太刀原幸門

太刀原幸門

左から太刀原幸夫・太刀原幸門・太刀原トミ子
(関係者提供)

 人 物

 太刀原たちはら 幸門ゆきかど
 ・本 名 下仲 市松
 ・生没年 1911年8月16日~1981年1月4日
 ・出身地 兵庫県 川西市

 来 歴

 太刀原幸門は戦前戦後活躍した漫才師・浪曲師。元々は浪曲師であったが、浪曲不況で音頭漫才ショーに転向。家族ぐるみで「太刀原幸門ショウ」を率いていたが、最晩年に浪曲界に復帰し、師名「二代目日吉川秋斎」を襲名。関西浪曲界の古老として活躍。

 資料によって生年月日・没年が滅茶苦茶で頭を抱えかけたが、経歴等は三代目日吉川秋水の関係者より戸籍を元にしたお話を伺えた。上にあげたプロフィールは戸籍を元にしたものなのでこれが多分正しいと思われる。

 出身は「兵庫県川辺郡多田村」。しかし生前は「出身は池田市」と自称していた。理由はよくわからない。育ちも兵庫のはずであるので、なぜ池田市生まれと言い続けたのか――

 母は稲葉その、父は下仲竹松。当初は「稲葉市松」といったが、1歳の時に父が認知したために入籍。「下仲市松」となる。

 五人兄妹の三男。高等小学校卒業後、普通に働いていたが浪曲が大好きで、仕事をやめて、浪曲界入りを考えるようになる。

 21歳の時に売り出しの浪曲師・日吉川秋斎に入門。

 入門後の経歴は『上方芸能61号』(1979年5月号)掲載の「関西現代浪曲名鑑」に詳しい。

昭和7年3月21日 初代日吉川秋斎に入門。日吉川斎蔵と名のる。
昭和7年4月 大阪市千日前の愛進館にて初舞台。「雷電の弟子入り」を語る。
昭和16年6月 太刀原幸門に改名。

 1938年の番付では「有望者と新鋭」としてランクイン。

 師匠譲りのケレンを得意とし、「左甚五郎」「水戸黄門」「木津勘助」「奥州奴」などのとぼけた浪曲を得意とした。

 1941年、「縁起のいい名前にしたい」と占い師に相談した結果、勧められたのが「太刀原幸門」。これを芸名とした。また一説では占いや姓名判断を得意としていた松平国十郎の命名ともいう。

「タチハラ・コウモン」と呼ばれたが、正式には「タチハラ・ユキカド」と読むらしい。

 1941年の番付では、西二段目・前頭9段目。すぐ後ろには京山小太夫(三代目小円)がいる。

 1942年に奥愛子と結婚し、子供を設けているが、1960年に破局している。

 1947年12月26日~28日、京都座の吉例顔見世興行に出演。中川伊勢吉、京山華千代、吉田奈良丸、富士月子、筑波武蔵、京山幸枝、梅中軒鶯童、広沢晴海、京山小円嬢、師匠の日吉川秋斎、義兄の日吉川秋水などが列席。

 1950年の番付では前頭8枚目。二代目広沢駒蔵を筆頭に、筑波武蔵、広沢晴海、中川伊勢吉、吉田日の丸、八洲東郷、八洲天舟と並ぶ中でのランクイン。

 1953年の番付では、前頭12枚目。すぐ上には華井新十郎(真山一郎)、8枚目には南条文若(三波春夫)、5段目には酒井雲坊(村田英雄)がいる。

 1954年の番付では、前頭11枚目。9枚目には京山小太夫(三代目小円)、前頭筆頭は二代目京山幸枝。

 1955年の番付では、前頭11枚目。

 この頃より浪曲不況の波が押し寄せるようになり、一部の大幹部と放送界隈と結びつきを得た浪曲師以外は苦境を強いられるようになった。

 この頃、伯父弟子に当る二代目日吉川秋水の妹・河知トミ子と付き合うようになる。トミ子は幸門の曲師をしていた。

 トミ子と協力して「安来節浪曲」「浪曲音頭ショー」と呼ばれる従来の浪曲にとらわれない色物風の活動を魅せるようになる。

 1961年の番付では「闘将」と一枚看板で扱われているが、浪曲界での居場所は余りなく厳しい状況下にあった。

 一方、浪曲出身のタイヘイトリオや暁伸・ミスハワイ、ジョーサンズなどの浪曲ショーは凄まじい人気を集めていた。沢山の仕事とレギュラーを抱え、浪曲を唸りながら多くの客を呼んでいる――浪曲師が慌てないはずもなかった。

 ただ、浪曲番付には一応顔を覗かせており、浪曲そのものをやめたわけではない。あくまでも演芸的活動と浪曲の二足草鞋だったというべきだろう。

 浪曲音頭ショーとはイマイチ想像つかないが、残されたレコードやパンフレットによると、「浪曲の節を多く、文句を面白おかしく、時には演奏方と掛合のような事を入れながら浪曲を一席語る」というものだったらしい。

 浪曲ショー同様に「あれが太刀原独流の浪曲音頭リズムショー」というような枕を唄いながら、「三河屋甚兵衛」「水戸黄門」などけれんを語った。15分そこらで終わるようにまとめられているのも売りで、演芸場の客に持って来いであった。

 トミ子を筆頭に息子の幸夫、巴まり子などを引き連れ、3~4人のグループで舞台に出た。派手で賑やかな芸風だったところから、客の荒さで有名だった新世界花月では大受けだったという。所属先は主に松竹芸能部だった。

 1965年、晴れてトミ子と結婚し、日吉川一族の婿となった。

 浪曲ショーとして人気を集めていたが、1970年に師匠の日吉川秋斎が死去。日吉川一門が義理の姪っ子の秋水、兄弟弟子の斎東満くらいしかいなくなった事もあり、浪曲への本格復帰を考えるようになる。

 1974年9月、「太刀原幸門改め日吉川鯉三郎」として復帰。30年ぶりに日吉川姓へと戻った。

 翌年の1975年4月9日、大阪郵便局ホールで「二代目日吉川秋斎襲名披露公演」を実施。二代目秋斎を襲名して本格的な復帰を果たした。

 師匠譲りの『水戸黄門』『木津勘助』『左甚五郎』をはじめ『三河長者』『幸助餅』なども読んだ。飄逸な芸風と枯淡の語り口で相応の人気を集めたが、一方で「独流で茶化していたようにやっていた幸門節が秋斎節を意識するばかりに大変になった」という批評もある。

『上方芸能61号』(1979年5月号)に、

 早いもので、二代目を襲名して丸四年になる。初代の死が昭和45年5月。 浪曲ファンの間に初代の印象が強く残っている中での襲名であった。また二代目としては、前名の鯉三郎は短かかったが、その前の太刀原幸門ではずいぶん長くやっていた。その時分の芸風としては、初代の味と全く異って、むしろ独流に近い太刀原節を売り物にしていただけに、この4年間は苦労が多かったに違いない。
 ケレン浪曲の大看板のあとを受け継いで、軽妙きわまりなかった初代の味を、たとえ何分の一かでも出そうとして、苦心の跡がまざまざとうかがえる舞台を聞いていて、もう少し自由な二代目であってもいいのではないかと、傍目では考えたこともあった。受け継いだ人の性格もあろうが、襲名するということもまた大変なことらしい。
幸門時代には、安来節浪曲として、色物に混って角座などにもしばしば出演していたから、或いは、その方で覚えている向きも多いだろう。

 その後も第一線の浪曲界で活躍していたが、古希直前に倒れ、亡くなった。妻のトミ子はしばらくの間曲師をやっていたが引退した。 

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