羽田たか志・二葉由紀子

羽田たか志・二葉由紀子

羽田たか志・二葉由紀子

 人 物

 羽田はねだ たか

 ・本 名 一色 敬
 ・生没年 1942年1月3日~ご健在
 ・出身地 神戸市 灘区

 二葉ふたば 由紀子ゆきこ
 ・本 名 一色 ユキノ
 ・生没年 1941年1月19日~2017年4月14日
 ・出身地 山口県 玖珂郡

  来 歴

 高度経済成長期から2010年代まで長く活躍した夫婦漫才。たか志は吉本興業最古参の一人であり、人気漫才「ショウショウ」の羽田昇司の両親でもある。アコーディオンと歌曲をうまく用いた夫婦漫才で堅実な人気を集めた。

 羽田たか志は神戸の出身。その経歴は『国立劇場演芸場』(1997年5月号)に詳しい。

 父親は神戸製鋼所の社員。その関係で学校卒業後、父の勧めで神戸製鋼所に入社。同社の新米社員として働くこととなる。

 普通のサラリーマン生活を送っていたが、ある時、妹が自分の名前を使って、NHKのど自慢に応募手続きをしていたことが判明。この一件から、音楽に目覚めるようになり、仕事の傍らで歌謡学院へと通うようになる。

 その学院の講師の一人が、元キングレコードの人気歌手・大路はるみであったというのだから、縁は判らないものである。彼女からは「綺麗に歌う事より喜怒哀楽を歌いなさい」と教えられたそうで、後年の舞台で役に立つ事となった。

 1963年4月、同士5人と協力して、コミックバンド『シャネルコンパ』を結成。この前後で会社を辞めてしまい、芸能界へと飛びこんだ。

 5人で舞踊劇や演奏、漫才のようなことをやるグループだったようで、後年の持ちネタとなるアコーディオンはここでみっちりと覚えた模様か。

 大阪を拠点に、キャバレーや小劇場に出演。東海道、四国へ巡演したこともあったが、1967年9月に解散。

 解散後、歌手として伊丹興行社なる興行の専属となる。ここでキャバレー回りなどをしていたが、その興行社に同じく所属していたのが二葉由紀子であった。

 出会った当時は仕事仲間であったが、歌謡ショーの仕事をこなすうちに意気投合し、ゴールイン。それと同時に漫才への転向を志したという。 

『上方演芸人名鑑』などには、二葉由紀子の一座で彼女と知り合って結婚したとあるがどんなものだろうか。筆者は『国立劇場演芸場』の聞き書きの方を取ります。

 妻であり、相方の二葉由紀子は、山口県の出身。祖父が近江小次郎という旅役者で、父母も芸人だったことから、幼くして芸事を仕込まれる。近江小次郎は中国地方を根城に町から町へと歩く、大衆演劇の座長であったという。

1945年、満4歳の時に初舞台を踏む。以来、祖父について大衆演劇の技芸を叩きこまれる傍ら、楽器や歌、踊りなど大衆演劇一座に欠かせない諸芸も仕込まれた。踊は若柳吉梢なる、若柳流の師範から仕込まれたそうで、若い頃は踊りを得意としていたという。

 18歳の時、座長の座に就任。若い娘を中心とした旅一座で人気を集めていたというが、1960年代中頃よりテレビが普及し、大衆演劇の仕事や小屋が激減したことに伴い、一座を解散。

 こちらも懇意であったという伊丹興行に身を寄せ、「歌謡ショー」や寸劇などの芸の仕事をこなしているところ、同じ伊丹興行専属の羽田たか志と出会い、結婚。

 1967年11月、「羽田たか志・二葉由紀子」と名乗り、夫婦漫才としてデビュー。

 デビュー当初は、たか志がアコーディオン、由紀子がギターを持った古風な音曲漫才だったそうで、両人とも歌がうまい所から、キャバレーや余興などが中心であったという。

 1971年9月10日、一色孝紀誕生。この子は後年、芸人を志し、両人に入門して、羽田昇司と名乗る。

 この駆け出し時代に、人生幸朗に出会い、意気投合。その実力を認められる形で、吉本興業を勧められ、入社。後年、人生幸朗や山崎正三が結成の音頭を取った「関西芸能親和協会」に所属し、長らく幹部として活躍する事となる。

 1972年6月、正式に吉本興業の所属となり、花月系の劇場に出演するようになる。当初は「羽田幸司・生恵由紀子」といった。

 1975年ころには既に一枚看板だったと見えて、季刊誌『漫才』などを見ると、掛け持ちなどをしている。主に梅田花月が根城だった模様である。

 吉本入り後、由紀子はギターをやめて、しゃべりと唄だけで勝負するようになる。威勢のいい由紀子が、たか志を圧倒するようにしゃべり倒し、ボケ倒す女性優位漫才を形成。吉本の中堅として迎え入れられるようになる。

 1982年、「羽田たか志・二葉由紀子」と改名。『演芸連合22号』(1983年1月1日号)に、

羽田幸司がたか志、生恵由紀子が二葉由紀子に改名。

 1980年代に巻き起こった漫才ブームの波に乗る事こそなかったが、安定感のある話術と芸から関西圏の番組や寄席を掛け持ちするだけの人気を博し、戦前からの長老と、戦後のヤング漫才師たちを結ぶ貴重な中間役としても活躍した。

 派手さこそないが、堅実で味わいのある漫才は貴重な存在と目されており、吉本内外からも信頼と評価があった。吉本興業が1985年に出した『吉本興業商品カタログ』の中で、

 由紀子・たか志の漫才は、昔の漫才

 由紀子・たか志さんゆうの、これやっぱり、ほんまに昔の漫才違います? はっきりゆうて、抱腹絶倒ゆう漫才やない。こういう芸人さんは、吉本にとって必要やねん。こんな言い方悪いけど、全部が全部、テレビに出てる芸人さんばっかりやったら、 ケツおちつけて舞台に出えへんでしょ。
 由紀子・たか志さんのあと、我々出たり、サブロー・シロー出たり、阪神・巨人出たりしたら、客が、「ワッ」と、いわゆるメリハリつくわけですわ。阪神・巨人の次に、僕ら出たら、これは、重複して際立たへんわけですわ。お互いが際立つんですわ。ある意味では、必要やねんな。

 と、その長・短の両方の部分から、このコンビの価値が論じられている。なかなかの名評といったところ。

 特に由紀子が役者の出身だけあって、演技力は定評があったそうで、「ポケットミュージカルス」に長らく演出・構成として携わった。こういう所での活躍も、先輩後輩から慕われることとなったといえよう。

 1987年4月、息子の一色孝紀が入門。羽田昇司と名乗り、ちょうど同時期に入門してきた羽田昇平とコンビを結成。今日「ショウショウ」として活躍しているご両人である。

 長らく吉本の劇場の中堅~大御所として、堅実な活躍を続けていたが、1990年代より大看板の相次ぐ死や貴重な音曲漫才の継承者として注目を集めるようになった。

 1986年ころ、たか志は、関西芸能親和協会の企画監査役に就任。

 1990年、二葉由紀子、理事に就任。

 1992年の総会で、たか志は先輩の山﨑正伍の後を受けて副会長に就任。

 1992年ころより、北京語を習得し、「中国語漫才」なる芸域を開拓。関西圏の在日中国人や中国団体と交友を結ぶようになる。最終的な目標は「中国で大々的なリサイタルをやる」事だったらしいが、その夢は実現しなかった模様か。

 1993年、関西芸能親和協会の人事異動に伴い、副会長に就任。会長は、山崎正路。

 1996年9月、山崎正路の死に伴い、会長代理に選出。翌年の人事で関西芸能親和協会会長に選出された。会長として高齢化する会員をよくまとめ、行事やイベントなどの見直しを図るなど、名会長として知られていた。今日もその職にある。

 2000年代に入ると、漫才界の重鎮として、NHKやラジオ寄席などに呼ばれるようになった他、国立文楽劇場で行われるようになった「上方演芸特選会」に出演するようになる。「上方演芸特選会」は特に水があったと見えて、死ぬ直前まで年に数回定期的に出演していた。

 2002年11月13日、NHK大阪の『上方演芸ホール 』に出演。出演者は、浮世亭三吾・みゆる、大空遊平・かほり、海原さおり・しおり、正司敏江・玲児。

 2003年2月7日、NHK大阪の『上方演芸ホール』にまたしても出演。共演は、さゆみ・ひかり、海原やすよ・ともこ、浮世亭三吾・みゆる、海原さおり・しおり、若井小づえ・みどり、大空遊平・かほり、正司敏江・玲児。

 2004年2月27日、NHK大阪『上方演芸ホール 豪華!歌芸コラボレーション』に出演。出演者は、暁照夫・光夫、姉様キングス、嘉門達夫、堺すすむ、ポカスカジャン、横山ホットブラザーズ。

 2003年11月2日~6日、国立文楽劇場の『上方演芸特選会』に出演。以来、定期的に出演するようになる。

 2016年1月3日、NHK『初笑い東西寄席』の大阪漫才の一人として出演。

 コンビ結成50年を感じさせない若さと実力で、相変わらず人気を集めていた。

 2017年2月には、成田山不動尊の豆まきに出演している。

 2017年3月には、祇園花月に出演。

 3月25日には、「◾︎宝くじふるさとワクワク劇場in高砂 」と称した公演に出演。兵庫県高砂市まで出かけている。

 4月7日、兵庫県西宮市での舞台をこなしていたが、舞台終了後、二葉由紀子は呼吸の違和感を訴え、入院。

 この時、いくつかの仕事や4月の末の祇園花月の出演などあったというが、取りやめとなった。

 当初は6月末の退院を予定したようであるが、入院後まもなく様態が急変し、心不全のために死去。コンビ結成50年まで、あと半年足らずであった。

 以下は『産経新聞』(4月15日号)掲載の訃報。

 夫婦漫才コンビ「二葉由紀子・羽田たか志」の二葉由紀子(ふたば・ゆきこ=本名・一色ユキノ=いっしき・ゆきの)さんが14日午後10時18分、心不全のため兵庫県西宮市内の病院で死去した。76歳。通夜は16日午後6時、葬儀・告別式は17日正午、兵庫県芦屋市上宮川町10の12の照善寺で。喪主は夫の羽田たか志(はねだ・たかし=本名・一色敬=いっしき・たかし)氏。

 50周年を記念して、イベントや企画を考えていた矢先の死であった。夫のたか志・息子の昇司の無念、幾許なるものであっただろうか。

 由紀子亡き後、たか志は誰とコンビを組むわけでもなく、ピン芸人に転向。引退をせず、芸能親和協会の会長として、吉本の古参としての活動する道を選んだ。

 2019年5月15日~18日、国立文楽劇場『上方演芸特選会』に一人で出演。座談会のゲストとして、元気な姿を見せた。この年、35周年だったこともあり、 9月18日 ~21日に行われた『上方演芸特選会』の特別座談会に出演している。

 2020年2月には、毎年恒例の成田山不動尊の豆まきに出演。コロナ禍で表舞台への出演は少なくなったが、今もなお関西芸能親和協会の会長として腕を振るっている。

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