山崎正三・都家文路
阿呆陀羅経を演じる二人
コンビ結成後まもなくの二人
人 物
山崎 正三
・本 名 山崎 源次郎
・生没年 1906年2月28日~1983年11月6日
・出身地 大阪府 堺市
都家 文路
・本 名 山崎 ふみ(文子とも)
・生没年 1913年7月6日~1990年以降
・出身地 北海道 旭川市
来 歴
戦前戦後活躍した夫婦漫才師。阿呆陀羅経を継承するコンビであり、正三は関西芸能親和会の会長としても活躍した。秋田実の右腕としても活躍し、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、ミスワカサ・島ひろしなどのお目付け役としても知られている。
二人の経歴は『日本演芸家名鑑』、『国立劇場演芸場』(1983年11月号)の『芸人・てんのじ村(Ⅳ)』に詳しく出ている。下記は、その概要を記したもの。
山崎正三は、明治39年、堺市で刃物製造業を営む家の末っ子として生まれる。五人兄弟であったという。『出演者名簿1963年』を見ると、明治42年生まれと書いてあるが、これは年齢詐称であろう。ただ、誕生日は正しいのではないだろうか。
末っ子だけあってか、期待されて育ち、実家に多くの華道家・料亭関係者が出入りしていた関係から、茶道と華道を習うこととなり、免状を取得した。
この意外な特技は晩年まで生活の糧となり、仕事がない時は、近所の婦人連中や娘たちに茶道や華道を教えていたというのだから、芸は身を助くの例えである。
尋常高等小学校高等科に進学後、家業を手伝うようになったが、このころから遊芸に凝り始めるようになり、仕事が終わると寄席通いをして遊ぶ生活を続ける。その中で多くの漫才師の芸に接し、面識を得るようになる。
1920年、家族の反対を押し切って、若松家正右衛門の弟子となり、若松家正蔵と名付けられる。本人曰く、「六十人余りの弟子がいたが、自分は九番目の弟子だった」という。
前座見習いとして、師匠の舞台や一座でついて歩く傍ら、阿呆陀羅経、数え歌、俗曲などを会得する。但し、師匠や兄弟子への遠慮から、戦前阿呆陀羅経を演じる事は少なかった模様。
まもなく弟弟子の若松家正春とコンビを組んで、初舞台を踏む。
当時は「萬歳」の名残が強く残っていたためか、はたまた師匠の影響か、鼓と張扇を持った古典的な漫才を演じていたそうである。
しゃべくりや軽口から音曲、最後に芝居の真似事をする――という芸を得意としていた。これらの諸芸尽くしは後年の舞台に幅を持たせる事となり、大いに役立った模様。
それからしばらくして独立。一座を転々としながら、修行に励んだ。
このころ、博打で刺青師を負かしたことによって、面識ができ、花魁の彫り物を入れることになったが、結局完成することなく、死ぬまで背中に残ることになった。その逸話が桂米朝『上方芸能誌』に出ているので引用。
実は山崎正三さんも不思議な刺青をしてはるんです。背中に、未完成の花魁が彫ってある。やりかけたけど痛いさかい辛抱できずにやめはったんかと思うたら、それがそうやないんです。
正三さんが十八、十九のころ、信州の方を回っていまして、博打で大勝ちしたときのことです。その相手が刺青師で、お金がなくて払えんもんやから、
「借金のカタに彫ったるわ」
いうて、その刺青を彫りはじめたのやそうです。
ところが、そのあとも刺青師は正三さんに負け続け、しまいには刺青くらいでは払い切れんくらいの借金ができてしまい、とうとうドロン――つまり、逃げてしもうた。それで結局、刺青は未完成のままやということなんです。
「決して痛いさかいに途中でやめたんとちがうで」
正三さんはその点を何度も強調してはりました。
また、若松家遊子なる人物とも組んでいたことがあるらしい。『神戸新聞』(1931年7月11日号)に、
◇十二日の海と山
○境浜海水浴場…笑會一行の諸芸大會=午後一時より 漫談(桂米丸)萬歳(若松家正楽、同鶴千代)落語舞(笑福亭松竹)文化萬歳(桂家半丸、同蔦奴)魔術(松浪天外)音曲萬歳(若松家正三、遊子)
○麻耶山天幕村…日本水芸=家元吉田菊五郎一座 落語(橘家矢笑)小奇術(吉田菊丸)人情手踊(笑福亭里鶴)奇術(吉田菊五郎)足芸(桂遊楽)大魔術(吉田菊五郎一座)軽口萬歳(桂矢笑、同遊次)大水芸(吉田菊五郎一座)
とある。その後は都家駒蔵とコンビを組んでいたらしく、『国立劇場演芸場』に、「当時、山崎さんは若松家を名乗り、都家駒蔵さんを相方にしていた。結婚後は駒蔵さんに代って文路さんが相方に起用されたが……」とある。
その後も、一座を転々としたのち、若き日のミヤコ蝶々の一座に客演として入団。ここで文路と出会い、恋愛に発展。1934年秋に結婚する。
相方の文路は北海道旭川の生まれ――というのだから、関西との縁がないような人であった。実家は商家を営んでいたそうで、官庁御用達の名店だったという。実家が裕福だったためか、小学校・高等科を卒業している。その影響か、晩年まで非常に丁寧な言葉遣いをしていた。
卒業後、家事手伝いや花嫁修業をしていたというが、ある時、友人に誘われて奇術の宮岡天外一座の旭川公演へ見に行き、感銘を受ける。
芸事好きだった友人は、弟子入りを考えるほど感激を受けてしまったそうで、そこまで考えていなかった文路を口説き落とし、二人で入門してしまった――というのだから、芸能界入りの由来はいい加減なものである。
この宮岡天外という人は、「見世物興行年表」に詳しいので、詳細は略すが、「明治8年(1875年)三重県阿山郡の生まれ。本名節五郎。初め中村一登久の門人となって中村一幸と名乗る。のちに初代松旭斎天一の門弟となり、松旭斎天慶と改名」という本格的な奇術師で、独立後は西洋奇術の他に催眠術などを得意とした奇術界の異端児であった。
さて一座に入ったものの、芸事おぼつかない文路が奇術ができるはずもなし、一座の余興で行われていた寸劇やレビューの仕出しとして、芸事のイロハを学ぶこととなった。
師匠の一座について全国を巡業し、様々な経験を積んでいくうちに芸人への思いを強くするようになるが、入団して数年後に天外が死去。一座も解散してしまう。
そこでミヤコ蝶々の一座に拾われ、一座で働いている時に正蔵と出会い、相思相愛の中となって結婚したという。上記が夫婦漫才結成の前日譚といったところ。
結婚後間もなく一座を抜けて帰阪。コンビを組むものの、漫才師との伝手がない妻のために、都家文雄に世話を頼み、「都家文路」と名乗る。しばらくの間、仕事の合間に文雄の下についてツッコミの勉強をしたという。
その努力によって見る見るうちに頭角を現し、1935年、吉本興業に入社。すぐさま同社経営の寄席に出るなど人気漫才師として迎え入れられた。
その当時は、エンタツアチャコや雁玉十郎の人気を受けてか、これまでの音曲漫才を捨てて、しゃべくり漫才に転向。正三が洋服、文路が着物という衣装で(正三が紋付を着るときもあったが)、文路が正三をコテンパンにやっつける女流優位漫才の舞台を展開した。
その当時の人気はなかなかのものだったと見えて、雑誌『ヨシモト』に数本速記が載るほか、レコード吹込みもしているはずである。
秋田実は当時のこのコンビを回顧して、『大阪笑話史』の中で、いやが応にも漫才が充実し活気を呈してきた時代で、「今の正蔵・文路さんもそのころは一番若い新進の男女コンビであった。」と激賞している。
太平洋戦争勃発に伴い、劇場や寄席が閉鎖され、出演も減少。戦争末期には正三が軍需工場へ徴用され、コンビ活動を停止した。文路は、先輩の小松月美津子とコンビを組んで、当座を凌いでいた。
敗戦後の動乱期には、一時期漫才界から距離を置いていたが、大阪演芸界復興に伴い、復帰。若松家の屋号を返上して、「山崎正三」と改名する。理由は知らんよ。
その後、秋田実、兄弟分の志磨八郎と手を組む形で、「MZ研進会」を設立。当時の若手漫才師、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケなどと共に「青春ブラザーズ」を結成。地方巡業に出た。同座では兄貴分として活躍したそうで、舞台出演だけでなく、舞台交渉やスケジュール調整など、マネージメントも行っていたという。
MZ研進会が、宝塚新芸座と改名した後も、しばらく同座に所属していたが、諸般の事情のために脱退。但し、秋田実や志磨八郎との交友は長く続いた。
脱退後は千土地興行に所属し、千日劇場に出演。この頃、秋田実の勧めで音曲漫才に転向。兄弟子の二代目若松家正右衛門が死に、阿呆陀羅経が廃絶する事を惜しんだ秋田実が、強く勧めた――という。
以来、しゃべくり漫才の後に文路が三味線や拍子木を持ち出し、音曲や阿呆陀羅経を演じる舞台へと転向した。その頃の芸風や逸話が『米朝上岡が語る昭和上方漫才史』に掲載されているので引用。
上岡 山崎正三・都家文路さん。
米朝 この山崎正三はんというのは、若松家正右衛門という人の弟子で、一番弟子が老松、二代 目若松家正右衛門になった人で、老松・姫松というて嫁はんとコンビを組んでいた。長男が曲独楽の伏見紫水。紫水の姉さんが、若松雪路。山崎正路・若松雪路で漫才をやっていた。それで初代正右衛門の二番弟子が、洋々・正二郎の初代の正二郎はん、これは若松家や。その次が正三はんや。
「これは初め、ショウゾウやなしにショウザというてたンと違いまンのか」「そうやねん。わたいはショウザやねん。皆がショウゾウはん、ショウゾウはんというさかいにショウゾウにしてしもてん」というてな。
上岡 この山崎正三さんは戦後、秋田實先生を中心とした若手漫才のMZ研進会なんかではリーダー格みたいな存在やったのと違いますか。
米朝 そらもう晩年は一番古かったさかいね。いとこいやとかA・Bなんかが漫才のことをよう知らなンだ時代にこの人が全部世話を焼いたわけや。顔がきくしね。けどトリをとるという感じの漫才ではなかったな。舞台ヘッーッと出て来るなり、「聞くところによるとあんた、アホやそうやな」。あれがつかみやった。志磨八郎さんがだいぶ台本を書いていたな。あれ、兄弟分やとか何とかいうてたからね。
1953年、日赤芸能奉仕団の結成し、刑務所慰問や結核・ハンセン病療養所への慰問を開始。以後、団長として30年間活躍する。
1973年、芸人たちとの和合が取れないことや東五九童との対立を理由に、人生幸朗や吉本系の芸人たちと共に関西演芸協会から離反。「関西芸能親和会」発足のリーダーとなり、盟友の人生幸朗を会長に仕立て、自身は副会長として君臨。新たな団体づくりに奔走した。
この頃から、所謂古老漫才師として、その価値を認められるようになり、阿呆陀羅経や数え歌を引っ提げて、テレビやラジオに出演。廃れ行く漫才の雑芸の見本というべき諸芸を残した。
1975年、LP『上方お笑い七十年』の対談に招聘され、昔話と阿呆陀羅経の一部を披露。
1976年、LPレコード『上方演芸 今は昔 藤本義一が訪ねた天王寺村』に阿呆陀羅経「ないないづくし・ぼうぼうづくし」を吹き込んでいる。
1982年、人生幸朗死去に伴い、関西芸能親和会会長に就任。副会長時代から務めてきた成田山芸能奉賛会を発展させるなど手腕を発揮。
1983年3月4日、亡き友・人生幸朗の為に一心寺で一周忌法要を開催。病後の身体を物ともせず、法要の日取りや集会などに力を注いだ。相羽秋夫『相羽秋夫の演芸おち穂ひろい』に晩年の動向が出ているので引用。
音曲漫才古典の数々 ――山崎正三・都家文路
早いもので、ぼやき漫才の大家人生幸朗が死んでもう一年になる。先月四日、阿倍野の一心寺でその一周忌が盛大に営まれた。
運営に尽力したのが山崎正三だ。彼の妻都家文路が幸朗と同門であり、また幸朗が会長をやっていた「関西芸能親和会」の副会長だった関係で、彼が一肌ぬいだというわけだ。
そんなつながりがなくても正三は芸人のなかではひときわ世話好きの一人だ。
もともと「関西演芸協会」という組織の要職にいたが、多人数になって人の和がうまくいかなくなったのと、二大プロダクションにわかれているという二つの理由で、主に吉本系の芸人に語りかけて幸朗が親和会を作った時に、彼も同調した。
幸朗は刑務所の慰問に力を注いだが、正三もハンセン氏病患者や寝たきり老人に笑いを提供しようと、足しげく病院に通っている。
そんな彼が、ますます上方漫才界の貴重な存在になってきた。 彼の年齢の人が次々に鬼籍に加わるためである。
正三は、至芸「あほだら経」や「教え唄」など音曲漫才の古典を数々持っている。それを伝承する人が少なくなってしまったのだ。
暇があれば、京都の車折神社(芸人の神として有名)に長寿を祈念している。
そんなけなげな二人の漫才にもっと脚光が当たるといいのだが……
その法要の直後、正三は脳溢血に倒れ入院。幸い、治療が効を奏し、言語障害など残ることなく、復帰できたものの、以来病気がちとなり、関西芸能親和会の運営などは弟子の山崎正路に一任するようになった。
1983年11月1日発行された『国立劇場演芸場』に談話が掲載されたが、これが実質の遺言のようなものとなり、発行から5日後、正三は77歳で息を引き取った。『国立劇場演芸場』によると、心筋梗塞であったという。
訃報が『演劇年報』に出ていたが、目下その写しが見当たらないので省略する。また見つかったら追記します。
旦那亡き後、文路はしばらく芸能界に残ったものの、誰彼とコンビ組むわけでなし、1987年ころ引退した。そのくせ、芸能親和会には1990年ころまで所属している様子が、確認できる。
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