横山東六と横山ホットブラザーズ

横山東六とホットブラザーズ

横山東六

横山トニー時代
真ん中・少年時代のマコト? アコーディオン・東六

初期時代の横山ホットブラザーズ
右からマコト・アキラ・レイジ(?)・シゲル(?)・東六

セツオ加入前のホットブラザーズ
右から東六・アキラ・洋二・マコト
(右下の女性は乙女節子で無関係)

人 物

人 物

 横山 よこやま東六とうろく
 ・本 名 横山 登二
 ・生没年 1906年11月11日~1980年11月6日
 ・出身地 愛媛県 新居浜市

 横山よこやま アキラ
 ・本 名 横山 彰
 ・生没年 1932年8月7日~2020年12月9日
 ・出身地 大阪市

 横山よこやま マコト 
 ・本 名 横山 誠
 ・生没年 1934年6月16日~2022年4月22日
 ・出身地 大阪市

 横山よこやま レイジ 
 ・本 名 小田 栄正
 ・生没年 1930年3月16日~??
 ・出身地 広島 呉

 横山よこやま 洋二ようじ 
 ・本 名 上甲 元行
 ・生没年 1930年代?~??
 ・出身地 大阪?

 横山よこやま セツオ 
 ・本 名 横山 節雄
 ・生没年 1946年4月3日~ご健在
 ・出身地 大阪市

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才グループ。つい先日まで達者な舞台を繰り広げていたが、アキラが死に、マコトも後を追った。ついにこのグループも解散同然になってしまった。

 ただ、本稿では、意外に謎が多く、いい加減なことを記されがちな「横山東六」を中心に記載していく。

横山東六の前歴

 東六の経歴はある程度判明しているーーが、齟齬が多く、どれをとっていいのかわからない状況下にある。ここで書くものは様々な資料を重ね合わせた上での、一つの推論である。

 東六の出身は愛媛。幼少期は謎が多い。弟子を含め、生年等は『出演者名簿1963年度』から割り出した。

 青年時代に、故郷を飛び出し、大阪へ上る。上阪には、「16歳」と「19歳」の説があるが、筆者としては後者をとる。

 桜ノ宮音楽学院で学んで映画の楽士になる。1928年、関西交響楽団に入団。長らく楽士として働いていた。

 トーキーの進出と楽士の廃業により、1933年、陽気屋東六の名で音曲漫才に転向し、笑福亭福之助(後の鹿島洋々)とコンビを結成、新世界アシベ劇場で漫才初舞台――というのが定説であるが、前田和夫「漫才繁笑記」では全く違うことが記されている。以下はその引用。

 横山東六――といってもピーンとこない人でも音楽ショー、横山ホットプラザーズで「おじゃましました」のオヤジさんだといえば思い出される人も多い。糖尿病から昭和五十年に引退。五十六年他界した。雑芸の楽しさをふんだんに見せた寄席芸に徹していた人だった。
 愛媛県新居浜市生まれで、大正十一年、兵庫県尼崎にあった名取音楽院に入って、楽器の使い方をおぼえた。大正十四年に吉本興業に活動写真の伴奏楽士として入社したのがこの道へのスタート。昭和三年には大阪フィルハーモニーの前身である関西音楽団に参加した本格派である。そのまま在籍していたとしたら朝比奈隆らとともに指揮棒をふっていたかも、である。人間の”運命”と いうものは、左右どうころがるかわからない。「なにをいうてますのや。わたしゃ、庶民のみなさんにたくさん喜んでもらう方が嬉しいのですよ。その方がピッタリしていますからやったまでですよ」といい切っていた。その後、道頓堀のカフェ “赤玉”の専属バンドマンとして服部良一さんらとともにフリュートを吹いていたりしたが、音楽ショーとして横山東六と名乗ったのは昭和五年。青年期を籠寅興行、千代乃座興行らと契約して巡業から巡業で過ごした

大阪フィルハーモニーの前身である関西音楽団に参加した本格派である。」というのが引っかかるが、朝比奈隆が初めて指揮を振ったのも、この楽団だというので、間違いではないだろう(ただ今日のフィルハーモニー交響楽団とは全く別物といっていいかもしれない)。

 筆者としては、前田和夫説の方を取る。こちらの方が、漫才転向の理由のつじつまが合うからである。ただ、「赤玉」に居た事や1930年にデビューしたことなどは、確証が取り切れない。

 ただ、楽士をやっていた事、服部良一と同じ職場にいたのは事実で、その頃、なかなかの浮名を流したという。『大阪朝日新聞・夕刊』(1961年3月20日号)掲載の『ざい界紳士録』に、

 無声映画の時代、大いにモテた職業が二つある。一つは弁士であり、もう一つは楽士。
 東六はその楽士で、千日前の常盤座でフルートを吹いていた。だから楽器は万能選手。 子供たちもその血をひいてか すべて音楽に強い。
「うちのオフクロもサックスぐらいは吹きます。入歯やけど、ええ音が出まっせ」
 あきらがいう。 

 とあり、『読売・大阪朝刊』(2013年1月27日号)掲載の『[子どものころ]横山アキラさん 芸仕込んだおやっさん』で、では、

 芸人だった横山東六(とうろく)さんは、元はクラシックの音楽家で、楽団に所属し、作曲家の服部良一さんと並んでサックスを演奏したこともあった。

 これなどは貴重な資料である。

 この頃、登志子夫人と結婚。8人の子供に恵まれた。但し、当時のこともあり、長男長女は夭折している。無事に育った6人の子供たちが、メンバーとしてかわるがわる参入した。上の子を早く失った経験からか、子作り子育てには熱心で、末の倅(セツオ)は、40歳で授かっている。

漫才師転向

 漫才転向の時期もいい加減であるが、「1933年」説は、どうも怪しさが残る。『上方演芸人名鑑』などの記載は正にこれなのだが、この「笑福亭福之助(鹿島洋々)」とのコンビが実に厄介というか、辻褄が合わないそれになってしまっている。

 そもそも笑福亭福之助(鹿島洋々)の漫才転向が1934年なので、年代的に合わない。考えられる可能性とすれば、巡業先で福之助と懇意になり、一時的にコンビを組んだ――ということになろうが、それをデビューに含めていいのかどうなのやら。

 また同年のアシベ劇場の出演表の一部が残っているが、これにも「福之助・東六」コンビは見当たらない。見落としている可能性が高いが、それにしても、である。

 その鹿島洋々も、1934年には松葉家奴とコンビを組み、人気コンビになった事を考えると、どうして横山東六とコンビを組んだのか、という深い謎が残るのである。

 実際、中央の舞台に出て、漫才らしいことを始めるのは、もっと後になる。ただ、その辺りの記録も少ないため、微妙なところである。言ってしまえば、陽気屋東六名義での活躍がほとんど見られないのである。千代廼座の記録を探れば見つかるかもしれないが、手掛かりが少ない。

 もっとも、地方巡業が多かったのは事実なようで、良くも悪くも派手で押して押して押しまくる芸風は、地方や大劇場向きだった。足立克己は『いいたい放題上方漫才』の中で、はじめて横山東六にあった記憶とその頃の芸風を評して、

 そんなある日、文芸部へ横山ホットブラザーズの横山東六(故人)がやってきた。そして私を呼んで、「足立さん、ウチとこの本書いておくんなはれ。 たのみます。これからの漫才は台本の時代や。足立さんは文芸部でも一番センスがええ。横山ホットブラザーズを足立さんにあずけます。アン夕の思うようにしておくんなはれ。足立さんに賭けます。秋田先生にも私からお願いしときますので……」と私を喜ばせるような言葉をいってくれた。今までに文芸部員に名指しで台本を依頼した芸人はいなかった。私が最初だった。私は意気に感じる方なので、この言葉に感激し、よし、横山ホットを大きくしよう、と決心した。
 その頃の横山ホットブラザーズは東六のオトウサンとあきら、まことの兄弟、それに女性一人というメンバーで、どちらかといえばドロくさく田舎まわりの音楽ショーといった感じだった。私はそのドロくささの中に都会的なスマートさをミックスしたいと思って台本を書き続けた。
 一、二年後、毎日放送で「お昼の演芸」というテレビ番組が出来た。横山ホットブラザーズ、 あひる艦隊、西川ヒノデ・サクラショウなどの音楽ショーがレギュラー出演者だったが横山ホットの台本は皆私が書いた。そしてお陰で横山ホットの評判が一番よかった。それまでの横山ホットは他の音楽ショーより一歩評価が低かったが、これによって横山ホットが他より抜け出した印象だった。その証拠に、あひる艦隊が私に台本を書いて欲しい、と頼んできた。しかし、私は断った。私を最初に認めてくれ、私に全てを任せる、といってくれた東六のオトウサンの為にも受け入れる事は出来なかった。

 と記しているが、戦後まで泥臭さが残っていたのは事実なようである。ただ、足立克己という人は、針小棒大に書く癖と、自分と懇意だった芸人をやたらに恩着せがましくする癖があるので、鵜呑みはできない。

 1932年8月、彰誕生。この子が、横山アキラである。

 1934年6月には誠が誕生。この子は3歳にして、舞台へ上げられ、横山マコトと名乗った。

 漫才師転向後、詳しい理由は不明であるが、なぜか永田キングの一座を出入りしていたという。永田キングを調査していた澤田隆治氏から、

「横山の長男から聞いた話では、『親父は確か永田ポンヂといっていたはず』といってはりましたわ」

 と聞いたが、詳細不明。ただ永田ポンヂはキングの弟のため、アキラ氏が事実誤認を起こしていた可能性は、ある。

 この頃は横山トニーと名乗っていた模様。トニーは本名の「登二」を「ト・ニ」と読んだところから、名付けた模様か?

 1937年ころより、マコトを子役として舞台に上げるようになる。『読売・大阪朝刊』(2013年1月27日号)掲載の『[子どものころ]横山アキラさん 芸仕込んだおやっさん』で、アキラが、「二つ年下の弟、マコトは音感がものすごくよくてね。3歳で子役として舞台に上がって、満州(現中国東北部)への慰問にも行った。」と語っているように、早くから鋭い才能を示しており、早くから英才教育を受けた。マコトの方が初舞台が先というのはそういう事情があった。

 1938年12月から、永田キングが満州慰問へ出かけているがこの時同行した模様。その時の写真が上のそれである。

 但し、キングより先に帰国したようで、帰国後、俄かに巻き起こった新興演芸部に接近。ただ、基本的には籠寅所属であった。

 1939年4月、発足記念として開かれた、新興演芸部の公演――京都松竹劇場に出ている様子が確認できる。以下はパンフレットの写し。

 以降は、籠寅の専属として活躍。『上方演芸大全』では、アキラが「われわれの親父(東六)が籠寅興行の専属でした。」と記している。また、京阪神の諸般の劇場に出演した旨も語っている。

 1939年10月1日〜、京都京極演芸館に出演。女剣劇の「熱海鈴子一座改名披露」の第一回公演。演目は、

 鰍ヶ浜一番舟 三景
 浪曲模写 東海五郎・シヅコ
 
ジャズバンド トウロク
 
特選漫才

 10月8日〜、引き続き、二の替りに参加

 仇討叢雲峠 全七場
 浪曲声帯模写 東海林太郎
 
唄とジャズ笑ひのリズム トウロク・ショウ
 
籠寅特選漫才

 ただ、籠寅は白熱する吉本・新興演芸部のデッドヒートから一線を引き、地方の劇場や京阪神に持ち小屋への興行にシフトしたため、わからない点が多い。

 戦時中は慰問と地方巡業を主に活躍。しかし、戦争悪化に伴い洋楽の演奏・歌唱が睨まれるようになり、舞台や劇場が空襲で減少。

 1944年ころ、家族を連れて実家の愛媛に疎開。地方巡業一本へと切り替えた。

 この頃、人手不足を補うために、留守番ばかりしていた長男・アキラを半ば強引にこの世界に引きずり込む。

横山一家の人々

 当のアキラは芸人に興味がなく、幼い頃は「鉄道の運転手になる」と思っていたくらいの鉄道少年であったという。『読売・大阪朝刊』(2013年1月27日号)掲載の『[子どものころ]横山アキラさん 芸仕込んだおやっさん』で、

 僕は音痴な方やし、芸人には興味なし。鉄道が大好きで、「おっきなったら運転手になるんや」と。小学校の頃は家族が巡業に行っている間、一人で留守番が多かった。向かいのおばちゃんの家でご飯を食べさせてもらったり、寝たり。近所の子らと遊んだりで、寂しさは感じへんかった。楽しかった。

 マコトとは違い、遅いスタートだった故、相当厳しく仕込まれたそうで、『[子どものころ]横山アキラさん 芸仕込んだおやっさん』に、

 次第に戦争の影響が強くなり、一家は1944年頃、父の郷里、愛媛県に疎開した。

 その頃、おやっさんに「お前も音楽やれ」と言われて、初めてサックスを教わった。ドレミの基礎から。譜面見ながら、これが四分音符、これが八分音符やとか。どなられるばかりで、怖くて怖くて。音楽が楽しいという感じはなかったです。
 初舞台は12歳。サックス持って出たけど、うまくやれるわけやない。音を外すと、お客さんから「こら、僕。もっと勉強してから舞台に上がれ」とヤジをとばされました。
 それに僕はあがり性で。今でも舞台の前はドキドキする。手に「人」書いてのみ込んで、あほみたいなことやってまんねん。  

 その頃の恐ろしさを語っている。アキラとマコトにとっては、親父はとても怖い存在だったそうで、東六もまた子供たちの失敗や甘えを妥協しない、頑固おやじだったという。

 今ならアウトであろうが、舞台の失敗やトチリは即制裁につながったそうで、『もうひとつの上方演芸』に、

 アキラ、マコトによると、父・東六は厳しい父だったらしく、舞台のしくじりは即制裁に結びついたそうだ。弁慶の場面でしくじったアキラは高下駄で殴られ、マコトはサキソフォンで叩かれたという。

  とある。こういう父への畏怖・反発の中で、子供たちは音楽を会得していったという。ただ、子供が最後の方になっていくと甘くなったそうで、セツオや末娘は溺愛されたと聞く。

 一方、音楽家として育ったせいか、理論家で根性や勘に頼らない冷静な一面もあったという。子供たちや弟子たちには「譜面から覚えろ、我流で覚えるな」としつこく教えていたという。

 疎開先で終戦を迎え、その後もしばらく、四国を巡業。敗戦前後になると、もはや官憲も怒る気力を失い、民衆も音楽に飢えていたのか、「四国巡業では、わんさか客が入っていた。行くとこ行くとこ、ミカン箱は現金でいっぱい。」という有様であったという。

 敗戦後は、打って変わって洋楽が解禁となり、もてはやされるようになったというのだから皮肉なものである。

 1946年、大阪へ戻るが、自宅は空襲できれいさっぱりなくなっていたという。焼け跡にもめげず、東六は残った楽器と家族をかき集め、「ファミリーショウ」を結成。

 1946年4月、節雄が誕生している。東六、時に40歳。

 戦後はファミリーショーで進駐軍慰問や地方巡業をやっていた。ただ、当人たちによると、「(進駐軍慰問の査定は)ぼくらはC級ですわ。」との事。

 また、演芸の仕事は不安定でお金がないとき、進駐軍慰問の中に多くのバンドや演奏家が送り込まれている事を目につけた親父の言いつけで、アキラやマコトは少年演奏家として進駐軍キャンプへ送り込まれ、バンドの一員として演奏をさせられた事もあるという。

『[子どものころ]横山アキラさん 芸仕込んだおやっさん』で、

 ファミリーショウの時は、兄弟二人ともまだ10代やったけど、僕はサックス、マコトはアコーディオンを担当。仕事がなくなると、生活のために進駐軍のダンスクラブなんかで演奏したこともあります。

  このファミリーショウは、一家総出の音楽コントのような感じだったそうで、歌と笑いを駆使したものであったという。当時はまだ、後年のネタとなる小道具を使う事はほとんどなかった。

 東六を中心に、母、息子、娘を集めたその名の通りのファミリーショウで、売り物は、東六の末娘だったという。この子は、3歳、4歳にもかかわらず、大人顔負けの度胸で舞台に出る人物だったと聞く。

 ただ、幼子だけに、夜になると眠ってしまい、夜の仕事があると、東六があれこれと苦心して、娘を舞台に立たせていたという。そんな娘にまつわる、笑えるような笑えないような逸話が残っている。以下は、『大阪朝日新聞・夕刊』(1961年3月20日号)掲載の『ざい界紳士録』。

 終戦後、この音楽一家でショーの一座を編成した。名づけてファミリィ・ショウ。 ファミリィの名に恥じず、プーリマドンナは当時四歳の末の娘。ところが夜おそくなると彼女は舞台前にして眠ってしまう。東六がある時、
「オイ、ええ薬をもろうて来たで。これを注射したら、絶対にがさめるそうや」と怪しげな手つきで、この娘に注射を打ちかけた。何の薬やろ、と息子たちがしらべると――ヒロポン。あわてて捨てた。

 また、この頃、姉の照枝に倒れられ、行き場を失っていた正司花江(後のかしまし娘)を拾い、一座で面倒を見ていたことがあるという。花江自体が達者だったこともあって、非常に頼りになる助っ人だったのではないだろうか。この頃、一度東京へ出たこともあるという。

横山ホットブラザーズの結成

 1952年、戎橋松竹に出演するにあたり、「横山ホットブラザーズ」と改名。改名年は、1953、1954年もある。どれが正しいのだろうか。筆者としては、戎橋松竹の機能や時節を踏まえ、1952年説をとる。

 この「ホットブラザーズ」は、東六の命名だったそうで、『[子どものころ]横山アキラさん 芸仕込んだおやっさん』でアキラが語ったところによると、

「ホットブラザーズ」はおやっさんが名付けました。「これからはお前ら兄弟が主体でやれ。温かい兄弟にせえよ」と。 

 最初はファミリーショウの延長だったようであるが、娘たちが独立し、妻が一線を退いたことにより、弟子たちが出入りするようになる。もっとも、男一色のチームになるには、1960年代まで待たねばならない。

 結成後も地方巡業をしていたが、間もなく松竹芸能に参加。角座や浪花座といった大劇場に出演するようになる。

 1957年11月13日、NHKテレビに初出演。『テレビ木馬館』にて、「お笑い汽車の旅」なるネタを披露している。

 一番古い名簿(1960年)を見ると、東六・アキラ・マコトに、横山シゲル、横山まさ美となっている。

 横山シゲルは、東六の弟子で、本名は「小野田勇」。それ以外の事はよくわからない。まさ美は本名・「中根まさ子」というが、東六の娘だろうか。

 1960年、まさ美が抜け、横山レイジが加入。このレイジは、本名「小田栄正」。生年は『出演者名簿』から割り出した。

『上方演芸人名鑑』によると、広島呉市出身で、もともとは国鉄職員であったが、戦後、「シバカンの笑う海賊ショウボート」なるコメディに参加したのを機に、芸界入り。その後、横山東六の門下に入り、妻と夫婦漫才。その後、横山ホットブラザーズに加入した。

 1960年以降、数年間は五人体制での活躍が続いた。しかし、この頃はまだ泥臭く、足立克己のいう「どちらかといえばドロくさく田舎まわりの音楽ショーといった感じだった。」だった芸風だったため、寄席の出番こそあれ、メディアから遠いものだったという。

 良くも悪くも賑やかな芸風から、メディアよりもキャバレーや余興などで好まれていたようで、これが初期時代の大きな稼ぎどころだったという。東六は、余興に関して人一倍の思い入れと理念を持っており、前田和夫に、

  また、東六は余興の仕事を重視した人でもあった。
「余興の仕事をいいかげんにやることを平気にしているのが増えたことは自分の首をしめているのが判らないのですかね。寄席があるから生活 は安定していますが、それは看板になってからですよ。若いときから余興といえば多くのお金がいただけるのですからよりがんばらなくてはと考えるのですが……それを忘れて持ち時間をやらずに お金だけはチャンととる芸人なんて許せませんね。劇場でも野外でも宴会の席上でも見ていただく以上は力いっぱいやるのが常識ですよ。このままでは余興が少なくなってきたという連中が何年か先には多くなりますよ」
 と数年前の東六の弁だが、現在の上方演芸界にひしひしと迫っている余興半減の警告でもあった。

 と語った事もある(『漫才繁笑記』)。

 しかし、寄席やキャバレー周りの身に甘んじているのに嫌気がさしたアキラが一念発起して、グループを抜けるというひと騒動があった。当人が『[子どものころ]横山アキラさん 芸仕込んだおやっさん』で語るところによると、

 ほんまに芸に対して厳しい人やったけど、1度だけ僕の前で泣いたことがある。昭和30年代かな。同世代の藤田まことや大村崑らがコメディアンとして売れて、僕だけ井の中の蛙(かわず)。武者修行に出たかった。
「もう辞めさせてくれ」「あかん」「辞めてもうたるわ」。その時に「お前に出ていかれたら、わし死ぬ」と、涙を流した。いつもえらそうに言うわり、子どもを頼りにしていた。かわいくて、離したくなかったんやねん。親の気持ちが、わかったような気がしました。

 と、相当強く、かつ感情的に引き留められたという。さすがに泣く父を見てまで飛び出すわけにはいかず、アキラはチームにとどまることになった。

 一方、松竹という大手事務所に所属したことにより、多くの芸人の芸を見、交流できたのは大きな収穫であったらしく、東六は轟一蝶からバイオリンを壊す芸を、アキラは一蝶(正確には轟一声から)の形見として、後年の看板芸となる「ミュージックソー」をもらったり、大先輩の漫才師・市川福治から「阿呆陀羅経」を教わるなど、多くの諸芸雑芸を身に着けた。

 また、この頃より、テレビが力をつけ始めていることを見越した東六は、息子たちの反対を押し切って、楽器の小道具を作り始めるようになる。

 アキラとマコトは、当初「音楽だけでも食えるんやから何もそんなケレンをやらなくとも」と、東六を説得したそうであるが、東六はあっけらかんと「これからはテレビの時代や。見てもらわな」といって、耳を貸さなかったという。

 結果として、東六の予想は大当たりをし、見ても聞いても楽しいホットブラザーズを完成させることになった。

 この頃作られた楽器や小道具に「箒とはたき」「チンドン三味線」「皿が回せるハーモニカ」などがある。倅たちに言わせると「ガラクタばかり家の中にたまってもうた」。

 この中の一部は丁重にメンテナンスをされ、50年以上にわたって使用された。

 1963年ころ、シゲルが脱退し、四人体制となる。この頃から、秋田実や足立克己と親睦を結び、実力が認められたのか、NHKや民放の演芸番組やコメディに出演するようになる。

 それからしばらくして、永田小キング・星ララ子の倅で、弟子の横山レイジが加入している。澤田氏は「東六が永田キングと関係があったから、弟子にしたのではないか」と証言して下すったが、詳細は不明。ただ、全く無関係ではないと思う。

 洋二というのは本名でもなんでもなく、「なんでも用事が済むように」「弟子入りして皆の用事をしていたから」と洒落だったという。二枚目であったが、ちょっと中性的でなよなよとしており、それがまた面白かったとも聞く。

 この頃にはすでにテーマソングが完成されており、

歌って笑ってリズムショー 楽しくふざけるリズムショー 陽気に愉快に仲良く奏でる ホットブラザーズ♪

 という賑やかなそれとともに芸を披露した。

 1966年、洋二が脱退。メンバー探しに苦労していたところに、近畿大学に通っていたセツオが「やってみる」と志願し、メンバーに加入。これで家族だけで構成された「ホットブラザーズ」となった。

 なんかの本だったか、雑誌で、セツオが加入した理由を、セツオ当人が「学生時代からバンドをやっていたこと、近畿大学に入ったものの、学生闘争で授業が少なく、また自分もマージャンやなんやらで遊んでばかりいたから、飛び込んでしまった」みたいなことを語っているのを鮮明に覚えているのだが、その資料を思い出せないので困っている。

 セツオはエレキギター担当として加入。以降、東六(フルート)、アキラ(ギター)、マコト(アコーディオン)と楽器が固定され、50年近くに及んだ。

 なお、セツオの初舞台は散々だったようで、舞台慣れしていないため、上手くセリフが出てこない。詰まってばかりいるのに業を煮やしたアキラが「おまえはしゃべらんでええ。」とツッコまれたのが、大受けし、以来、舞台慣れした後も、このフレーズは彼を代表するものとなった。

 1968年4月、松竹芸能を辞めた秋田実と藤井康民の二人が「ケーエープロダクション」を設立。古くから恩のある横山ホットブラザーズは、海原お浜・小浜、若井はんじ・けんじと共に移籍。

 この移籍は松竹を激怒させ、一時期、大劇場やテレビから締め出される羽目になったが、吉本興業を味方につけ、花月系の劇場や営業に出演する形でうまく切り抜けた。

 この頃になると、実力派の漫才師として内外共に高く評価され、多くの番組に出演。進行は主に三人が勤め、東六が三人の間を割って出るように出てきて、雑芸を披露し、オチがつくと、「お邪魔しました……」と舞台袖へと引っ込む、不思議な芸風を確立した。

 もっとも、「ハーモニカの曲芸」「三味線と太鼓の曲弾」などになると、自分が前に出て、その実力をいかんなく発揮。倅たちを後見に、拍手喝采の芸を披露した。また、笑いが足りないと、率先して「ゴリラの物まね」をやろうとするなど、芸に徹した人物であった。

 そんなところから、アドリブ上手な人間だと幕内外で思われていたようであるが、倅のアキラが語るところによれば(『[子どものころ]横山アキラさん 芸仕込んだおやっさん』)、

 けど、おやっさんはメンバーから抜けず、「お邪魔しました」というギャグで一番目立ちよった。世間からはおもしろく見られていたけど、内面は真面目で堅苦しくて、稽古ばかり。アドリブは、ようせえへんかった。

 と、暴露している。そういった厳しさや完璧主義もまた音楽家気質を兼ね備えていた、というべきだろうか。

 なお、「和朗亭」「お笑いネットワーク」などといった地元番組への出演も盛んで、その一部は保存されている。今日でも、東六の「壊れるバイオリン」「三味線バイオリン」「チンドン三味線」「ハーモニカと皿」「ハタキと箒」といった雑芸を見ることができるのは、保存されているおかげである。

東六の引退と死

 1970年代にはいると、東六の糖尿病が悪化し、医者から「引退勧告」が出されていたにもかかわらず、かたくなに舞台へ出続けた。隠れて甘いものを食べるため、倅たちに叱られる姿がよく目立ったという。

 因みにウィキペディアにある「海原お浜小浜のコンパクトを最中と間違えて食べてしまった」という話の元は、1993年8月、朝日放送で放映された「永久保存版!漫才の系譜」で行われた海原小浜の放談の模様。

 1971年、長年の功労と若々しい舞台が評価され、「第6回上方漫才大賞」奨励賞受賞している。

 1974年、6月9月に引退――という文献があるが、その年の9月に和朗亭へ出ているので、どんなものだろうか。

 1974年9月28日、第13回和朗亭に出演。出演者は以下の通り。

佐賀家喜昇『おとろしや』
横山ホットブラザーズ『音楽ショー』
ゲスト 小沢昭一

 この舞台はDVD化され、今も見ることができます。

 舞台・テレビからの完全の引退は1975年の模様。こうして、東六は引退し、兄弟だけの体制になった。 

 この頃、MBSラジオより『ホットのしゃべって当てまショー!』の仕事が舞い込み、20年近くにわたって、毎日のように出演を続けた。

 また、東西交流が盛んになり、漫才ブーム前夜に乗ずる形で関東の番組にも出演するようになる。『土曜ひる席』『お好み演芸会』などではお馴染みの顔であった。3人体制になった後、

とかくこの世は朗らかに~笑う門には福来たる~歌う門にも又福来たる~歌って笑ってホットブラザーズ〜♪

 と、テーマソングを変えている。長い尺の時は全部歌っていたが、短い尺の時は、「とかくこの世は朗らかに歌って笑ってホットブラザーズ~」と〆ることが多かった。 

 東六引退後は、マコトが選曲や演奏を決め、残りの二人がうまくギャグやネタを振り分ける、という兄弟ならではの方式をとっており、それぞれがそれぞれ出しゃばりすぎず、目立たなすぎず、という絶妙なバランスをとることに成功した。

 一方、引退をした東六は、静かに療養生活を――と思いきや、おとなしくはしていられなかったと見えて、医者の目を盗んでは老人ホームなどに慰問へ行き、漫談や演奏を披露して、関係者を喜ばせたという。死ぬまで芸人の心と情熱を失わなかった。

 1980年秋、千葉県に住んでいる友人が病気で入院したことを知り、単身上京。見舞いに駆けつける事が出来たが、同地で捻挫をし、病院へ入院。

 その時、罹患した風邪が肺にまで達し、急性肺炎を併発。老齢と糖尿病の病歴もあって、悪化。手の施しようもなく、ぽっくりあの世へ旅立ってしまった。

 『演劇年報』(1981年号)に、

○昭和五十五年十一月六日、急性肺炎のため、千葉市の国立相互病院で死去。七十三歳。

 
 と、ある。しかし、訃報には柏市で亡くなったという旨が記してある。以下は、『朝日新聞』(11月8日号)の訃報。

 横山東六(よこやま・とうろく=音楽ショウ・マン)六日午前五時四十分、急性肺炎のため、千葉県柏市の国立柏病院で死去、七十三歳。告別式は九日午前十一時から、大阪市住吉区長居中ニノ三の蓮通寺で。喪主は長男彰(あきら)氏。 
 昭和二十九年、横山ホットブラザーズを結成、五十年に引退。四十六年に第六回上方漫才大賞奨励賞受賞。

 
『演劇年報』はいい加減な記載が目立つこともあるので、後者の訃報の方が信頼性あるだろう。

 この遠方での急死は関係者に相当な衝撃を与えたと見えて、相羽秋夫は『演芸おち穂ひろい』の中で、

 一九八〇年十一月二六日、横山東六が七十三歳で逝った。
 横山ホットブラザーズを作り、三人の子を立派に育ち、三年前から引退して悠々自適の人生を送っていたのに……残念なことである。
 千葉県に住む友人の病気を見舞いに行き、ねんざをして当地の病院に入院していたが、そこで風邪をひき肺炎を併発しての急死である。
 千葉県柏市まで一人で出かけられるほど元気だったのに、なんとも人生は皮肉だ。
 また一人、芸人らしい芸人を失った。彼は音楽の基礎を桜の宮音楽院で学んで、昭和三年には関西交響 楽団にも入っている、バリバリの楽士なのだ。この技術があったからこそ、笑いの世界でも一級の音楽ショーとして認められた。
 三味線とハーモニカとカネとを一度に弾きこなす珍芸や、台所用品を使った合奏など、見ているだけで 楽しい芸の数々が、音楽の豊かな素養から出ていることに注目したい。
 息子のアキラ・マコト、セッオの三人が一人前になったのを機に、彼はショーの主役から脇に回った。 適当な所で出てきて、なにかスカタンをやっては「おじゃましました」と笑わせてひっこんだ。
 それでもおじゃまだと感じたのであろう、ショーから姿を消した。だが、この世では決しておじゃまでなかったのに、なぜ死に急いだのであろうか。

 と記している。これは当時のコラムをまとめたものである。

大御所、横山ホットブラザーズ

 父の死を受け、ショックを受けた三人であったが、ホットブラザーズを解散することなく、父の志を受け継いで活躍をつづけた。

 この頃勃興した漫才ブームでは、実力派枠として売り出され、澤田隆治の『花王名人劇場』や民放のお笑い番組に次々と出演。ヤングの前で、ドタバタな音楽ショーを見せて、喝采を得た。

 3人体制になった後は、アキラが東六譲りの「ハーモニカの皿回し」「箒とはたき」を演じ、マコトがツッコミの傍ら、「箒とはたき」の笛や「ガラクタパーカッション」の演奏、セツオは兄二人の後見、伴奏に回ることが多かった。

 父親の芸を受け継ぎながらも、父の模倣にならない、独自の兄弟漫才を開拓。

 アキラの頭の上でガラクタや家財道具で作ったパーカッションをひっぱたく「ガラクタパーカッション」や、様々な楽器を小道具などを取り出して、雅楽から邦楽、ジンタ、バイオリン演歌、軍歌まで演奏する「日本歌謡史」などは、兄弟ならではのコンビネーションといえよう。

 当たり作品を挙げれば数限りなくあるが、やはり横山ホットブラザーズを代表する芸といえば「ミュージックソー」――あの歌うノコギリであろう。

 椅子に座り、スティックでノコギリを叩く。すると「ぽよよよ~~~~ん」と、不思議な金属音がして、アキラが顔を震わせる――というのが、お決まりの方で、音調べをした後、「お前はアホか~」と、テンポよくたたいて、二人から突っ込まれる芸を記憶している方は多いのではないだろうか。

 多くの文献では、この轟一蝶から譲り受けた、と書いているが、正確には轟一蝶の弟子で興行師をやっていた轟一声からもらったものであるという。弾き方やネタはこの人経由で教わったらしく、『上方演芸大全』の聞き書きに、

――漫才はいろんな珍芸を生みました。
アキラ 轟一蝶・美代子さんはバイオリンを壊したりの芸でしたが、うち、あれもらいました。のこぎりも一蝶師匠が戦前アメリカ巡業に行ったとき買うてきはってそれももらいました。一蝶師匠がバイオリンを組み立てておいてバーンと叩いて壊して「熱海のー海岸ぁんー散歩するー」というと、美代子さんが「貫一っつぁーん」「あぁびっくりした」となったりの芸があって、それも使わしてもらいました。のこぎりは一度も使わはるのを見たことがなかったが、それがお弟子の轟一声さんに渡って、一声さんは相方が三味線弾いている横でカンカラカンと当たり鉦みたいな感じでのこぎりを打っていた。それを「漫才やめて興行師になるからお前、使え」言うてくれはった。ぼくらも何とかものにせないかん、言うて工夫したんです。

 とあるのが見逃せない。事実はしっかりしてもらいたいものである。ちなみに、ノコギリは大切に使ったおかげか、手元の木の柄こそは何度か壊れ、修理したものの(入れ替えができる模様)、重要な刃の部分は一蝶当時のものであった。世界でも最古の部類のものに該当するのではないだろうか。

 マコト・セツオの演奏に合わせ、「荒城の月」「お正月」「世界に一つだけの花」などの童謡やポピュラー音楽を演奏するのがオハコであった。

 平成に入ってからは、都家歌六とともにミュージックソーの大御所と目されるようになり、サキタハヂメら後進に大きな影響を与えた。

 もっとも、サキタハヂメは都家歌六の奏法を受け継いだため、ホットブラザーズのそれとは違うのだが、当人曰く、「ノコギリを買ってきたものの、全然鳴らずに頭を抱えていたところ、横山ホットブラザーズの皆さんが、『あれは少しS字のように曲げて、揺らすとうまく鳴る』という芸談をしていて、その通りにやったら弾けるようになった」とのことで、影響力は決して小さなものではなかったようである。

 1980年代以降は、ケーエープロダクション発足当時からの生き残りとして、また漫才界の重鎮として、内外共に尊敬を集める事となった。老いることなく意気揚々と新ネタを手掛け、「上方演芸会」「お好み演芸会」「バラエティー生活笑百科」「お笑いネットワーク」「笑いが一番」などの番組に出演をつづけた。

 そんな巧みな演奏技術と音楽を笑いに変える所が評価されたのか、1985年、第9回日本パロディ展優秀受賞をしている。

 1985年4月、NHKで「バラエティー生活笑百科」が開始。早くから出演し、以来、2010年代まで最多出場というべき程、お馴染みの顔となった。

 この頃より、高い演奏技術とアチャラカな味わいが評価されてか、モダンチョキチョキズ、BAHOなどといった音楽グループと共演。漫才ファン以外のファンも集め、その演奏技術の高さを見せる事が出来た。

 1991年、高い演奏技術と躍進が評価され、「第20回上方お笑い大賞」審査員特別賞。

 この頃になると、東西を忙しく往来し、相変わらず至芸を魅せていた。その整然として、嫌みのない芸はNHKや東京の番組でも取り上げられ、落語・講談・浪曲中心の「日本の話芸」に出演したこともある。

 1994年、こちらも高い演奏技術と躍進が評価され、「第29回上方漫才大賞」審査員特別賞受賞。

 1996年3月21日、NHK大阪「漫才大王」で特集に組まれる。オール阪神・巨人、今いくよ・くるよについで3組目。

 1996年12月、平成8年度「第51回文化庁芸術祭」大賞受賞。関西では初の大賞であった。なお、この年からルールが改訂になり、「関西公演も含む」という恩恵をフルに生かした受賞であった。

 受賞理由は「同年10月8日、近鉄小劇場の『歌謡漫才フェスティバル』における演技」。

 この時、演芸部門の審査員の一人、大野桂がこの公演を偶然目にしていたそうで、その技芸に感動。審査の時に、横山ホットブラザーズが如何に素晴らしいか、賞に値するか、と力説したそうである。さらに関西の委員がこれに賛同する形で、大賞候補に持ち込まれ、めでたく受賞となった。

 1997年9月、長年勤めてきた『ホットのしゃべって当てまショー!』が終了。名残惜しまれながら、20数年の番組に幕を引いた。

 この頃になると、関西の番組のほか、「上方演芸会」「笑いが一番」「バラエティー生活笑百科」など、NHKを中心に出演するようになった。

 2003年、長年の功労を評価されて、「第38回上方漫才大賞」大賞受賞。

 2003年2月15日・3月1日、『めちゃ²イケてるッ!』の『笑わず嫌い王決定戦』に出演。つんく♂が「嫌いではない芸人」の一人として呼び出された。

 2004年12月18日、NHKの『ウルフルズのまいどHAPPY!』に出演。ウルフルズと共演をした。

 2006年5月5日、ETV『音楽のちから』に特別ゲストとして出演。東京フィルハーモニー交響楽団の演奏する「オー・ソレ・ミオ」と共演したという。

 2008年5月16日、「金曜バラエティー 横山ホットブラザーズ、サキタハヂメ 響けのこぎりミュージック」に出演。横山ホットブラザーズのおかげでノコギリを弾けるようになったサキタハヂメと共演した。

 同年「第13回上方演芸の殿堂入り」に選出される。この回は、選出者両方が健在で(ただし、もう片方の暁伸は妻のハワイと死別している)、しかも未だに舞台へ出ているという、初の受賞者であった。

 2011年3月6日、NHKの「MUSIC JAPAN」に出演。アヴリル・ラヴィーン,ノースリーブス、CHEMISTRY、平原綾香、FLOWといった若手のアーティストと共演し、ノコギリを演奏。若手を驚かせた。この時のナレーションは、何と水樹奈々である。

 2011年4月11日、吉本興業と業務提携を結び、43年ぶりに大阪・なんばグランド花月に出演。若手漫才に混ざって、至芸を披露。以降、晩年のホームグラウンドとなった。

 2012年、結成60年を迎える。

 2015年1月1日、30周年を迎えた「新春バラエティー生活笑百科」の特別番組に出演。

 ただ、これが最後の方の出演だった模様か。老齢やアキラの病気もあり、徐々に活動も縮小していった。

アキラの死

 2016年秋、なんば花月に出演したのを最後に、アキラは闘病生活に入る。最晩年は腰痛と腎臓病との戦いで、復帰を目指してリハビリを続けていたという。

 そんな兄の姿を見ていてか、弟2人も「ホットブラザーズ」として仕事に応じる事はなかった。

 ただ、セツオはまだまだ現役の年齢だけあってか、2017年ころより、ピンで演奏会や漫談で舞台に立っていた。

 2017年6月9日付で、大阪市より「大阪市指定文化財」に認定されたことが発表される。「上方漫才」での認定は、夢路いとし・喜味こいし以来二人目。

 文化財指定記念公演も期待されたが、アキラは遂に復帰することなく、2020年12月9日、88歳で父母の元へと旅立った。訃報は数多くあるが、大体は以下のような文面で構成されている。

 兄弟トリオ・横山ホットブラザーズのリーダー、横山アキラさん(本名・横山彰さん)が9日午前8時、腎不全のため亡くなった。享年89歳。所属事務所が11日、発表した。葬儀は近親者で執り行った。

 上方漫才界の最長老の死とだけあって、多くの新聞・メディアが彼の死を取り上げ、多くの有名人がSNSやテレビを通じて、追悼の意を表明した。

マコトの死

 アキラの亡き後、コロナ禍などもあり、横山ホットブラザーズの活動はほぼ停止。

 兄の死から1年半後、マコトが87歳で亡くなった。以下は『読売新聞』(4月26日号)の訃報欄より。

 音曲漫才の兄弟トリオ「横山ホットブラザーズ」でアコーディオンを担当した横山マコト(よこやま・まこと、本名・横山誠=よこやま・まこと)さんが22日、虚血性心疾患で死去した。87歳だった。告別式は近親者で済ませた。

 これにより初期メンバーは全て冥土に旅立ってしまった。これも時代なのだろうか。

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