堤英二・よし枝

堤英二・よし枝

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 人 物

 つつみ 英二えいじ

 ・本 名 古田 勤二
 ・生没年 1903年9月13日~1986年
 ・出身地 新潟県 五泉市

 つつみ よし枝

 ・本 名 古田 義枝
 ・生没年 1915年9月15日~1986年以降
 ・出身地 九州生れ、大阪育ち

 来 歴

 戦前戦後活躍した夫婦漫才師。ドスの効いた英二と甲高い声のよし枝との対比で人気を集めた。かんしゃく玉を張扇の中に詰めて、それを爆発させて効果を狙う漫才をやっていた。

 二人とも昭和末まで活躍したおかげか、その前歴は断片的ながら残っている。生年は『出演者名簿 1963年度』から割り出した。経歴は、相羽秋夫『上方演芸人名鑑』にこれが出ているので引用しよう。

 堤英二 つつみえいじ【漫才】
 本名古田勤二
 一九〇三(明三六)~
 新潟県五泉市の生まれ。大一二年、筒井徳二郎の名で新声劇が初舞台。漫才に転向し、浅田家日佐丸門下となる。新声劇以来の妻である堤よし枝と、浅田家日佐松(=英二)・日佐美でデビュー。中断していたが、戦後現在名で再び舞台に立つようになった。なれぬ手つきでピアニカを吹く英二に芸人の業を感ずるのだ。

 堤よし枝 つつみよしえ【漫才】
 本名古田義枝
 一九一五(大四)~
 九州で生まれるが育ちは大阪。九歳より日本舞踊を習う。新声劇で堤英二と知り合い、二人はそのまま漫才の浅田家日佐丸門下に。浅田家日佐美の名でデビュー。戦後在名に改めた、カン高い声は、英二の低音とコントラストを見せる。ミヤコ蝶々にかわいがられ、彼女のお芝居には必ず出演している。昔取った杵柄というところか。

 新声劇とは、1917年に澤田正二郎らによって立ち上げられた劇団「新国劇」を脱退させられた(澤田との対立と一座の分裂決起が露見して引責辞任を取らされた)中田正造が関西で立ち上げた劇団で、澤田正二郎張りの剣劇で人気を集めた。

 後年、この団体から辻野良一や酒井淳之助らが誕生し、長い人気を集めた。中でも辻野良一は、戦前の吉本興業と仲が良く、漫才師とも仲が良かった。

 然し、上記の点で、「あれ?」という点を挙げると、英二の芸名が「筒井徳二郎」となっている点である。

 この筒井は、実在した人物で、中田正造らと共に「新声劇」を作った一人である。後年、劇団をぬけ、剣劇に飽き足らず、翻訳劇や歌舞伎なども演じ、1930年には、世界をまたにかけた巡業を行っている。そんな大御所の名前を、英二が名乗れるのだろうか。門下生や私淑していた可能性、といった方がよいのではないだろうか。

 英二は、同劇団で仕出しをやっていたようであるが、後年入ってきた義枝と意気投合し結婚。歳の差を考えると、英二は相当後まで役者をやっていた模様である。

 夫婦になった後、漫才転向を志し、浅田家日佐丸に入門。浅田家日佐松・日佐美となる――が、笑根系図にはなぜか「堤よし枝 前名浅田家日佐嬢」とある。

 戦時中は師匠・日佐丸が属した新興演芸部系の寄席に出ていたようであるが、謎が多い。

 敗戦前後で師匠・日佐丸を喪い、一時廃業した模様であるが、これも謎が多く判らない。

 戦後、「堤英二・よし枝」の芸名で復帰。主に吉本の花月系の劇場に出演。派手さこそないものの、淡々たる話術で舞台を引き締め、舞台の調和を計った。まだ体が動く頃は、よし枝がかんしゃく玉を仕込んだ扇子で英二を殴る、凄まじい暴力漫才をやっていたという。『上方演芸大全』に、

 アキラ あほだら経をやる人は、荒川キヨシさん、市川福治さん、山崎正三さんがいました。ぼくのあほだら経は市川福治師匠に習いました。
マコト 堤よし枝・英二さんは扇子の中に投玉を仕込んでおいてコント風のことをやり、「お父っつあん……」とかなんとか、かんとかと、最後のシーンまでパーンというて頭叩いてトリネタにして盛り上げてた。

 晩年の舞台の様子を、相羽秋夫が『相羽秋夫の演芸おち穂ひろい』の中で紹介しているので引用。

 堤英二・よし枝

 間のびしていて、まったりとしたおしゃべりに特色があった。堤英二は、もともとお芝居の出身だ。 新声劇に加わって、パリッとした二枚目をこなしていた。 そのころ知り合ったのがよし枝夫人で、現在の顔から想像すると、さぞかし若いころは美人であったろう。
 劇団の解散などもあって、新しく飛び込んだのが漫才の世界である。 平和ラッパと同じ門下生で、よし枝が三味線を持って音曲漫才をやった。 横でつっ立っているだけでは悪かろうと、習い始めたのがピアニカである。鍵盤にドレミを書いて覚えていたが、それでもマスターできず、最後までおぼつかない手つきだった。
 だが、六十の手習いとでもいおうか、年取ってからの勉強はむつかしいもので、その意欲だけはまわりから賞賛された。一粒種のむすめさんがかわいくて、よく楽屋などで、「『朝日新聞』に勤務しとる。よう働くええ娘や」と、手ばなしでのろけたものだった。
 テンポの早い現代漫才のスピードについていけず、いつの間にか寄席を去ったが、昔とった杵柄で、ミヤコ蝶々の劇団に加入して、お芝居をやっている。
 峠の茶屋の老夫婦役などで出演すると、それだけで絵になるところが、年期のせいであろうか。

 また、役者出身だったこともあってか、漫才師のミヤコ蝶々が喜劇を演じる際、脇役で出演。当り狂言となった『晴れ晴れ街道』では、英二が「おじいさん」に抜擢され、枯淡な味を見せたと聞く。

 晩年は関西芸能親和協会に入っていたが、1979年頃退会している。晩年は漫才のテンポアップや相次ぐ劇場の閉館で漫才界から離れた。

 相羽秋夫『相羽秋夫の演芸おち穂ひろい』によると、英二は1986年に没。よし枝は引退したという。

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