ゼンジー中村

ゼンジー中村

ゼンジー中村(右)

 人 物

 ゼンジー 中村なかむら
 ・本 名 中村 則文
 ・生没年 1920年7月9日?~1978年7月21日
 ・出身地 和歌山県

 来 歴

 ゼンジー中村は戦後活躍した奇術師。漫才師と仲がよく、漫才の合間に挟まって本格的な奇術を展開する高座で人気を集めた。今日も活躍する関西奇術界の大御所・ゼンジー北京の師匠としても知られる。実力はあったが夭折した。

 詳しい経歴等は不明の上に、当人が生年をごまかしたと見えて、本によって記載がメチャクチャである。中でもWikipediaの記載はひどい。1929年生まれのはずがない。少なくとも墓所と戒名は判明しているので、絶対にこんな享年にはならないはずである。

『笑根系図』には「大正9年生れ」とあり、訃報が掲載された『演劇年報1979年度』には「享年52歳」とあり、『出演者名簿1963年』には「大正15年7月9日」とある。個人的には前者が正しいのではないかと考えている。

 元々はインテリで和歌山大学を卒業したというのだから大したもの。当時の芸人には破格の学歴であった。

 学生時代より奇術を好んでいたそうで、戦前、アマチュアマジシャンの大御所として知られた保田春雄から奇術の手ほどきを受けたという。そのため、『笑根系図』では「保田春雄門下」として記録されている。

 戦後、関西の百貨店にあるマジックショップのディーラーとして勤務。そのかたわらで奇術の腕を磨き、セミプロの名人として知られた。

 ディーラーという関係もあり、東京の松旭斎天洋や二代目天勝から薫陶を受けた。相羽秋夫は「石田天海、二代目天勝に師事」と記しているが、天海は1958年帰国のため、少し時期がずれるのではないだろうか。

 1950年代に入ると、半ばプロとして活躍するようになり、自らを「ゼンジー中村」と名乗り、「ゼンジー中村と魔術団」として舞台に出るようになった。

 1958年、高校を出たばかりの奇術好きの青年・渡辺重信が入門。「ゼンジー北京」その人である。

 1958年、大阪の奇術同好会「フェニックスクラブ」の会長となる。『奇術研究』(1959年7月号)の紹介文に――

 約一年ほど前、奇術研究家として大阪方面のアマチュアの間でたいへん人気のあるゼンジー中村氏を専属講師に迎え、なお新しく多数同好の士の入会も見て、ここに機構も一新されました。

 とある。

 ゼンジー北京は「関西奇術教室」に寄稿した『師匠と私』の中で――

「中国は広島生まれ。タネ、仕掛け、チョトあるよ」
ゼンジー北京(61)のマジックはこんなおしゃべりで始まる。
失敗してもお客様の失笑を買うものの、最後は鮮やかに仕上げる。
北京の師匠、ゼンジー中村のマジックは、北京とは全く違い、大がかりな仕掛けを使って華麗だった。 「音楽に乗って動き、スマートで魅力的でした」と北京。 
入門は高校を出てしばらくしたころだ。
師匠について歩いたが、師匠から直接の教えはなく、師匠の舞台を見て芸を覚えた。 だから、間もなく立つことができた舞台での芸は師匠のコピー。
「これでは師匠を超えられない。自分のスタイルを作らないと」思い立った。

 1961年、神戸松竹座で正式にデビュー。デビュー当時は保田春雄の大魔術の向こうを張った大奇術を得意としていた。

 デビュー後は松竹芸能に所属し、角座、浪花座、神戸松竹座などの大劇場に出演。タイヘイトリオ、かしまし娘、フラワーショーなどの音曲漫才や、ダイマル・ラケット、平和ラッパ・日佐丸、ミスワカサ・島ひろしなどが軒を連ねる中で堂々たる貫録を示した。

 酒もやらず真面目な人柄であったが、喋り好き。特に芸談と奇術の研究になると夜通しになることも珍しくはなかった。北京の『師匠と私』によると――

師匠は酒は飲まなかったが、話し好き。 明け方までネタのことで話し込んだり、道具を作ってペンキ塗りを手伝ったりした。師匠は「人のやらんことをやる」と言って海外から英語で書かれたカタログや専門書を取寄せて研究していた。 その反面、リハーサルはあまりやらず、失敗もあった。

 また、洒落っ気はあった。

 弟子の北京が「師匠、屋号のゼンジーってなんです?」と尋ねると「アラビア語で『偉大なる』という意味や」と答えた。北京は感心したが、後でアラビア語に詳しい人に聞いたら「そんな言葉はない」。さらに師匠を古くから知る人から「むかし、ゼンジー中村さんは中村善治といっておったんやで」と聞かされ、「善治=ゼンジー」と気づいた――

 という逸話が、『サンスポ』(2018年7月17日号)掲載の『関西レジェンド伝 ゼンジー北京(2)』に出ている。他にも北京はネタにしているので有名っちゃ有名であろう。

 1961年6月、アマチュアやセミプロを集め、「関西奇術教室」を開催。自身が亡くなるまで講師を務め、数多くの弟子を育て上げた。氏の亡き後は弟子のゼンジー北京が受け継いだ。

 1964年、関西マジック研究会を設立。自ら師範として会をまとめあげた。

 1968年11月、第1回奇術発表会を高麗橋三越劇場で開催。以来、50年近くに渡って開催されることとなる。

 1969年3月4日、関西テレビ放送の「日曜大魔術」に出演。

 1960年代は関西奇術界の大御所として活躍し、人気を集めた。一方、あまり強くない身体の中で仕事や研究に励んだり、徹夜マージャンをするものだから、体調を崩しがちとなった。

 晩年は長らく連れ添った妻と別れ、アシスタントと再婚。1970年代に入ると体調悪化が目に見えるようになり、大奇術を演じる事も少なくなった。最終的には小品奇術で何とか舞台を保つような有様であったという。

 奇術教室でも体調不良の様子を見せていたようで、弟子のゼンジー佐々木は『中村師匠のこと』という記事の中で――

そのころ、師匠は体の具合が悪く、教室に来られても横になって見ておられたのですが、わざわざ起き上がり、形を見せて教えてくださったのには恐縮いたしました。
奇術を愛し、奇術を中途半端に扱わないお心掛けであると思いました。

 と述べている。

 最終的に肺を病んで入院。最後の舞台は1976年9月に行われた「第9回奇術の祭典」だろうか。

 堺市の国立療養所に入ったが、薬石効なく没した。『演劇年報1979年度』の中に――

○昭和五十三年七月二十一日、堺市の国立療養所近畿中央病院で肺結核のため死去。五十二歳。

 とある。また、「関西奇術教室」の記事では「昭和53年7月21日午後6時50分 大阪市堺市長曾根町 近畿中央病院で死去されました 享年52歳」とある。

 さらに、相羽秋夫は『演芸おち穂ひろい』の中で――

大きなネタで華麗に――ゼンジー中村
四月五日、サンケイホールでゼンジー北京の芸能生活二十五周年記念リサイタルが開かれた。その舞台で、北京は、
「私が今日あるのは、尊敬する師匠ゼンジー中村のおかげです。今はもうこの世の人ではありません。せめてこのステージを見て欲しかった」と涙ながらに語ったものだ。
 中村は、和歌山大学出身のインテリで、温厚な紳士だった。
 だから弟子の数も多く、彼をしたってたくさんの人が集まってきた。
 そのなかの一人が北京だった。中村は「魔法のグループ」と称する若者をたくさん使い、次々に大きなネタを展開する華麗な舞台を得意とした。
 袋に入った女性が、樽の中に鍵をかけて入り、一瞬のうちにその美女と中村が入れ替るという樽抜け芸を筆頭として、グランドマジックの華を見せてくれた。
 いつのころからか肺結核をわずらい、大ネタも出来ずに、小さい奇術に移っていった。
 そして、後見の美香との結婚。これは前夫人と離婚してのものだった。そうした心身ともの苦労が重なったのであろう。病気はどんどん進行して、一九七八(昭五十三)年七月二十一日、五十六歳という若さで他界してしまった。生きていれば、まだ六十三歳。愛弟子北京のリサイタルに花を添えてやることが出来ただろうに。

 どちらの享年が正しいのか、判然としない。

 一方、マジック研究家で長らくディーラーをやっていた植木將一がまとめた『マジックディーラーと私』の中を見ると、「ゼンジー中村氏は結核で亡くなったというが、実際は違うようである。ご遺族の話を伺うと『肺の中に結核菌などなかった』という」(大意)といったことが記されている。

 肺結核の伝説がどこから来たのか、そして本当に肺結核だったのかどうか今となっては不明であるが、いずれにせよ夭折した事だけは事実である。

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