西川ヒノデ・サクラ

西川ヒノデ・サクラ

西川ヒノデ・サクラ(初代)
(※ご遺族提供)

西川ヒノデ・サクラ(初代)
(※ご遺族提供)

売れに売れていた二人
(※ご遺族提供)

サクラと死に別れたヒノデ
向って左から、ヒノデ、赤坂秀香、小サクラ

西川ヒノデ・ショー時代
(右からヒノデ、ヒデノ、サクラ(華ぼたん)、ヒデオ(中田治雄))

最晩年、カラオケを楽しむヒノデ

 人 物

 西川にしかわ ヒノデ

 ・本 名 西川 英一郎
 ・生没年 1909年3月18日?(3日?)~2004年1月17日
 ・出身地 奈良県 吉野郡 下市町

 西川にしかわ サクラ

 ・本 名 西川 政枝(旧姓・武田)
 ・生没年 1914年~1947年11月19日
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。ヒノデは映画俳優としても活躍した。今日では悲劇の漫才師・Wヤングの師匠分として知られているようである。

 この項目執筆にあたり、西川ヒノデ氏の姪御さんに生没年や晩年の動向をご教示いただくなど、大変お世話になりました。ご協力ありがとうございます。

 出身は奈良県吉野郡。実家は大地主だったそうで、所謂名士の家柄だったという。そんな西川家の長男だったらしく、芸人になって大成した後も母親を引き取り、没するまで面倒を見た――とご遺族の証言。

 上岡龍太郎の本などには、「花園ベティ・江美領一」の領一は実の弟とあるのだが、ご遺族は「叔父・叔母含め、そういう人がいた事は聞いた事ありません」。

 話によると、妹と弟がいたのは事実で、妹は東京で金持ちと結婚し、弟の一人は武田という家へ養子に出され、軍医として活躍していたという。

 幼い頃から芸事と音楽が好きで、独立独歩で芸能界入り。『上方演芸人名鑑』には「師匠なしの独立独歩で、大十二年ヴァイオリン片手に時事漫談をやって地方巡業をしたのがこの道の始まり」とある。

 しかし、『アサヒグラフ』(1948年8月11日号)掲載の「漫才師告知板」には、 

 ヒノデさんは本名西川英一郎 奈良の大家主の長男に生れ興行主を目ざして十九歳の時一座を組織 地方巡業をしたが 昭和十年(註・十三年と勘違いしている模様)ミス・ワカバさんと結婚して吉本興業に入りコンビで漫才師となった 翌年新興演芸部に転じワカバさんはサクラと改名 同十八年新興を離れ一昨年サクラさんが病死するまで売出したが「このまゝでは漫才は亡びる」と感じてこの七月から三人組をつくり ヴァイオリン(ヒノデ)と三味線(小サクラ 秀香)をもち。楽団を背景の立体漫才を創案した

 とあり、齟齬が生じている。筆者は年齢的な問題も加味して後者をとる。15歳で舞台に出られるか――いくら昔とはいえ、一座を率いるだけの責任があるかちょっとわからないからである。折衷案をとるなら、15歳でどこかしらの一座で初舞台を踏み、19歳で一人前の芸人になった、というべきか。

 なお、興行師志望だけあってか、マネージメント能力はあったようで、晩年までこの才能は生きていくうえで大いに役立った。

 藤田冨美恵『玉造日の出通り三光館』の中に、芸名のヒノデという名前の由来が書いてある。曰く、「なお、玉造・日の出通りでカフェを経営していた叔母のところに身を寄せていたことがあり、それで西川ヒノデとしたという。」

 当初は、演歌師風の漫談で活躍。当時、バイオリンを弾ける芸人が珍しかったこともあってか、結構人気があったという。その後、吉本興業に入社。

 1931年6月、藤野秀子とコンビを組んで、京都花月で本格的にデビュー。当時は「浅田家日之出」といったようだ。浅田家朝日の身内というような形で名前をもらったのだろうか。この秀子は、松鶴家団之助の妻で、後年、華井秀子と名乗った。

 当時の芸風が大谷晃一『おんなの近代史 風雪を生きた五十六人の証言』にあるので引用。

 ヒノデは当時ではハイカラなバイオリンで、彼女の三味線と競争でひく。これが取りねた。まだまだ客はしゃべくりよりも歌を要求した。端唄や小唄が受けた。バイオリンでラッパの音をトテチテター。小さい戦争が始まっとりましたさかいナ。満州事変である。芝居ねたも使う。芸達者なヒノデに何とか付いて行けたのも、女道楽をやってたお陰だす。

 コンビ結成後、サクラに落ち着くまで、「アサヒヒノデ」と名乗っていた時期もある。1939年のテイチクレコードの表記は「アサヒヒノデ」である。

 秀子とのコンビで漫才の腕を磨いたが、端席回りが続き、漫才師として浮かび上がることは少なく、辛酸をなめた。

 若い頃はなかなか遊び人だったそうで、芸妓時代の阿部定と交友があったという。この阿部定とは、芸人として成功した後も交友が続いたそうで、ヒノデ宛の手紙が残されていたという。

 1937、8年頃より当時売れに売れていたミスワカバと交際をし始めるようになる。漫才界のアイドル的存在と、駆け出しの漫才師の交際は衝撃的だったらしく、多くの芸人・会社の顰蹙を買った。

 秋田実は『大阪笑話史』の中で、吉本に結婚が認められなかった話を暴露している。これが新興演芸部移籍の一端になったという説も面白い。

 ヒノデさんは、新興演芸の時代にはワカナ・一郎につぐ男女コンビの筆頭で、ワカナ・一郎にはない新鮮さと若さを持っていた。今でも若い男女コンビにはヒノデ・サクラ型が多い。
 サクラという人は小柄のせいでよけいういういしく見え、それが大きな魅力になっていた。 ヒノデ・サクラが初めて皇軍慰問に出かけた時、慰問の洋服に身を固めたサクラが、どこへ行っても小学生と間違われ最後までおとな扱いをしてもらえなかった話が今でも残っている。
 そのサクラは元はワカバといって吉本興業で働いていた時に、同じく吉本興業に働いていたヒノデさんと恋愛し結婚したのである。そして、ヒノデ・ワカバのコンビとして働きたいと会社に申し出た時に、この希望がいれられず、会社を飛び出したのである。新興演芸ができた時に、ワカナの手引きで入社し、その時にサクラ・ヒノデと名を改めて、それからワカナ・一郎につぐ男女コンビとして活躍することになったのである。

 しかし、そんな反対にもかかわらず――1938年、ヒノデはワカバと結婚。愛を貫いた。その旨が『話』(1940年新年号)に取り上げられているので、引用。

 ワカバ・ヒノデのワカバはワカナの妹分で吉本でも羽振りをきかしてゐ、放送局なんかでもむしろワカナより将来を期待してゐたが、蓼喰ふ蟲も好きずきで、三番叟のヒノデと喰つついて吉本を飛び出してしまつた、當時は、ワカナも、「あんなしょうむない男と喰つついて」と憤慨してゐたものだが、今では仲よく? 新興で働いてゐる

 当初は案じられたコンビ関係もうまくいき、新興を代表する漫才師になったあたりを見ると、流石のワカナもこのコンビの飛躍まで予想しきれなかった模様である。

 相方であり、妻であるミス・ワカバは、子飼いの芸人で杉原政子と名乗っていたが、後年漫才に転向。浅田家十郎とのコンビで人気があった。吉田留三郎『まんざい太平記』の中に、

 更に大成を期待されながら、若くして散った初代サクラのことは記憶に生々しい。生まれながらの舞台人で、杉原政子と名乗っていたが、後、ワカナの妹分としてミス・ワカバと改名、浅田家寿郎との名コンビをうたわれたが、西川ヒノデと結婚して初代サクラとなった。漫才界には珍しい娘形で、現在その型を継ぐ女漫才は一人もいない。初代ワカナは将来、自分の一番の競争相手になるのはワカバだろう、と言っていたくらいだから、その芸の確かさが分る。さびしい一生だったが、夫君ヒノデに看とられた死んだその最後をせめてもの心やりにしたい。

 とあるのが数少ない資料か。旧姓と生年は『毎日年鑑1940年度』より割り出した。

 1938年6月頃まではミスワカバ・ジュロウ名義で、舞台に上がっており、『上方落語史料集成』の1938年6月下席の広告に、

△南地花月 竜光、馬生、繁子・洋々、文治郎、出羽助・竹幸、幸児・静児、円馬、奴・喜蝶、芳男、ワカバ・ジユロー、九里丸、文楽、アチヤコ・今男、石田一松、三木助、雁玉・十郎。
△北新地花月倶楽部 染丸、幸児・静児、芳男、竜光、蔵之助、勝美・幸若、三木助、洋々・繁子、円馬、石田一松、雁玉・十郎、ワカバ・ジユロー、九里丸、文楽、アチヤコ・今男。

 と、吉本自慢の大劇場2館を掛け持ちしている。

 結婚後、西川ヒノデ・ミスワカバを結成したが、吉本には干されたような形になっていたらしい。秋田実の言説では、会社を離脱したそうだが、『上方放送お笑い史』などを見ると、吉本への恩義があって、残留した、という。どちらが正しいのか知らんよ。

 1939年3月、新興演芸部引き抜き事件が勃発。ヒノデは、妻の関係からミスワカナに新興演芸への移籍を誘われたという。『上方放送お笑い史』に、

 何日かあと、ワカナから西川ヒノデに電話が入った。
「場所は言えんけど今、新興に来てる。おいでえよ。悪いようにせんから」
 ワカナは、ヒノデの相方のワカバを妹のようにかわいがっていた。
「吉本に世話になっているから」とその時は断ったヒノデも、結局新興入りを決断する。
「余興で生活は成り立っていたけど、吉本の給料だけではやっていけなかったから」(ヒノデ)

 とある。一度は断ったものの、吉本の処遇や新興の待遇の差を目前にして、移籍を決意。吉本興業を無断離籍し、これまた大騒動へと発展した。

 以来、新興と吉本が喧嘩をおっぱじめ、西川ヒノデもまた吉本から損害賠償を請求された。この裁判は、大阪裁判所の恩情で取り下げとなったが、上方演芸界に大きな影響と翳りを残したのは言うまでもない。

 しかし、皮肉なことに、新興演芸部へ移籍した二人はめきめきと頭角を示すようになった。一部文献では、結婚後、「西川ヒノデ・サクラ」と改名したとあるが、ワカバがサクラと改名するのは、新興演芸部で売り出して数年後の事である。

 1940年頃、「西川ヒノデ・玉松ワカバ」と改める。

 さらに、1941年夏頃、「西川ヒノデ・サクラ」となる。夫婦漫才としての統一と、戦争悪化に伴う改名令的なものに忖度した結果らしい。1941年7月、『職業に貴賎なし』が出た際には、ヒノデ・サクラになっている。

 以降、新興演芸部の売れっ子として、ミスワカナに次ぐ新鋭として売り出す。西川ヒノデのバイオリンに合わせて、ワカバが流暢な歌やセリフを聞かせる音曲漫才であったが、そのワカバのうまさといい、歌のうまさといい、天才ワカナに認められただけの鋭いセンスと才能がある。この一部は今日でもレコードで聞く事が出来る。

 危な気のない芸風から、レコード・ラジオでも喜ばれ、戦時中多くのネタを吹き込んだ。のちにテイチクレコード専属となる。

 入手しやすい物だけでも、『一声千両』『ワカバの慰問袋』『東京見物』『花嫁部隊』『京洛演芸帳』『夜店ガール』『便泌隊』『非常時喫茶店』『ワカバのお国訛り』『上海の月形半平太』『職業に貴賎なし』『東京ガイド』『私は女車掌』『私の家族』などがある。時局に慮った作品が多いが、それでもこのコンビのフレッシュさがうかがえる名品ぞろいである。もっと知られるべきではないだろうか。

 太平洋戦争勃発後は、京都の松竹座を中心に活躍。秋田実や八木承の後進もあり、次から次へと新作漫才を発表した。

 また、戦地慰問にも積極的に参加。サクラが「子供に間違えられた」という伝説は、丁度この頃であろう。

 しかし、空襲の激化や劇場の消失などで、漫才もままならなくなる。地方巡業や慰問などで、その日その日を生き延びた模様。

 戦後は「ヒノデ・サクラ劇団」を結成。楽団や舞踊などを取り入れたバラエティーショウを結成。地方巡業を中心に活躍。然し、この頃からサクラの調子が悪くなり始めたという。

 1946年10月、恩人で師匠分であったミスワカナが急死。この急死を弔うべく、同年12月21日より、浪花座で「ミスワカナを偲ぶ爆笑大会」が開催され、ヒノデ・サクラも出演。皮肉にも、復興の第一声となった大阪漫才の檜舞台が、サクラにとって、戦後最初で最後の舞台となってしまった。この1年後に、後を追うように亡くなるのは、何かの因縁だろうか。

 1947年2月、テイチクから『ヒノデの趣味』を発表。これがサクラの生前最期の肉声となった。

 以来、サクラは病の床に伏し、同年11月、ヒノデに看取られながら、33歳であの世へと旅立った。戦後の動乱やヒロポンの反動などあったようである。なお、没年はご遺族のご教示によって判明した。

 サクラの死後、ヒノデは、弟子の赤阪秀香、西川小サクラを相手に、トリオ漫才を結成。戦後のトリオ漫才の嚆矢となった。

 弟子の赤阪秀香、西川小サクラの経歴は『アサヒグラフ』(1948年8月11日号)掲載の「漫才師告知板」に出ているので、引用紹介しておこう。

 西川小サクラさん(26)
 赤阪秀香さん(23)
 小サクラさんは本名堀下高子 奈良生れ 小唄師匠で昭和十九年ヒノデ門下となる 秀香さん本名野出敏子 大阪生れ 長唄師匠で昨年夏ヒノデさんに弟子入り

 その後、トリオを解消し、女優の丘みどりとコンビを組んで、「西川ヒノデ・サクラ」を復活させるが、こちらはうまくいかず、直ぐに解散。そのため、コンビに数えられないこともある。

 丘みどりは浪曲漫才の大御所、上田五万楽の娘で早くから芸能界に出入りしていた女芸人であった。ヒノデとコンビを別れた後は、コメディや喜劇に復帰し、エンタツ・アチャコの喜劇や番組に出演した。

 この頃、映画に進出し、脇役として出演。喜劇映画にはそこそこの配役がなされていたりして、今日でもその姿を拝む事が出来る。

 映画人としても活躍したが、『米朝上岡が語る昭和上方漫才師』の中では、

昭和三十四年六月のうめだ花月の出番にコミックショウ・西川サクラ・ヒノデが出ています。

米朝 西川サクラは何代かおるンやけどね。
上岡 このサクラさんはのちのフラワーショウの華ぼたんさんですね。これは面白いショウでした。
米朝 これものちのフラワーショウの華ばら、この人も流しをしていて、西川ヒノデさんにスカウトされた。
上岡 ああ、そうでしたか、ばらさんは。
米朝 流しをしていたから達者やった。アドリブでも何でも出来る。
上岡 もうひとりギターを弾く男の人で、ちょっとガッチリした西川ヒデオさんかヒデノさんか、そんな名前の人がいてましたが、この人も音楽的にはしっかりした芸やった。
米朝 出入りが激しかったさかいなァ。 
上岡 激しかったですよね。この西川ヒノデさんという人は映画なんかにも出ていましたから、ものすごく自己顕示欲の強い人で、うめだ花月の向かえの靴みがきの人に、「わし知ってるか」「知りませんなァ」「ヒノデやがなヒノデ……」「さァ」「西川ヒノデ」「知りまへん」「もうエエわい!」(笑)。いうて帰ってしもた。知らん奴は知らん(笑)。大映映画の勝新太郎と田宮二郎が出ていた『悪名』シリーズなんかにちょろっと出てましたがね。 
米朝 ホンマにちょろっとだけ。そやけどあれも大運動をやって出してもらいよンねん。まだ映画に出るということがステイタスシンボルであった時代やな。あのヒノデさんという人は奥さんが新世界で美容院を開業していた。そやから生活の心配はいらんさかい割とえらそうなことをいうていた。 
上岡 何か口調もちょっと訛がありましてね、覚えているのはバイオリンを弾いていて、「オッ、あるね」「あらいでかい! では、さらば工場の月」「いや、それは荒城の月と違うンかい!」「コウバもコウジョウも一緒やがな」。ギャグで覚えているのはそこだけです(笑)。

 と、なかなか厳しく書かれている。但し、ご遺族の話を聞くと、「偉ぶったりはしない」人らしいので、売れっ子であったヒノデに対するやっかみや陰口なども混じっていた模様。

 なんだかんだ言われながら、180本近い映画に出たのは、並大抵のものではないような気がする。

 その後も、千土地興行に所属し、ショー形式の漫才をやっていたようであるが、1956、7年頃、浪曲師の吉田駒千代と出会い、結婚。

 1957年、駒千代が浪曲師を廃業したのを機に、コンビを組み、翌年、「西川サクラ」を襲名させる(『演芸家名鑑』公式プロフィールより。上方演芸人名鑑などには、1960年とある)。以来、「西川ヒノデ・サクラ」を中心に、「ヒノデショー」を展開。

 ヒノデのバイオリンを中心に、弟子がギターやサックスを演奏し、サクラが歌う、という賑やかな舞台で人気を集めた。

 1959年、西川ハヤト、そごう入門。(『日本演芸家名鑑』より)

 1961年頃、性格の不一致からサクラと離婚し、コンビも解消。サクラは「華ぼたん」と改名して、「フラワーショー」を結成。華やかな女性三人組の漫才を展開し、松竹芸能を代表する大看板として君臨した。

 この頃、吉本へ移ったようである。同時期、映画撮影で知り合った西川ヒデオ、唄の家なり駒の甥で紹介された西川ヒデ若を弟子にしている。この二人こそが、漫才ブームの火付け役の陰の立役者ともいわれた天才漫才師「Wヤング」の前身である。

 サクラとのコンビ解消後は、森井良太郎(元・あひる艦隊)、西川ヒデト、西川助三、西川格三、可愛コヒデなどの弟子を中心に連れて「西川ヒノデと笑いの楽団」を引き連れて、千日劇場に出演している様子が確認できる。

 この頃、営業と寄席の仕事に加え、天王寺公園近くでバーも開業。稼ぎに稼ぎまくっていたそうで、大阪市と生駒山の山中に邸宅を構えた。

 大阪市は主に実母のために作ったものであったらしく、生駒山の邸宅は仕事の事務所のようなところもあったらしい。そこで、弟子の運転するサイドカー付きのバイクで営業先に行ったり、弟子や愛犬、鯉たちと共同生活を送っていた――と遺族の証言。

 この頃、西川好子と出会い、結婚。ミス生駒に選ばれるほどの美人で、手先の器用な人であったという。

 この人が晩年まで添い遂げる妻となった――が、税金対策などから、結婚届を出さないパートナーとして生涯を過ごしたという。ただ、相手のために土地や家の書類はすべて好子名義で作ったそうで、非常に妻思いの人物だったと聞く。

 1973年、浪曲師出身の岡本京子を弟子に入れ、西川チェリーと名乗らせる。この人の事はまた別項を立ち上げます。

 1975年1月、トップホットシアターでチェリーに「四代目西川サクラ」を襲名させる。

 1976年、LPレコード『上方演芸 今は昔 藤本義一が訪ねた天王寺村』にバイオリン演歌を吹き込んでいる。個人芸を偲べる数少ない資料である。

 1979年10月、期待をしていた「Wヤング」の中田治雄が自殺。流石に堪えるものがあったという。弟子の平川幸雄は相方を変えた後も「師匠師匠」と随分と立ててくれたという。

 1981年頃、コンビを解消。サクラは弟とコンビを組んだ。後年、椿ようこ・けんじとなった。

 その後は、古参の弟子であった西川ひかるに、「西川サクラ」を名乗らせ、歌謡ショーをやっていたが、平成に改元するころ、徐々にフェードアウトしていき、隠居したという。もっとも、西川ひかるとコンビを組んだ時には、80近くなっていた。辞めるのも無理はない。

 一説では、「妻が理容店をやっていて儲かったからやめた」というが、これは半分本当で半分嘘。理容店を経営していたのは事実であるが、その理容店をやるように勧めたのは誰でもない西川ヒノデ当人だからである。

 店も土地もすべてヒノデが世話をし、妻のやらせたいようにやらせたというのだから、ある意味では傑物である。「髪結いの亭主」というのは、一種のひがみであろう。

 晩年は、バイオリン演歌や漫談などをやって悠々自適に生活する傍ら、古い芸人たちとの交遊にいそしんでいたという。特に仲が良く、ヒノデを尊敬していたのが、松竹新喜劇の藤山寛美だったそうで、寛美は事あるごとに「先生」と立てていた――とご遺族曰く。

 その辺りから、老人性糖尿病や老化により、歩行不能となった。デイサービスなどに出入りをするようになったが、頭は矍鑠としており、80超えてもカラオケで施設の人気者となったり、昔の話をするなどしていた。

 そんな形で第一線から退いたものの、1996年、関西の人気番組『探偵ナイトスクープ』の依頼に取り上げられ、取材に出演。これが公に姿を現した最後――とご遺族の証言。

 これをあさってみると、どうも、1996年8月30日放映された『戦前のヴァイオリン漫才師』がそれらしい。探偵は吉本新喜劇の俳優・石田靖。筆者はみたことがないので何とも言いようがない(ライブラリには残っているだろうが)。

 また、同時期に浜村淳がパーソナリティをやる番組に、弟子の平川幸雄が出演。何かの話で「師匠はお亡くなりに……」と浜村氏が尋ねると「いや生きてはります」という形で、話が盛り上がり、これも取り上げられた――というが、肝心の番組名が判らない。

 2004年1月、94歳で長逝。デビューして75年、最初の妻・ワカバを失ってから57年の歳月が経過していた。新興演芸部の引き抜きに遭遇した花形漫才師、最後の生き残りでもあった。

 葬儀には多くの芸人が列席。松竹芸能社長・勝忠男からも香典が届いたという。

コメント

You cannot copy content of this page
タイトルとURLをコピーしました