吉田福若・小若

吉田福若・小若

 人 物

 吉田よしだ 福若ふくわか
 ・本 名 岩井 みつ子
 ・生没年 1918年3月3日~没
 ・出身地 兵庫県 神戸市 中央区

 吉田よしだ 小若こわか
 ・本 名 岩井 八千代
 ・生没年 1924年頃?~?
 ・出身地 兵庫県 神戸市 中央区

 来 歴

 吉田福若・小若は戦前戦後活躍した漫才師兼浪曲師。「掛合浪曲」という浪曲をベースにした立体舞台と女道楽風の芸で人気があった。吉田奈良丸門下だった関係から、浪曲番付にも記載されるという珍しい漫才師である。

 福若は、昭和末まで舞台に出ていた関係から芝清之の『東西浪曲家大名鑑』に記載がある。これがこのコンビの大体の流れを把握できる貴重な資料となっている。

 兵庫県神戸市中央区の出身。2人姉妹の長女。彼女は9歳頃から三味線を習い、13歳の年から”岩の家福若”という芸名で、妹の”小若”と共に漫才師としてステージに立った。
 昭和10年、福若が神戸の大正座 (吉田大和之丞経営)に出演中、たまたま彼女らの芸を見た吉田大和之丞 (二代奈良丸)が、姉妹の芸に惚れこんで、浪曲家になることをすすめ、その年彼女は17歳で大和之丞の一門に妹と共に加わった。”吉田福若・小若“と名乗り、彼女は入門3ヶ月後に岐阜柳ヶ瀬の豊臣座で初舞台を勤め「孝子の印籠とり」を読んだという。若い姉妹浪曲は人気の的となり、2人で演ずる〝掛合浪曲”は評判を呼んだ。
 独立後、国光女流団に加入して活躍したこともあるが、20歳のときはすでに一座を組織して吉田福若・小若”の姉妹掛合浪曲を看板に全国を巡演した。福若はその頃一座の出方を勤めていたケレン読みの名手、梅中軒燕童と24歳の年に結婚した。
 戦時中から戦後にかけて、夫婦、妹の一座は浪曲の舞台に加えて、余興に昔とった杵づかで、姉妹の達者な三味線の曲弾きや俗曲で人気を博した。
 が、TVブームのやってきた昭和30年頃に一座を解散して、彼女は舞台をあきらめて生命保険の会社に勤め、約18年の歳月を堅気の道で暮した。然し彼女のもっている三味線の芸を知っている者から頼まれて、 その間にも1人で”女道楽”の仕事を勤めの余暇を利用してやっていたが、会社のことがおろそかになってはと、昭和50年頃から会社勤めをやめた。以来独習で覚えた太棹をにぎり、浪曲の曲師を勤めるかたわら、現在でも”女道楽”で慰問を続けているという。

 小若のはっきりした年齢は不明であるが、上の記載から姉のみつ子が「17才」で浪曲師として初舞台を踏み、妹は12才だった事を差し引くと、歳の差は5、6歳という算段になる。そこから逆算した。詳しくご存じの方はご教示ください。

 当初は女道楽の掛合からスタートしたそうで、この時の掛合や演奏が後年までの武器になった。当初は寄席や巡業をしていたという。

 三味線は達者だったそうで、まさに二刀流であったといえよう。

 1935年頃に吉田大和之丞にスカウトされ、「吉田福若・小若」に改名。浪曲をメインに演じるようになった。

 姉妹で舞台に出て、漫才のように要所要所を分担して演じる「掛合浪曲」を展開。漫才風の朗らかさと、浪曲の面白さ、姉妹の可愛さも相まって人気を集めた。

 1930年代後半の番付から名前が出るようになった。その名も「掛合浪曲 吉田福若・小若」。この特異な看板は二人が一線を退くまで、続いた。

 娯楽性の高い舞台から、浪曲師だけでなく、演芸の興行部からも注目され、1930年代後半に籠寅演芸部に所属。同社の舞台に出るようになる。『近代歌舞伎年表京都編』に、

一九三九年十二月三十一日~ 京極演芸館 

女河内山 熱海鈴子一座 
アクロバチツク・バー 旭天華嬢一党 
漫 才 
【出演】新妻アイコ・隅田川春二 浅田家朝子・小朝 小堀かおる・松鶴家いなり 小山路子・慶丸 松本アオバ・菅原家由良丸 若松家正八・桂菊八 唄の家なり太郎・なり駒 橘とし子・荒川久丸 浪曲おうとう 吉田小若・福若

とあるのが確認できる。以来、「おうとう浪曲」「掛合浪曲」「浪曲漫才」という形で舞台に上がっている。

 1940年中ごろに、新興演芸部へ移籍。引き続き掛合浪曲で舞台に立った。

 1941年2月の『近代歌舞伎年表京都編』に、

二月二十一日~(二十八)日 松竹劇場 

あきれた楽器店 あきれたぼういず 新興快速舞隊 スイングオーケストラ 新興ダンスチーム 
新作舞踏・独唱・演奏 セルビア楽団 
軽音楽 あひる艦隊 
舞踊喜劇 踊る迷君 雷門舞踊座 
漫才
【出演】ワカバの上海□(□□ワカバ・西川ヒノデ)掛合浪曲(□田福若・小若)巳年百科辞典(河内家芳若・藤豊子)鯨問答(河内家鶴春・浜お柳)一路・突破

 他にもいくつかあるが割愛。

 1942年頃、福若は梅中軒燕童と結婚している。

 戦時中は慰問もしていたようであるが不明。

 戦後も引き続き掛合浪曲で巡業をして活躍。大喜利では漫才風の女道楽を見せて人気があったという。

 しかし、浪曲不況や二人が家庭的に収まった事もあって一座を解散。コンビを解消する。

 その後、小若は家庭に入ったらしく、福若も主婦として夫を支える傍ら、保険会社に勤めていたという。

 平成初頭まで活躍していたというが――ただ、フリーの立場だったらしく、浪曲親友協会には関与しなかったようである。

 消息筋の話では福若は亡くなったという。小若は不明。

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