桂福笑・湊登紀子

桂福笑・湊登紀子

 人 物

 かつら 福笑ふくしょう
 ・本 名 松葉 三二
 ・生没年 1909年1月13日~1996年3月19日
 ・出身地 大阪府 和泉市

 みなと 登紀子ときこ
 ・本 名 松葉 杜紀子
 ・生没年 1922年4月2日~1996年以降  
 ・出身地 大阪府 浪速区

 来 歴

 落語家のような名前であるが、今日も活躍している笑福亭福笑及び桂福團治などとは一切関係はない。

 上記プロフィールは、『日本演芸家名鑑』から採録したが、『笑根系図』及び『上方演芸人名鑑』を見ると、桂福笑の出生年が1899年になっているが、果たしてどちらが本当のことを言っているのだろうか。ココでは便宜上『日本演芸家名鑑』の記載をとるが――

『日本演芸家名鑑』によると、桂福笑は、1934年に漫才師の桂福助に入門し、漫才師となる。桂福助も謎の多い人物であるが、笑根系図によると、あほだら経で有名だった市川福治の弟子だったようだ。1955年に亡くなっている。

 一方の登紀子は、芸人の娘だったらしく、幼いころから父の一座に加わり、舞踊や芸事の修業。「昭和7年 父の一座に加わり舞踊を修業」とある。

 長らく、踊り子をやっていたらしいが、1938年、桂福笑と結婚して漫才に転向。

 戦後、一貫して吉本にも松竹にも所属せず、団之助興行や加茂川芸能社といった中小企業を渡り歩いた。その為、大舞台に出ることはほとんどなかったようで、巡業や余興が主だった由。

 『国立劇場演芸場』(1981年5月号)によると、 大正琴と三味線で合奏する漫才だった――との事。大正琴を漫才に取り入れたというのが少し珍しい。

 長らく西成区山王ーー通称・てんのじ村の住人の一人として活躍していたが、1980年ころに和泉市に引っ越している。また、芸人稼業の傍らで、飲食業か何かをやっていたらしく、長らく電話番号が自宅と店の二つ登録されている。

 1992年の『日本演芸家連合名簿』まで名前が見えるが、その後、福笑が体調を崩したため、自然消滅した模様。

 1996年に没。『演芸連合62号』(1996年9月5日号)に、

◆桂福笑師。昭和九年大阪、桂福助師内弟子に入り昭和二十五年に独立、漫才に転じ夫婦で音曲漫才として四十年間山王町(天王寺村)に住いして活躍。七・八年前に体調を崩し子息宅に身を寄せていましたが、平成八年三月十九日八十八才でこの世を去りました。

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