯くクレバさんだった。    【写真・藤沢記者 文・阿部記者】

 浅尾梅叶は、「梅香」とも書き、上方歌舞伎の大名跡、浅尾与六の俳号であるが、本物の与六ではなかったらしい。悪く言えばドサ回りの役者だった模様か。

 それでも相応の人気はあったと見えて、明治10~20年代、小芝居で大ネタを演じている。

 晩年は寄席に出演している様子が、『上方落語史料集成』などから伺える。以下は明治39年1月の興行案内の一節。

第三此花館 文馬、新作、残月、小円朝、若遊三、橘之助、遊三、むらく、梅香、松光、円右、松喬、円坊、清国人袁鳳章・韓小陽・袁有発、金馬、女道楽小歌・小峰・色葉、枝鶴、曲芸菊松・東家小力・浅尾梅叶

賑江亭 団八、我楽、小円治、松光、女道楽小歌・小峰・色葉、若柳吉蔵一座、曲芸菊松・東家小力・浅尾梅叶、円遊、袁鳳章・韓小陽・袁有発、円蔵、若遊三、福吉、梅香、松喬、円左、残月

第二此花館 団平、松馬、笑鶴、福吉、一円遊、新作、円坊、小円次、若遊三、松喬、梅香、枝鶴、女道楽小歌・小峰・色葉、菊松・東家小力・浅尾梅叶、残月、松光、袁鳳章・韓小陽・袁有発

 父の菊松は詳細不明であるが、青木深氏から伺った説では、宮岡謙二『異国遍路、死面列伝、旅芸人始末記』の中に出てくる「菊松」なる物と同一人物のようである。

 幼いころから、外国への視点を持ち、10歳にして渡米。上の記事では「六つのときから菊松師匠につき、九つでアメリカに渡った。明治三十五年(1902年)のことだった。」と計算が合わないが、1902年6月28日付でパスポートをとっているのは事実で、『足芸師クレバ栄治の痕跡』によると「3745番」が旅券番号であった。

 渡米後、上の記事が正しければ、「バーナム・アンド・ベイリー・サーカス」に所属。このサーカスは、アメリカ最大級のサーカス一座で、創設者のP・T・バーナムは、アメリカ興行史の中でも相当有名な人物として認知されている。

『足芸師クレバ栄治の痕跡』では、人物の確定にこそ至らなかったが、多くの日本人及び日系人と思しき芸人が出入りしていることを指摘している。

 その頃、まだ日本人への風当たりが強く「ジャップ」と言われては喧嘩する、なかなか荒くれた日々を過ごしていた模様である。

 1905年ころ、チャップリンやキートンと出会ったらしい。

 後年、父と別れ、一人で武者修行の旅に出たらしく、一座を転々としていた模様か。当時から実力はあった模様であるが、わからない点が多い。

 1905~6年の間、日露戦争の勝利に便乗し、「日露戦争ショー」みたいなことをサーカス団の中でやっていたという。

 1922年、帰国。長い間アメリカにいたため、長らく日本語が不自由であったという。

 帰国後の足取りはいまいちつかめないが、全国巡業でもしていたのではないか――と推測している。

 ただし、1924年夏にはニューヨークのボードビル劇場「パレス」に出ているようなので、関東大震災の煽りや不安定さを受けて、一旦アメリカへ逃避した模様か。

 それからしばらくして、帰国。帰国後に「クレバ栄治」と名乗るようになる。青木深氏は「cleverな」という批評から「クレバ」と名乗ったのではないか、と指摘しているが、大方そうであろう。

 1928年ごろに吉本興業に入社した模様。当初は「小扇・クレバ」というコンビ名であった。『上方落語史料集成』の9月興行に、

大阪の寄席案内 一日より
△南地紅梅亭 五郎・紋十郎、小扇、クレバ・栄治、小春団治、扇遊、三木助、枝鶴、呉成錬、小文治、芝鶴・歌蝶、円馬、小柳三。  

△北新地花月倶楽部 塩鯛、福団治、芝鶴・歌蝶、円若、円馬、小扇、クレバ・栄治、クレバ、清、蔵之助、五郎、紋十郎、小柳三、円枝、呉成錬、小文治、ベニヂツク、サモパイ。 

 とあるのが初出か。この時すでに倅・クレバ清の名前が出ているが、またしばらく消える。この辺りの事情はよくわからない。

 芝居などであるように、子役の後見として舞台経験を済ませておくのが狙いだったのだろうか。

 クレバ小扇は、尺八と「蠅取り」で知られた立花家扇遊の実の娘。驚くべき話である。『サンデー毎日』(1936年11月1日号)の『笑ひの人国記』に、

 剣舞團に入つて各地を巡業中、奈良のはたご屋で、芝居の筋のように病氣をして、そこで介抱してくれた娘と一緒になつた。出来た子供が、現在クレバ小扇と名乗つて高座に出てゐる。

 とある。

 以来、南地と北新地花月を中心に活躍。この二館は、吉本直轄の劇場の中でも特に格式が高く、吉本創業当時は漫才師や雑芸は早々出演する事の出来ない劇場として畏怖されていた――とは、前にも書いたとおりである。

 しかし、栄治は早くから南地に出演し、その出演記録が途絶える事はなかった。吉本せい、林正之助などから一目置かれていたのであろうか。

 1931年3月まで、小扇と組んで達者なところを見せていたが、なぜかコンビを解消し、同年4月より、倅の「清」とコンビを組んで、「栄治・清」。

 初めて出るのは、4月下席からで、出演者は、

△南地花月 鶴二、小雀、清・クレバ、染丸、正光、延若、歌江・慶司、久本連、山陽、扇遊、枝鶴、小春団治、エンタツ・アチヤコ、正蔵、三木助・紋十郎、九里丸、春団治、一郎。
△北新地花月倶楽部 清・クレバ、源朝、文治郎、紋十郎・三木助、こたつ・日左丸、正蔵、九里丸、円馬、歌江・慶司、小春団治、正光、枝鶴。

 倅とのコンビでも看板を落とすことなく、南地・北新地で一枚看板を張った。

 小扇の消息は不明であるが、なぜか1932年1月に一回だけ復活しており、

十四日より
△南地花月 小雀、正光、紋十郎・五郎、小扇・クレバ、小春団治、石田一松、枝鶴、五郎・雪江、春団治、伯龍、九里丸、結城孫三郎、山陽、エンタツ・アチャコ、喬之助・三木助。

 とある。理由は不明。もしかしたら、小扇は結婚か何かで引退したのかもしれない。

 1932年ごろより、弟子のクレバ勇が加わり、「栄治・清・勇」のトリオを結成。初めて顔を見せるのは、南地花月、2月中席で、出演者は、

十日より

△南地花月 小雀、おもちゃ、重隆・武司、染丸、五郎・雪江、小春団治、勇・清・クレバ、枝鶴、柳橋、エンタツ・アチャコ、喬之助・三木助、三亀松、正蔵、正光、春団治

 この勇は、どうも子供だったようで、同年7月31日より角座で行われた「落語家芝居」の顔付を見ると、

三位中将惟盛 市村千橘(立花家千橘)     
娘お里    中村小春団治(桂小春団治)
六代君・倅善太郎 クレバ勇
女房小仙   大谷延若(三遊亭円若)
鮨屋弥左衛門 尾上円馬(三遊亭円馬)
梶原景時   片岡染丸(林家染丸)
いがみの権太 実川五郎(林田五郎)     
若葉の内待  ??枝鶴(笑福亭枝鶴)
四天王    市川春団治(桂春団治)
       市川三木助(桂三木助)
       嵐蔵之助(橘家蔵之助)
       嵐文次郎(桂文治郎)        
軍卒     中村扇遊(立花家扇遊)
       中村福団治(桂福団治)   
徒士     片岡九里丸(花月亭九里丸)

 という配役で出ている。鹿芝居など、お笑い専門の芝居だと、わざと大人が出て笑いを取る例もあるが、もう一つの役がやはり子役のやる「丁稚」であるところを見ると、子供だったのは間違いないだろう。またクレバ勇だけ、歌舞伎役者に模した屋号がついていないので、それから見ても子役だと判る。

 そんな事情からか、勇は1934年ごろに脱退している。以降は、「清・栄治」の親子コンビで名を馳せた。 

 1934年、吉本興業がアメリカの人気レビュー「マーカスショウ」を来日させた際、通訳を買って出たのがこのクレバ栄治だったという。秋田実『大阪笑話史』に、

……曲技のクレバ栄治は、こどもの時分から外国巡業の期間の方が多く、吉本興業に働いていた昭和十年前後のころには日本語の方がおぼつかなかった。そのころアメリカからマーカス・ショーの一行が来た時には、クレバ栄治がもっぱら通訳をつとめていた

 とある。

 1939年1月4日公開の映画『エンタツ・アチャコの忍術道中記』に、忍術に化かされる男として、清と共に出演。非常に分かりづらいが、トンボを切ってばたりと倒れるさまが確認できる。

 1941年2月まで「栄治・清」コンビで出ている。

一日より

△南地花月 桂小雀、清・クレバ、糸路・唄路、桂円枝、洋々・正二郎、静代・文雄、桂春団治、花蝶・川柳、蝶子・五九童、アダチ龍光、天津羽衣嬢、柳枝・道風、芳子・市松、柳家三亀松、雁玉・十郎、花月亭九里丸、エノスケ・エンタツ

 しかし、清が出征したのか、同年6月から「栄治・新治」と変わっている。詳細は不明。以下は新治とコンビで出た広告。

十一日より

△南地花月 桂小雀、桂文治郎、新治・クレバ、幸若・勝美、一陽斎正一、蝶子・五九童、花蝶・川柳、桂三木助、芳子・市松、洋々・正二郎、静児・幸児、神田伯龍、左楽・右楽、アダチ龍光、静代・文雄、十郎・雁玉。

 1941年10月1日より、南地花月に出演。

△南地花月 桂小雀、房夫・兼子、蜂郎・玉三郎、クレバ・新治、夢丸・志津子、夢若・光晴、成三郎・玉枝、花月亭九里丸、雁玉・十郎、桂春団治、右楽・左楽、雪江・五郎、桂三木助、菊春・太郎、文雄・静代、春本助次郎、柳家三亀松。

 さらに下席にも出演。

 △南地花月 桂小雀、桂円枝、唄治・糸治、金原亭馬生、クレバ・新治、三亀三・三亀春、夢丸・志津子、桂三木助、市松・芳子、正二郎・洋々、花月亭九里丸、夢若・光晴、文雄・静代、桂春団治、柳枝・道風、蝶々・敏夫、太郎・菊春。

 同年12月上席、南地花月に出演。

 △南地花月 桂小雀、クレバ・新治、金原亭馬生、三好・末子、三亀三・三亀春、桂春団治、五九童、蝶子、桂三木助、市松・芳子、広沢豆造、林家正蔵、夢若・光晴、一陽斎正一、桂文楽、蝶々・敏夫、柳枝・道風、太郎・菊春。

 1942年3月、南地花月。

 △南地花月 桂小雀、勝美・幸若、金原亭馬生、文昭・静香、クレバ・新治、五九童・蝶子、正二郎・洋々、太郎・菊春、アダチ龍光、桂三木助、花月亭九里丸、雪江・五郎、文雄・静代、柳枝・道風、蝶々・敏夫、雁玉・十郎。

 同年5月、再び南地花月。

 △南地花月 桂小雀、クレバ・新治、唄治・糸治、五九童・蝶子、桂春団治、正二郎・洋々、桂三木助、文雄・静代、夢若・光晴、石田一松、花月亭九里丸、神田伯龍、雁玉・十郎、雪江・五郎。

 同年7月、南地花月。

 △南地花月 桂小雀、三遊亭小円馬、クレバ・新治、蜂郎・玉三郎、夢丸・洋子、桂円枝、三亀三・三亀春、市松・芳子、蝶々・敏夫、花月亭九里丸、夢若・光晴、桂春団治、正二郎・洋々、雪江・五郎、柳枝・道風

 1943年ごろ、清が一度帰還したのか、再び「栄治・清・新治」に戻る。

 1943年3月下席の番組に、

△南地花月 桂小雀、金原亭馬生、クレバ・新治・清、桂文治郎、成三郎・玉枝、宮城千鶴子(浪曲)、正二郎・洋子、繁子・小太郎、柳枝・道風、一陽斎正一、柳家三亀松、花月亭九里丸、雁玉・十郎、雪江・五郎。

 さらに7月上席、

 △南地花月 桂小雀、柳太郎・柳晴、アダチ龍光、円童・つばめ、正二郎・洋々、花月亭九里丸、文蔵・田鶴子、桂三木助・小秀・元女、鈴々舎馬風、太郎・菊春、クレバ・新治・清、神田伯龍、雁玉・十郎、雪江・五郎。

 8月下席、

 △南地花月 桂小雀、左楽・隆夫、三遊亭小円馬、円童・つばめ、クレバ・新治・清、雪江・五郎、寿郎・志津子、花月亭九里丸、柳枝・道風、五九童・蝶子、三木助・小秀・元女、蝶々・マサル、文雄・静代、雁玉・十郎。

 10月上席、

△南地花月 桂小雀、小福・小夜子、桂円枝、市松・芳子、クレバ・新治・清、正二郎・洋々、一陽斎正一、夢若・光晴、花月亭九里丸、三木助・小秀・元女、五九童・蝶子、文雄・静代。

 と立て続けに出演している。しかし、戦局の悪化に伴い、職場である寄席や劇場が次々と閉鎖され、まずは清が出征する。

 1944年3月には、新治とのコンビになっており、同月中席の南地花月に、

 △南地花月 桂小雀、クレバ・新治、繁子・麗子、柳家三亀坊、太郎・菊春、笑福亭枝鶴、夢若・光晴、柳枝・道風、桂小文治、笑福亭松鶴、雁玉・十郎、立花家千橘・小秀・元女、雪江・五郎。

 しかし、これを最後に両者が出征したのか、最後は栄治一人舞台になる。

 戦争末期に、出征したクレバ清を喪った。斬首されたというのだから、悲惨な話である。

『いとしこいし想い出がたり』、『上方落語ノート』によると、クレバ清は、戦争悪化に伴い出征。その出征式の折に見事な宙返りをして駅の雑踏の中へと消えていった。その後、外地へ送り出され、敵に捕まり殺されたとも斬首されたーーと記載されている。倅を不本意な形で失った栄治の悲しみは幾許なるものであっただろう。

 この頃、空襲や敗戦前後の動乱で相当苦労をした。アメリカ時代の写真や資料、道具などをすべて空襲で焼いてしまったという。子供も思い出も、かつて育った国に奪われた栄治の無念や遣る瀬無さは察して余るものがある。

 戦後、吉本が壊滅したために同社を離れ、「日本交通芸能社」に所属。親会社は今もある「日本交通グループ」。

 英語が達者で、欧米巡業で仕込んだ曲芸が進駐軍に受けないはずもなく、Aランク待遇で出入りしていた模様。

 1956年5月2日、NHK『演芸の時間』に出演。共演は、同じくアクロバットの松岡正博(ヘンリー松岡か?)、清水一郎。漫才の木田鶴夫・亀夫。

 1956年7月28日、三越名人会に出演。共演者は、永田キング一行、シャンバロー、松旭斎天右・小天右・小文、大島お力社中、木華華声。

 1950年代後半まで、長らく地方巡業を中心に暮らしていたが、晩年は大阪に戻り、住吉区に居を構え、関西演芸協会に入会。

 また、吉本興業に復帰したらしく、『クレバ栄治・フデ子』名義で出演。華々しさこそないが、堅実な活躍で観客を魅了し、楽屋内でも愛されたという。

 四代目林家染丸『上方落語 寄席囃子の世界』の解説書に、吉本の舞台で度々一緒になった旨、栄治氏が奥さんを「ママさん」と呼ぶので、みんなママさんと呼んでいた、というような記載が紹介されいる。

 1967年11月11日、NHKの『土曜ひる席』に出演。出演者は夢路いとし・喜味こいし、ミスワカサ・島ひろし、すっとんトリオ。

 80近くなっても舞台に出ていたのだから、雀百まで踊り忘れず、といったところか。

 1970年6月17日、『ひるのプレゼント「大阪からこんにちは」(3)』に出演。この時、80歳近かったというのだからすごい。共演は、奇術の一陽斎正一、長門 裕之、三吉モモコ、高田恭子。

 1973年8月21日、死去。享年81歳? 没年は『ヨシモト復刻版』の解説書に拠った。

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