志磨八郎・辰巳柳子

志磨八郎・辰巳柳子

十八番の「のんき節」を披露する八郎 関係者提供

八郎・柳子

 人 物

 志磨しま 八郎はちろう
 ・本 名 梨本 繁雄
 ・生没年 1903年8月13日?~1974年8月2日
 ・出身地 大阪

 辰巳たつみ 柳子りゅうこ
 ・本 名 梨本 よし子
 ・生没年 ??~1974年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 志磨八郎・辰巳柳子は戦前戦後活躍した漫才師。夫婦漫才であったのは戦後の一時期だけである。志磨八郎は、秋田実に従う形で台本作家や裏方を担当するようになり、秋田実に次ぐ上方漫才の名作家として知られた。

 なお、志磨八郎は、志摩八郎と書くこともある。1953年4月の「宝塚新芸座座員名簿」や「笑根系図」を見ると、「志磨」になっている。

 多分これが正しい模様であるが、改名した形跡もなければ、普通に「志摩」名義でも執筆しているため、単なるズボラだった模様か。詳しい事情は知らんよ。ここでは、「志磨」で統一する。

 志磨八郎は自著『昭和爆笑漫才集』で「役所でも行って、聞いて来てんか!」と書くほど、年齢を聞かれる事が嫌いで、出生年を誤魔化していた事が多かった。

 そのため、本当の出生年は不明。遺族にお尋ねしたところ、Wikipediaの記載の物であっている、との旨であったが、そのWikipediaがどこから引っ張り出してきたのか判らないので、「?」にしておく。文化人名録なんかで探しておきます。

 志磨八郎は大阪の出身。実家は履物店であったという。その経歴が『アサヒ芸能新聞』(1952年3月2日号)掲載の「コンビはたのし」に出ていたので引用する。なお、同記事では、志摩八郎になっている。

          コンビはたのし 志摩八郎・辰巳柳子の巻

(大阪支社発)志摩八郎――わがケイレキを語れつて?照れ臭いな私は大阪松坂屋裏のハキモノ屋の倅として生まれました。生まれながらの万才屋だつたのでしょうな。客をつかまえて駄ジヤレでからかつていつも親父から叱られていました。それに楽器が好きで店番そっちのけでヴァイオリンをコスつていたので家を追われ、活動の楽士になりました。トーキーの出現でアツ気なくチョン。エンタツの舞台を見て“万才は決して恥かしいものではない、子供にも老人にもタメになる?”というわけで万才に鞍替えしたのです。終戦後は青春ブラザーズを創設、いとし、こいしAスケ、Bスケをはじめ総勢十五人で万才、芝居、楽団など万能劇団で地方巡業をしました。
万才の型を破るために秋田実(脚本家)を中心に若い万才家を集めてM・Z研新会を創りました。
それが宝塚新芸座にまで発展したわけです。今アメリカで一番うけているのはミユジカルプレイだそうですが、私達の目標もそこにあるわけです。

 また、死ぬ半年前に出した漫才台本集『昭和爆笑漫才集』の中に、略歴が出ている。これは年譜付きで、今日残された資料の中では、一番資料性の高いものだと思っている。

 以下はその引用。原文では「拾年」というような記載になっているので、ここではカッコを入れて補足をしておいた。

大正拾壱年(大正11年)
神戸市柴山音楽団に、ヴァイオリン見習生として入団する。

大正拾参年(大正13年)
この若きシンバリストは、更に塚本音楽団に、ピアノの勉励を志した。

これより拾五年間相経ち申し候
この間、大阪千日前、芦辺劇場を振り出しに、漸次旺盛を極めた洋画伴奏に、各映画館を転々とした。転々の理由は、単にギャラの問題より、女難にあったと伝えられる。

昭和拾参年(昭和13年)
奈良市中央館を最後に、トーキの出現に栄華の夢をさらりと捨てて、七堂伽藍の都を後に、愛人います郡山に惜別の涙をしぼり、大阪は島陽之助一座に俳優として入座する。後に陽之助の実弟・島田洋之介とチームを組んで漫才界に転向する。
大阪漫才界にあってオタマジャクシの読めるのは志摩八郎を以て嚆矢とし、後に音楽学校出身の夢乃タンゴがあるだけ……後学の為に特筆する。
後に吉本興業に入社。MZ研究会を創立する。

昭和弐拾五年(昭和25年)
宝塚新芸座に関与、堀江柳子(現夫人)と組む。上方演芸株式買会社、千日興業株式会社、旧曾我乃家五郎劇団の脚本を担当し、関西テレビの「あっぱれ蝶助漫遊記」に依り、一躍、放送作家、漫才作家としての地位を確む。

昭和参拾六年(昭和36年)
松竹芸能株式会社へ入社、以来十数年文芸課長……現在嘱託。そしてタレント養成所や漫才学校のよき指導者として、又、漫才作家協会副会長として、活躍中である。
尚、毎日、アサヒ、関西テレビ番組に、欠く可からざる放送作家でもある。

 上記の経歴のように楽士経験が長かったため、音楽の才能は高く、これが後年の舞台や台本の提供につながったのは言うまでもない。

 長らく楽士として本格的な演奏に勤めていたが、トーキーの出現で廃業。また、文中で触れられているように、壮年期から女道楽を愛し、長らく浮名を流し続けた。遊び好きの芸人として有名だったという。

 1938年、当時人気を集めていた島陽之助の一座に入団し、島八郎と名乗る。島陽之助は元々剣劇出身の役者で、同じく剣劇出身の堀江洋子と結婚後、「歌う漫劇」「剣戟漫党」なる看板を掲げ、笑いあり、歌あり、立ち回りありの本格的な漫才ショウで人気を集めていた。

 後年、一世を風靡した島ひろし、島田紳助やB&Bの師匠である島田洋介などはこの人の弟子であった(洋介は実の弟)。八郎当人も「島八郎」となったのは、師匠の亭号を受け継いだからに他ならない。

 ここで、役者として奮闘する傍ら、師匠の弟の堀タモツ(洋介)とコンビを組んで、漫才師としてもデビュー。バイオリンを使ったハイカラな舞台ですぐさま人気を集め、吉本系の舞台へと進出した。

 1941年4月、『上方芸能』(1973年5月号)掲載の原稿『あゝわらわし隊 ―戦時下漫才の哀歓―』に詳しく出ているので引用する。

 筆者は昭和十六年四月、中支へあこがれのわらわし隊として前線慰問に派遣されることになった。 漫才二組と浪曲とで一行七名という小人数。これで二時間やるのだから、一組が約四十分受持つ。現在テレビで七・八分しかやらないヤング 漫才師には嘘のような話である。夏を中支で過して帰国したのは秋であった。早速京都の寄席で慰問報告をやった。
「中支へ行って来たが兵隊さん元気やった」
「どこまで行ったの」
「最前線や、臍のあたりまで行った 」
「臍のあたりて、どこですの」 「判らんか、弾丸(睾丸)の近くや 」
「高座をおりると「五条署に出頭せい」と支配人が云うので、別に悪いことを喋った覚えがないので行ってみると「お前は尊い銃弾を男のキンタマにたとえて喋っとる。戦闘を茶化すとは怪しからん。」
 と、大目玉を食って五円の科料をとられた。 とにかくやりにくい時代であった。

 早坂隆『わらわし隊の記録』には「わらわし隊」と冠せず、と書いてあるが、ここでは普通にわらわし隊としていったと書いてある。どんなものであろう。然し、当時は聖戦とされていた戦争を「キンタマ」扱いすれば怒られるのも当然な気がする。

 一方、理不尽な扱いを受けたのも事実で、同項の続きに、

  自分でなるほど悪いなと得心出来ればよいのだが、判らぬなりに一方的な解釈で科料をとられるくらいアホらしいことはない。
その頃の新聞記事には部隊名をハッキリ書かなかった――我が○○部隊、何々を占領――スパイが活發に動いているので我が軍の動きを知られたくないためであった。
 そして機密漏洩を防ぐため、寄席や劇場に「漏らすな軍機、スパイは君の横にいる」と大きく書いたタレ幕を舞台情にさげて防牒の宣伝をした。
「君、日本の軍隊が一番強いのはどこの部隊か知ってるか」
「分らんねえ、いったいどこの部隊ですの」
「○○部隊ゃ」
「○○部隊て、どこの部隊ですの」
「そんなこと軍のヒミツで云えるかい」
防牒に一と役買ったこのネタはよく受けたので得意になって楽しくやっていた。ところが所変れば品変ると云うのか、広島の劇場でこのネタをやっておりると「憲兵隊へ出頭せよ」と云って来た。早速行ってみると、 「お前は日本の軍隊でどこの部隊が一番強いかと云ってるか、日本の軍隊同志で戦争したことがあると云うのか、お前みたいな奴は炭坑送りにしてやる。炭坑へ行って石炭でも堀っとれッ」
「けど、このネタは大阪でもズッとやってますよ。この通り検閲台本もあります」
「馬鹿野郎、大阪は大阪、こゝは広島だ 」
話の判らんまゝに五円の科料を払って炭坑行きを許してもらった。

 なる逸話が紹介されている。

 戦後、堀江洋子一座も活動縮小し、島陽之助も活動が立ち行かなくなり(戦後10年後に40代の若さで夭折している)、志摩八郎も島田洋介と漫才コンビを解消。

 1949年、志磨八郎は秋田実と共に「MZ研進会」を立ち上げ、同僚の山崎正三らと共に、当時の若手漫才師――夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ――を集めて、「青春ブラザーズ」なるコミックバンドをこしらえ、漫才修行の旅に出る。

 この時に、志磨八郎だけ相方がいなかったため、嫌がる妻の柳子を説き伏せ、コンビを組むこととなる――ただ、これには諸説あって、実は戦前から組んでいたようである。

『上方落語史料集成』を見ると、1944年2月の北新地花月の広告に、

二十一日より 
△北の新地花月倶楽部 桂小雀、桂円枝、八郎・柳子、桂文治郎、蝶々・マサル、立花家千橘・元女・小秀、小福・小夜子、一陽斎正一、雪江・五郎、笑福亭松鶴、文雄・静代、太郎・菊春。

 とあり、5月の番組表にも、

 二十一日より
△北の新地花月倶楽部 桂小雀、八郎・柳子、桂円枝、房春・鶴江、立花家千橘・元女・小秀、一蝶・美代子、太郎・菊春、アダチ龍光、笑福亭松鶴、蝶々・マサル、花月亭九里丸、雁玉・十郎、文雄・静代。

 とある。どうしたものだろうか。

 柳子の前歴は不明であるが、前名が「堀江柳子」といった所から、夫・八郎の師匠であった島陽之助の妻で、剣劇俳優であった堀江洋子の弟子であった模様か。島陽之助一座で志摩八郎と出会い、結ばれたが、当人は漫才が嫌いで、漫才師になるつもりは毛頭にもなかったそうである。

 その柳子の本音が、『アサヒ芸能新聞』(1952年3月2日号)掲載の「コンビはたのし」に出ているので引用。

辰巳柳子――私にも喋らすんですか、カナンナア。私はね主人にダまされたんです。私は万才が大嫌いで舞台には出ないという條件で主人と一緒になつたんですが主人に相棒がなかつたものですから寝ても醒めても舞台へ出よといいましてね。始めは一言も喋らずに突っ立っていたら客が“電信柱”とか何とか彌次ってね。涙さんぜんというところですワ。趣味は洗濯と主人をかん視している事ですでもやれ放送やれ舞台といつもオシドリですから大丈夫は大丈夫なんですが――

 妻とコンビを結成した後は、山崎正三と立ち上げたお笑いグループ「青春ブラザーズ」の先輩格として入団し、いとし・こいし、Aスケ・Bスケなどを率いて活躍した。山崎正三とは兄弟分の関係だったそうで、公私ともに非常に仲が良かったそうである。

 その活躍は、いとし・こいしがよく記憶しており、たびたび芸談で語っていた。以下は『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の一節。

こいし それでな、MZ研進会のあとから、志磨八郎さんがバイオリンで、辰巳柳子さんがギター、これはギター漫才をやってたからな。それから永田キングさんの弟子でキン坊というのが、これが割とギターをまともに弾けた。そこに私がまたギターを、コードをもつだけやけどもな。MZ研進会のメンバー中心で、「青春ブラザーズ」というのをこしらえた。
上岡  へ――ッ、ボーイズですか。
こいし そう、ボーイズ。要するに東京でやる冗談音楽、あれで行こうというわけでやな、漫才が出来ひん時に大きな劇場で、歌を入れて漫才のネタをチョコチョコッと入れてやったらそら受けるもん。それでな、てんのじ村(大阪市西成区山王町)の松鶴家団之助はんがやってはった団之助興行社へ行ってやな、皆でこういうことをやるから、「余ったポスターがあったらくれへんか」というて、これは山崎正三兄さんが行って、「楽団のポスターをもらって来た」。見るとや、「楽団南十字星」。
米朝 (笑)。
こいし 有名な楽団や。ポスターに「楽団南十字星」。それで、「わしらの名前は?」「下に書いて貼りビラしたらええ」。だけど、楽団南十字星やで(笑)。それでそのポスターをもって第一回目の公演や。淡路島の岩屋でやる。船着き場へ着いたら、大八車とかが三、四台来て待っとるがな。 小屋主が、「あのォ、楽器は?」「ギターが二つとバイオリンが一つ。都合であとから……」。ウソばっかりや。
上岡  ようそんなこと。
こいし で、ある程度、客が入ったンや。「おい、最後にな、これをやってもどうせ客は怒って舞台へ上がって来るからな」といって、逃げる支度や。
一同  (笑)。
こいし それでまァ、まず漫才を二組がやって、真ん中にコントみたいな芝居をやって、あと二組が漫才をやって、そのあと青春ブラザーズや。皆、「済んだら衣装をもって」とかいうてンやけど、 淡路島をどこへ逃げるンや(笑)。
上岡  逃げようがあらへん(笑)。
こいし 逃げようがあらへん。
上岡  今なら橋がありますけどね(笑)。
こいし それで、最後にそれをやった。ところがこれが受けたがなァー。
上岡  良かった。客が怒って舞台へ上がって来なんだ(笑)。

こいし 受けた。小屋主が、「済まんけど明日もうちで興行してもらえヘンか」と。二度目になったら、交渉するのは山崎正三兄さんや。「吉本の漫才やからな」って、吉本の漫才なんか誰もいてへん(笑)。
米朝  ブラザーズって、女性が二人入っている(笑)。
こいし いましたがな。柳ちゃんとうちの嫁が。漫才で都家駒蔵っていてましたやろ、「あめ屋の駒蔵」。あめ売りのモノマネをする。

 長らく地方巡業や独自路線(宝塚新芸座所属で吉本・松竹系の劇場に出られなかった)の関係で漫才師としての評価はそこまで定まっていない。然し、秋田実との関係か知らないが、漫才コンビ時代にテイチクレコードから「幸運の8」(BC1006)を一枚だけ吹き込んでいる。このネタは自作自演の物であった。このレコードの表記は「志摩八郎」である。

 宝塚新芸座時代は、秋田実率いる『あれもこれもショウ』『漫才学校シリーズ』の台本執筆や舞台出演など、八面六臂の活躍を展開。この頃、志磨八郎が、ミヤコ蝶々の相方のとんぼに「南都雄二」と名付けた――なる話が伝わっているが、今日では否定されている。

 新芸座の番頭格として活躍を続けていたものの、1956年5月、諸事情の為に他の芸人たちと共に退社。

 1961年、松竹芸能の文芸部に入社し、同社の「文芸課長」に就任。事実上、漫才界から一線を退いた形になったものの、芸人そのものを引退する事はなく、時折一人で舞台に上がってバイオリン演歌や「ノンキ節」を聞かせていた。当人は自作自演を自慢にしていたそうである。

 漫才作家転向後は相変わらず秋田実の右腕として活躍。時には遅筆の秋田実に代って執筆をする、漫才作家協会を立ち上げ、自らは副会長に就任する等、秋田実から強い信頼を得た。

 一方、芸人としてズボラな一面もあったそうで、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中に、

こいし 台本が出来てヘンねんから。
上岡  秋田先生は台本を書くのは遅かったンですか。
こいし そら、遅い、遅い!
いとし 本番で、まだこれからどう話が展開するか分れへん。題名だけ出来ていてね(笑)。
上岡  いちばん秋田先生が手塩にかけて育てあげたコンビというと誰なんですか。いとし・こいし先生は秋田先生と出会う前から(もう形が)出来てたでしょ。
こいし やっぱり、ワカサ・ひろしさんもそうやしね。ワカサ・ひろしさんのところのネタは割と志磨八郎が書いていた。この人は文芸部に入ったりもしていた。
米朝  NHKの『上方演芸会』でも、たいがい志磨八郎が書いていた。
こいし そうです。
米朝  それを秋田實の名前で出していた。何かの時に志磨さんがボヤいたら、「君の名前で出しても金が三倍ぐらい違うねん」といわれた。
上岡  ブランドですからね、名前が。

 なる逸話が紹介されている。ただ、秋田実の遅筆や締切遅延を考えると、この程度の事は仕方なかったことであろうし、秋田実も黙認していたのではないだろうか。

 一方で、舞台経験から培った創作台本の数々は、秋田実とはまた違う独特のユーモアとペーソスで構成された佳作が多く、かつ速筆であった事から、小島貞二は『漫才世相史』(新装版)の中で、「秋田實より多く書いた漫才作者」「かつて自分が舞台に立った経験から、その作品は実践的で、どんなコンビのものも自在に書きわけた」と高く評価している。

 代表作は数多くあるが、中でもかつての兄弟弟子、島ひろし・ミスワカサに対して書き上げた『さてその次は』『あるようでないもの』などは名作とされ、今日でもその録音を聞くことが出来る。

 いつまでも若々しく、女道楽と歌が好きで、芸人や旧友を引き連れて飲み歩くのが好きな、陽気な人物だったと伝えられる。

 そんなところから、芸人からの信頼も厚く、多くの台本を引き受けることになったようだ。

 1974年1月1日、自信作から最近の作品の中で30編を採録した漫才集『昭和爆笑漫才集』を出版。漫才台本作家としての集大成を披露し、高く評価された。

 その後も、舞台台本や漫才台本を書き続けていたが、同年6月に入り、体調不良を訴え、大阪市の高津病院へ入院。

 肝臓病と診断され、7月に入ると腹水の為に腹がせり出るようになった。

 然し、当人は単なる人間ドックだと思っていたそうで、「秋には退院できる」と笑っていたそうである。

 だが、その願いは空しく、病状は深刻な状況まで悪化。間もなく肝臓病にリンパ腺炎を併発し、容態が急変。8月2日に静かに息を引き取った。

 以下は『朝日新聞朝刊』(8月3日号)に出た訃報。同年1月に出た『昭和爆笑漫才集』のそれに「堀江柳子(現夫人)」とある所から、下記の喪主が、柳子の本名だと思う。

 志磨八郎氏(漫才作家協会副会長、本名梨本繁雄)二日午前十一時四十五分、肝硬変のため大阪市市南区高津町の高津病院で死去、七十歳。告別式は三日午後二時から三時まで大阪市大正区三軒家町二ノ五九の自宅で。喪主は妻よし子さん。
 島洋之助一座で島田洋之介と漫才コンビを組み、その後、松竹芸能文芸課長などして関西の後進漫才家の指導に当たった。 「昭和爆笑漫才集」などの著書がある。

 当人は死ぬ直前まで元気で旧友の吉田留三郎などとと相談して、夏の間に料亭の「天龍」で遊ぶ計画を立てていたらしく、それが心残りとなったそうな。

 以下は『上方芸能』(38号)に掲載された重里正雄の追悼記事『今は眠れ艶聞の人 志磨八郎氏を悼む』の一節。

 六月初旬のあつい夜だった。仕事から解放された吉田留三郎、志磨八郎のお二人に私、ミナミの飲み屋でパイ一を傾けていた。

 吉田 何か刺戟のある話ないやろか、たまにはパァッと騒ごやないか
 志磨 エエなァ。遊ぶことなら……
    いつでもおつき合いしまっせ

 いやはや遊びにかけては目のない連中ばかり。
 さっそく意気投合、大正区三軒家の料亭「天龍」で“遊ぼうカイ”てな話 のまとまり。日取りも給料日の六月二十五日と決まる。志磨氏自ら世話人を買って出た。「天龍」を選んだいわれは、かつて女道楽で寄席をわかした浜お竜姉さん(料亭の重役)が健在だからである。
「にぎやかにやりまひょ」と世話人、どうやら最高に心待ちしての いたようだ。ところが“本番”の二日前の二十三日、主役の志磨氏がそそくさとミナミ・高津病院へ入院した。診断は肝ぞう病だ。 ある日突然、の変事に私たちはおどろいたがど当人少しも騒がず 「ま、人間ドック入りダ。すぐ出ま。けど、“天龍”の散財どないしよ」と病気そっちのけ。いち早く遊びの方は延期したけれど病状は一進一退だった。
ふとめな志磨氏の、とくに腹がせり出し、俗にいうタヌキ腹の症状をあらわした。腹水である。七月下旬には調子をとり戻した。
「この分やと学校(松竹芸能・漫才教室の講師)へも行けま、秋には退院でけるやろ」とニッコリ、そんなことばのかわく間もなく八月二日朝あの世へ旅立った。
入院生活四十二日、リンパ腺炎というニクィ奴にいかれ69歳の生涯を終えた。
その死――うそのよう。69才――うそのようだ、すべてがうそとしか思いようのない、悲しい幕切れであった。

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