河内家芳春(初代)

河内家芳春(初代)

 人 物

 河内家かわちや 芳春よしはる(初代)
 ・本 名 後藤 芳松
 ・生没年 1887年頃~1923年
 ・出身地 大阪

 来 歴

 河内家芳春は漫才勃興期に活躍した上方の漫才師。河内家千代鶴と共に河内音頭から漫才師となり、「河内家」の一流を立ち上げた。ミスワカナ・玉松一郎、ミスワカサ、河内家菊水丸なども元を辿るとこの芳春に行きつくという。

 経歴には謎が多いが、東大阪の水走の住人だったらしく、当地に出入りしていた祭文語り・荒川藤春の弟子となって、「荒川芳春」。

 後年、「荒川浅丸」や「荒川芳丸」の弟子ではないか――と疑われ、「河内家」と改名するきっかけとなるのだが、師匠譲りの「荒川」と荒川浅丸の「荒川」は字こそ同じであるが、流れは別物である。前者は祭文の屋号であり、後者は住まいが「荒川村」だったから荒川と名付けたに過ぎない。

 荒川藤春の弟子となって、祭文や音頭を仕込まれた。師匠・藤春という人は、河内でも相当な芸豪だったそうで、初代真鍮家好文、桜川大龍と兄弟分だったという。

 藤春は、江州音頭に凝り始めた玉子家為丸と面識を得、彼を真鍮家に斡旋するなど、非常に親しい付き合いをしていた。この為丸こそ、上方漫才の祖と呼ばれる玉子家円辰である。

 師匠の付き合いから円辰の一座に出入りしている内に、八重春という女性と仲良くなった。この八重春こそ、玉子家千代鶴であり、円辰自慢の秘蔵弟子であった。

 芳春と千代鶴は円辰が漫才修業を行っている合間に出来てしまったそうで、円辰を激怒させた――という伝説が残っているが真相は不明。ただ結婚を機に千代鶴は玉子家と距離を置き、芳春と行動を共にするようになった。

 1914年1月、ニッポンノホンから「三曲萬歳」「かいづくし」を吹き込んでいる。このレコードは上方漫才で活躍した上方漫才師という意味では、一番最初に吹き込まれたもの――と考えられている。

 当初「荒川芳春・玉子家千代鶴」として万歳の舞台や音頭の櫓に出ていたが、「芳春は円辰の所の荒川浅丸の弟子」と言われるのが嫌だった事、さらに千代鶴が独自の河内音頭を生み出したのを機に「河内家」として独立することを考え、「河内家芳春」と改名を果たした。

 以来、河内家の総帥として活躍。千代鶴のヤンレー節と共に河内音頭に革命を与え、弟子を数多く輩出した。

 二代目河内家芳春を筆頭に、河内家広春、河内家鶴春河内家一春河内家正春、河内文春、河内家鶴子などを擁し、河内家は一躍名門の一門として広く知られるところとなった。

 中河内を拠点として活躍を続けていたが、1923年に病気で倒れ、そのまま没したという。残された千代鶴が河内家を率い、弟子の一人がのちに「二代目芳春」を襲名している。

 息子に後藤大太郎がおり、これが母と共に長らく河内家の位牌を守っていたという。

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