浅田家朝日

浅田家朝日

 人 物

 浅田家  あさだや 朝日あさひ

 ・本 名 中野 ?
 ・生没年 1891年頃~1954年
 ・出身地 大阪?

 来 歴 

 戦前、一大勢力を張った浅田家一門の総帥。その割には謎が多く残る。弟妹に、同じく漫才師の浅田家日佐丸、南ふく子がいる。日佐丸の本名が「中野久吉」なので、本名は、「中野某」というものだろうか。

 元々は、浅田家与六という役者の倅――と「笑根系図」にある。この浅田家与六が何者であるか、不明であるが、この与六の娘(朝日の姉)が、浅尾松鶴という女役者であるところから、幕末の名脇役、浅尾与六の門弟筋か、親類だった模様か。

 因みに明治から昭和にかけて、浅尾朝之正という女役者がいた。この人は、三代目浅尾大吉の子孫で、男顔負けの舞台で人気があったという。姉はこの人の弟子にでもなっていたのだろうか。

 吉田留三郎は『漫才太平記』の中で、

この浅田家の家元を朝日という。カブキの浅尾奥山の弟子だったという珍しい来歴を持っている。大正十二年の記録には男九十二人、女六十二人の大身内だったそうである。

 と書いているが、これはミスリードの模様か。出典が書かれてないので、何とも言いようがない。

 然し、Wikipediaには記載されていないが、朝日が幼少時には、八代目浅尾奥山という役者が実在した。1910年発行の『日本俳優鑑』の中に、「八代目浅尾奥山 本名 岩井市太郎 文久三年九月二十六日、東京麻布生れ」とある。

 上記資料によると、奥山の実家は魚屋であったが、父が七代目團十郎の門下に入った事により、己も歌舞伎俳優となり、市川市太郎と名乗る。

 しかし、舞台が嫌いで、勧められるまま何回か芝居に出たきり廃業してしまった。

 後年、再び役者を志し、明治13年、尾上多見蔵に従って、大阪へ行き、明治15年、中村鴈治郎に入門。更に明治26年に中村霞仙の門下へ移り、中村藤蔵。その後、九州巡業へ出かけ、当地で人気を集める。明治39年、帰阪し、翌年1月、名題に昇進。明治41年8月、周囲に勧められて、浅尾奥山を襲名した――という。

 この人ならば、朝日が弟子になっていたとしてもおかしくはない。

 さて、親兄弟が役者だったこともあり、本人も浅田家与一と名乗って舞台を踏むようになる。後年、万歳に転向。吉田菊丸なる人物とコンビを組んだ。

 1916年には漫才をやっていた、と前田勇『上方まんざい八百年史』にある。以下はその引用。

この文中にある拍子木でなぐるのと青竹でなぐるのと、どちらが先であったかという点で意見が対立し、穐村氏などは浅田家朝日・吉田菊丸のコンビが拍子木で相手をなぐる新手を発表したのが先で、それはたしか大正五年だったといい、横山エンタツ氏自身は、わたしらの方が先だったという。しかしこのような先陣争いは、われわれは興味をもたない。

 この菊丸とのコンビは、いわゆる古風なドツキ漫才のそれだったそうで、張扇の代わりに、拍子木で菊丸をぶん殴るという芸で人気を集めたという。以下は、同じく『上方まんざい八百年史』。

骨のない張扇で頭を殴っていた漫才が、拍子木で相手の頭を殴るまでに一大飛躍したのだから、観客は朝日、菊丸の高座へ驚異の眼をみはったのである。丸刈の菊丸の頭を拍子木で殴った時にカーンと冴えた音が場内にひびき渡るのだからびっくりするのが当然である。臨監席の巡礼でさえも、左様な凶器で殴打するとは何事だと目の色を変えて取調べると、この拍子木は内側が、くり抜いてあるので、音響の割りには被害の程度が少いのがわかって、巡査が苦笑いしながら楽屋から立ち去って行ったと、その場に居合わせた芸人から聞いた話である。

 相方の菊丸も経歴に謎が多いが、『京都日出新聞』(1928年4月4日号)に、賭博行為でしょっぴかれた記事が載っており、ここに本名と年齢が出ている。こういう記事が、一番役に立つというのが、なんとも情けない話である。

◇芸人の賭博 開帳中に踏込れる  二日午後新京極寄席花月に出演中の大阪市西区九条通り三丁目吉田菊丸事宍戸菊太郎(三二)、同市此花区上福通り二丁目玉子家虎勇事西野利久(三四)、大阪府中河内郡橘大正坊事川村鶴松(三九)、同西成区萩の茶屋李玉川(二五)、若松家太郎こと藤田春一(二六)の五名がカブ賭博中を五条署興行係杉本警部補、木瀬巡査が踏み込んで取押へ目下取調べ中

 上から解釈するに、本名は宍戸菊太郎。生年は、1896年頃か。

 このコンビで人気を集めたが、それからしばらくして菊丸と別れ、浪曲劇で浪曲をやっていた(節劇の棚読みという)弟に懇願し、コンビを組んだ――と「笑根系図」にある。その結成時期は不明。ただ、前述の吉田留三郎の記事より、1923年前後にはもうやっていたのは確かであろう。

 1926年には、早くも東京に来ており、『都新聞』(4月22日号)の広告に、「萬歳大会 朝日日佐丸他」とあるのが確認できる。

 1927年4月11日より、弟と共に芦辺館に出演している様子が、『上方落語史料集成 昭和2年(1927)4月~6月』で確認できる。

△芦辺館 芳丸・芳香、今男・アチヤコ、日佐丸・朝日、愛子・光晴、政夫・雁玉、嘉市・捨市、団丸・喜楽

 この直後、弟と別れ、中村直之助とコンビを組んだらしい。1928年7月、市村座で行われた「東西萬歳大会」では、直之助・朝日名義になっている。以下は『都新聞』(6月30日号)の広告。

市村座 一日よりの萬歳親交記念大會に出演する関東関西の顔ぶれは

直之助、朝日、かほる、春雄、保子、六郎、源六、清、啓之助、玉春、清子、染團治、芳春、芳丸、源一、友衛、小芳、染若、初江、日出男、静子、文雄、駒千代、喜代駒、金之助、セメンダル、秀千代、秀夫、花輔、デブ、清丸、玉奴、豊丸、小一郎、愛子、金吾、力春、力松、小徳、春夫、芳郎、千代治、愛子、秀丸、茶目鶴、仲路、こたつ、夢丸

 1932年12月、久方ぶりに東上し、帝京座に出演。『都新聞』(12月19日号)に、

▲帝京座 廿日より関西万歳浅田家朝日、キリン加入

 これ以降は、浅田家一門の総帥に納まった模様か。弟子の育成は熱心で、弟の日佐丸を筆頭に、浅田家寿郎、浅田家日東浅田家朝日嬢、旭芳子、浅田家朝千代、浅田家朝二などを輩出。

 更に日佐丸の門下からは、二代目平和ラッパ、吾妻ひな子、二代目日佐丸、島津志朗・近江京子などが輩出された。

 1935年、浅田家朝日、直吉一行でオリエントレコードから「小唄ナンセンス」なる演目を吹き込んだが、同年10月中身の猥雑さをやり玉に挙げられ、制作停止処分となった――と当時の「出版警察報」にある。

 戦時中はそれ相応の活躍をしていたそうであるが、敗戦の混乱で弟の日佐丸を失い、わびしいものがあったという。戦後はこれという活躍がないのはどうしたものか。

『笑根系図』によると、1954年、63歳で没したと故。

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