秋山道楽

秋山道楽

 人 物

 秋山あきやま 道楽どうらく
 ・本 名 名越 直
 ・生没年 1890年~1961年以降
 ・出身地 ??

 来 歴 

 漫才史的には、秋山右楽・左楽の師匠としての功績が一番有名な漫才師。然し、その割には情報がなく、いったいどういう人なのか、よく判らない。

 生年は『笑根系図』より、本名は『帝都漫才協会名簿』より割った。

 元は剣舞師だったらしく、戦前の郷土研究誌『上方』(100号)掲載の『剣舞芝居』に、その経歴がほんの少し出ている。当時の貴重な資料として全文引用しよう。管理人に代って本文を調査・送付いただいたフォロワー諸氏に感謝を申し上げる。

 劍舞芝居 花月亭 九里丸

 千日前の井上の劍舞芝居が懷しい。
 明治末期までは場末の寄席では旺んに流行った見世物である。 勿論役者と名のつく程の心得のある連中がやるんでなく、無名のアマチューアの小器用で“鞭聲蕭々々”から、“そも/\熊谷直實はアー”どんがらんと鎧武者がべた/\に白粉つけて出て来て大きな目を剥いたものである。 私は子供心に嬉しかった。
よく出た藝題は「白虎隊」「城山」これなんぞは正に今日のチャン/\バラ/\の劍劇の始祖と云っていく位の有難いものだ。
それに「須磨の浦組打」「義士打入」「楠公櫻井驛より湊川まで」等は未に目に残る面白い勇壮活淡にして賑やかなそして他愛もないものであった。 恐らく大衆的な素描芝居で桃色がゝつたいやらし味の絶無な點は、若し今日にして存在するならば確に官憲の推獎して止まないものであらうと考へさくれる。
こゝで一つ「日清戦争」を紹介する。
これは舞臺の幕が開くと海の景色である、この海の景色でジャ ンギリ物もやれば、熊谷敦盛の須磨の浦にもなれば、菊水の旗が風に飜る湊川にもなる、春夏秋冬は申すに及ばず、朝の場面も月夜と暗夜との差別なく此海のバック一枚で芝居をする……舞臺下手に汚れた波幕が敷いてある、上手寄りには粗末な汽船の舳が出てゐる。
そこには今これから出征の途につかうとする兵隊が五六人乗つて居て、口々に出 鱈目の臺詞で○○○/\坊主の悪口を云ひながら愛國思想を述べ立てる、とヂャン/\の銅羅の音で舞臺に現れたのが關羽然たる立派な携を生して居る陸軍大將である、あとから令嬢に扮した女がたが眞白く白粉を惜氣も無く塗り立て足許は立派に外輪に步いて附いて来る。兵隊は皆直立不動の姿勢を取って敬禮をする。

「おゝ一同の者大儀であった、仕度は出来てゐるか」
「ハイ、閣下、ちゃんと出来上りました」

 と一々兵隊は敬禮をする。
 将軍はニッコリ笑ふ、こゝで将軍が眞黒な髭の中からペロリと赤い舌を出す……今を時めくエノケン氏なんぞよりも、ずうと 以前に恁んな演出があった……さて偖からが大変だ、伴れて来た令嬢との別離の大悲劇となるのだが、臺詞によるとその令嬢には 身寄りが誰もない、母も死に、兄も出征し、本當の孤獨で、ただ書生だけが忠義をつくしてみる、だからたった一人の父将軍との袂別は眞實悲痛なもので、女客に秋を日許に當て泣いてある人が澤山あった。
そこへ……ばた/\で書生が駈寄る、令嬢を残して将軍が船に乗る、すると樂屋の方では俄に賑かに拍子を取って、鉦太鼓の鳴物入りで

 日清談判破裂して
 品川乗出す吾妻艦
 續いて金剛浪速艦

 と勇壮に節面白く唄出す、それにつれて令嬢も書生も旗を持つて踊る、将軍も兵隊此横を合唱しながら面白く踊り出す。
 恰度今日の歌劇のフイナレー型で演じる兎に角結構なものであった。

この連中から漫 才師と轉向した者も亦澤山ある。漫才で始めて洋服を着て舞臺へ立った日本チヤップリンとウグヰス、林田五郎、松鶴家千代八、小山慶司、 秋山道樂、石津政雄、變った所では尺八の扇遊老も、劍舞師の流れである。

 剣舞芝居が流行ったのは、明治末なので、明治40年代にはもう活躍していた模様か。当時の芸名等も不明。

 剣舞衰退後は喜劇に転向した模様であるが、これまた不明な点が多い。数少ない出典としては『レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版』の「秋山右楽・左楽」の紹介文に「喜劇の秋山道楽の門に入り、二枚目として活躍。後轉じて漫才界に入り、喜劇時代の師匠の亭號を貰ひ秋山と名乗る」とある程度。

 1923年頃、攻玉社工学校を卒業した広井文一(文市とも)青年が入門。この子が後年、戦前吉本の看板格として活躍する事となる秋山右楽である。

 長らく喜劇役者として活躍していたようであるが、弟子の成功や喜劇のマンネリ化などを受けてか、漫才に転向。桜井国雄なる人物とコンビを組んで、漫才師となる。

 吉本興業に入社し、神戸にあった千代乃座に出演。同地ではなかなかの人気者だったらしく、若き日の西条凡児も感化を受ける所があったという。戸田学『凡児無法録 こんな話がおまんねや 漫談家・西條凡児とその時代』の中に、

桜本国雄・秋山道楽 当時、非常によかった。御両人のイキから学ぶ所が多かった。飛ぶ鳥もおとすぐらい。千代之座の彦左ェ門だった。親しみを持って口をききに行っても、何だ若造がと云う態度だった。楽屋入りをして来て、私の方からお早うさんと先ず云っても返事もしなかった。正月に年賀状に今度逢うたら百年目と書いたら大変怒っていたらしい。私には当時こんな事はザラにあったが。国やんは国やんである。コーヒーもつき合わない。一円も使わず、昼めしも食わない。ルンペンみたいな風で靴下の代りに足袋を履き、破れた靴から足袋がはみ出していた。昼の休みには万国館で皆がめしを喰べかけると七子の風呂へ行き四時間ぐらい入って真っ赤になって出て来た。当時、自分は払わず他人におごらせる人間は多々あったが、他人にも自分にも払わないこの人は特筆すべきものであった。私達より遅れて籠寅に来たが、恵まれなかった。道楽氏は往年の意気はなく、モウロクしておった。最近まで京都の勢国館にいたらしい。  昭和二十一年十二月初旬記。

 なる記載がある。

 戦時中は籠寅に所属し、京極演芸館や籠寅直営の寄席に出ている様子が確認できる。然し、空襲や戦況の悪化で職場を失い、コンビ活動も自然消滅した模様。

 戦後も健在だった模様であるが、西条凡児に「道楽氏は往年の意気はなく、モウロクしておった。」と書き立てられる始末で、芸能界に復帰する様子はなかった模様か。

 然し、『笑根系図』が完成した1961年のそれをみると、「没」とは記載なされていないので、一線を退きながらも、健在だった模様か。

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