笑福亭鶴蔵

笑福亭鶴蔵

 人 物

 笑福亭しょうふくてい 鶴蔵つるぞう
 ・本 名 神谷 乙也
 ・生没年 1895年~1955年以降
 ・出身地 大阪

 来 歴

 笑福亭鶴蔵は漫才以前~漫才黎明期に活躍した芸人。本業は四代目笑福亭松鶴門下の落語家であったが、落語以上に掛合噺や喜劇の創作が上手く、長らく吉本の文芸係としても活躍した。春風亭枝雀などと深い関係を持ち、戦前吉本の喜劇ブームの一翼を担った。

 落語事典などを見ると「生没年不詳」「本名・神谷乙也」「16歳のころに4代目笑福亭松鶴の門で鶴吉を名乗った。後に鶴蔵と改名。一時期新派の俳優をしていたが、しばらくして寄席に復帰し橘ノ一圓と組んで軽口に転じた。」といった記載がある。

 年齢不詳が長年の通説であったが、『富士』(1932年新年特大号)の中にもろ年齢が出ていた。――

笑福亭鶴蔵 本名神谷乙也。明治二十八年大阪出生。斯界では珍らしい文筆堪能。掛合噺など得意。師は松鶴。

 とある。また、『演劇年鑑 昭和18年版』でも――

神谷鶴蔵(乙也)①明二八②大阪④吉本演藝係長

 とあるため、「1895年生れ」は揺るがないようである。

 幼い頃の経歴は不明であるものの、満16歳の時に四代目笑福亭松鶴に入門。「鶴吉」と名乗る。

『上方落語史料集成』によると、初登場は1912年5月のこと。『奈良新聞』(5月1日号)に――

◇尾花座の落語  記の如く今一日より大阪三友派笑福亭松鶴一行にて花々しく開演する由なれば定めし大人気ならむ扨て高座に現わるる面々は左の如し。 落語手踊(鶴吉、鶴三郎、松太郎、鶴二)同舞(鶴松)同手踊(文璃)同曲こま(左鶴)同舞(福太郎)同曲芸(萬冶、松光)東京音曲ばなし(芝雀、松鶴)大切喜劇総出。

とある。ちなみに翌月には師匠ではなく、三遊亭遊三一門の一座に出ており、その巡業は半年近くにわたって続いた――という。

 当時の持ちネタを見ると『池田の猪買い』『初天神』『味噌蔵』『理屈按摩』『稽古屋』などをやっているほか、1913年には既に掛合噺を演じている。

徳島毎日新聞』(1913年4月6日号)の広告に――

◇緑館 既記の如く節句こうぎょうとして来る八日初日三遊亭遊三一座の若手落語大一座開演。
初日當夜の番組は、落語伊勢参宮(三遊亭三八)落語名所巡り(三遊亭三吉)新内忠臣二度目清書(富士若梅)落語手踊(三遊亭三吾)三味線の曲(一弦斎三調)歴史講談(大森蘭月)落語ステテコ(橘家圓三)話劇(座中総出)歌舞女道楽(三遊亭三富久、三遊亭三子)落語音曲一口問答(桂美之助)掛合噺手踊(三遊亭三助、笑福亭鶴吉)笑話舞(三遊亭遊三)大切祝う金時電気応用所作。

 とあるという。最後の所で「掛合噺」として出ている。落語より雑芸に秀でていたのだろう。

 1914年頃より神戸へ出勤するようになり、関西の林家正楽、桂花橘、橘ノ圓一門などと高座に出るようになったという。1915年などはほぼ神戸に出続けである。

 1916年初頭まで鶴吉を名乗っていたが、この頃神戸を離れる。そして「鶴蔵」と改名した模様。名前が確認できるのは、1916年秋の橋本川柳(三代目三遊亭圓馬)の朝鮮巡業の模様か。『京城日報』(1916年11月9日号)に――

◇川柳開演 東京落語朝寝坊むらく改め橋本川柳一座は七日夜熊本大和座より乗込み来れるが、九日は花々しき町周りを為したる上、同夜より明治町浪花館に於いて開演すべく。一座は全て十五名にして初日の演し物は左の如し。
七段目手踊(歌當)源平魁手踊り(都遊)白木屋曲芸(しらく)赤買舞(喜三郎)理屈按摩(鶴蔵)百両損(夢輔)ねどこすててこ扇舞(橘松)塩原太助(掛合梅八、桜八)忠孝嵐(市兵衛)音曲噺(翫之助)淀五郎やりさびの踊り(川柳)

とあるのが確認できる。この一座で半年ほど巡業している。ただ、1917年初頭に一度表舞台から消え、1918年まで見られなくなる。この頃、新派でもやっていたのだろうか。実際、当時の芸人は何でもやったというので、まあわからなくはない。

 1918年春頃、三友派に復帰し、大阪の寄席に出られるようになった。

 同年5月9日、芦辺館の「変装競争」に参加。林家染丸、桂三八、桂塩鯛の外鶴蔵、亀蔵、桂州、玉団治、枝雁、枝女太、扇太郎、若橘、文之助がそれぞれいろいろな格好をして、町の中に紛れたという。

 1918年7月15日、大阪の名門寄席・紅梅亭に初出演。出演者は――玉輔、光鶴、枝め太、鶴蔵、遊三、文団治、円歌、小仙・小金、円枝、小文、染丸、円窓、花橘、松鶴、秀子一行。

 同年11月16日より兄弟子の光鶴が「枝鶴」を襲名。この襲名披露にちゃっかり出演している。

 この頃から引立てられるようになったのか、大阪の寄席に出られるようになった。ただ。その引立ては「軽口」としてだったらしい。「亀蔵」なる相方とコンビを組み、「鶴蔵・亀蔵」として高座に出るようになった。

 さらにこの年の暮れ頃に、橘ノ一圓と出会い「一圓・鶴蔵」のコンビを組む。

 1920年春、三遊亭遊三一座に入り、九州巡業。この時は既に一圓とのコンビだったらしく、『九州日報』(5月15日号)の中に――

◇川丈座(博多) 東京落語の花形三遊亭遊三十年振りの九州巡業にて今十五日より七日間開演。今初日の番組左の如し。
曲芸(一郎)掛合噺(鶴蔵、一圓)浪花節(玉子)支那少女曲芸(林金花)新内浮世節(若呂光、わき栄)宮古川並に扇舞(遊三)

 とあるのが確認できる。

 その後は順当な活躍を見せていたようで、大阪の一流寄席などにも定期的に出ている。一圓との軽口コンビが一番性に合ったのだろう。

 1921年11月、初上京し、「東西落語会」に参加。当時の東西交流の流行に便乗して参加した模様。同会は「東西」と称したように多くの関西芸人が所属した。

 以来、東西落語会の看板として主に浅草の劇場を中心に活躍。東京に軽口や漫才の下地を作った。

 1922年6月、立川談志と蜃気楼龍玉が中心となって設立された「東洋落語演芸会」に移籍。

 同年8月、東洋落語演芸会と東西落語会が合併し「柳三遊演芸会」が発足。ここに所属する。

 この頃、東京勢とも交わったそうで、入船亭扇橋の指導する「俳句入船會」にも所属していた。1923年元旦の広告に「桂一奴、橘ノ一圓、浮世戸平、笑福亭鶴蔵、春風亭柳生、柳亭小燕枝、三遊亭圓洲、桂残月楼、橋家扇三、立川扇太郎、以時庵入船亭扇橋」として名前を挙げている。

 1923年1月、三遊亭歌奴が中心となって立ち上げた「東洋落語演芸会」に移籍。少数精鋭だったこともあり、喜劇や大喜利で軽口の才能をいかんなく発揮したらしい。またこの頃から作品を書き始めるようになった模様か。

 それから関東大震災を受けて一度帰阪。ただ、この頃には既に吉本が演芸界を牛耳っており、軽口需要が少なくなった事もあってか、番組で探すことができない。

 1924年6月、柳亭左楽率いる「睦会」に参加し、同会の色物として所属。再び寄席へと出勤できるようになった。

 1925年1月、東京落語協会へ移籍。理由は不明。

 1925年10月6日、JOAKに出演し、掛合噺「別荘の訪問」を放送。これが東京における掛合噺(漫才)の第一号放送であった。この頃から放送に積極的に出るようになる。

 11月5日、JOAKに出演し、掛合はなし「寺小屋」を放送。

 12月5日、JOAKに出演し、かけ合ばなし「いろは仮名吹寄せ・忠臣蔵五段目」を放送。

 12月22日、JOAKに出演し、滑稽掛合噺「十二段返し」を放送。

 1926年元旦の「賀正記事」において東京落語協会の幹部として登録されている。

 1926年4月12日、JOAKに出演し、滑稽掛合噺「狂言三番」を放送。

 1926年12月、柳家三語楼率いる「落語協会」に移籍。

 1927年1月の「賀正記事」では落語協会の幹部として扱われている。

 同年4月、柳亭燕枝、桂小南率いる「柳三遊研成会」に移籍。忙しい人である。

 しかし、ここも長くは続かず脱退。最終的にはフリーに近い立場となった。

 脱退と前後して浅草の安来節小屋や色物席に出入りするようになり、そこで軽口を演じるようになった模様か。

 1928年4月、浅草江川大盛館で演じられていた「きらく会」に所属するようになった。『都新聞』(4月15日号)の広告に――

◆革新特別大興行◆
扮装競争即席芝居 安達原三段目 きらく會女通お好の役相勤候
色物連 
柳家三亀松 丸一栄二郎・栄造 柳男 三遊亭い円遊 笑福亭鶴蔵・一円 三升紋弥 玉枝・安子 橘家デブ子・花輔 林家染団治・清子
唄狂楽 春風亭花菱・弓子
女流きらく會 お鯉、繁千代、光子、若松、左喜松、小冨、静子、文子、夏子、好子
〆の家〆太、〆松、〆奴、〆蝶、〆常陸、〆千代
義太夫 組春
安来節 貞奴一行
所作事大喜利 おもちゃ箱

 きらく会では、色々な大喜利やニワカが演じられていたこともあり、鶴蔵は執筆者としても腕を振るっていたという。ここで知り合った春風亭枝雀・花菱とは行動を共にするようになった。

 1928年8月1日、JOAKに出演し、滑稽漫劇「梅忠の封印切」を放送。

 1929年2月24日、JOAKに出演し、掛合噺「別荘の訪問」を放送。

 この放送を最後に、一圓とはコンビ解消。一圓は橘ノ圓十郎・百圓たちと合流して独立した。

 きらく会に残った鶴蔵は相変らず常連として寄席に出演していた模様。きらく会は主役が雷門助六・五郎親子になったり、〆の家連が入ったりと転々としながらも続けられていた。

 1930年1月25日、JOAKに出演し、掛合噺「芝居あんま」を放送。これは臨時的な復活だった模様か。

 1930年8月、吉本と専属契約を結んだそうで、枝雀たちと行動を共にした。ちなみに江川大盛館も同年12月限りで江川大盛館が改修工事(吉本が買収)に入っている。

 その辺りの事情は雑誌『ヨシモト』 (1936年9月号)掲載の 『民謡座座談会』が掲載に詳しい。

記者 所謂、民謡喜劇の蓋を開けられました頃は?
枝雀 一九三〇年八月、芸題は、確か、「家庭円満会」、私が、先きに大阪へ来まして、鶴蔵クンの書いたものをやったのです。
鶴蔵 所が、此地(大阪)での評判が良いので年内だけ、手伝ってくれと云はれたので十一月三日、東京から、大阪へ来ましたのが、縁となって、遂々、今まで、尻をすへた様な 次第なんです。
枝雀 民謡座と言ひ乍ら、落語家出だから歌の言へる者がゐないんですよ。
鶴藏 最初は、歌へるのは、枝雀一人だったんですよ。だから、春雨、越後獅子といふ様な歌ばかりをはめ込んでやったのです。それでも充分歌へないんです。 まあ、一生懸命に勉強しましたので、此頃では、伴奏の楽器が邪魔にならない様に歌へる様になりましたが、 枝雀には、絶えず、此頃でも、怒鳴られてます。

 また、この座談会の中で――

鶴蔵 十六の時から、四代目の松鶴さんに仕込んでもらいまして、落語家になりましたもの、道樂のありたけを尽くして、一時は、新派へも走り、後には一圓クンと軽口をやってゐましたが二十七の時に、東京へ行って、四囲の様子を見て、落語や軽口ばかりが大衆娛樂ではない。もつと、これを立体化したものを作らなくてはと色々考へた結果、造り出したのが、この民謡座です。幸い、皆様に可愛がって頂いてゐますが、よりよきものにするために、毎日そればかりに苦しんでるます。

 と述べているのが興味深い。ここが出典になっている模様か。

 以来、吉本の諸劇場を中心に喜劇を展開。座員として出演する傍らで、

 1935年7月31日、JOBKに出演し、「喜劇民謡座」を放送。

 8月、『ヨシモト』(9月号)に「発展した民謡喜劇」なる記事を本名・神谷乙也名義で寄せている。

「民謡喜劇」は吉本に生れた。
 その集団を「喜劇民謡座』と名づけた。
 新世界の芦劇場で落語家連中が、当時流行の剣劇映画を舞台化し又は落語家式喜劇で人気を呼んでゐた頃東京に居た私は唐突に大阪へ呼び戻された。
”芦邊で芝居をやってゐる落語家連中で何か喜劇に新機軸を出すべく、君も共に考へてやれ”との命令直下、種々と相談の結果、流行唄を加味して純日本風の喜歌劇をやったらと衆議一決し、座員も現在の枝雀、 花次、光鶴等に蔵之助、千橘、春團治、延若など、落語界の芝居達者も狂言の役割に依ては其の 都度応援して貰ふことにして、早速執筆した の民謡劇「浮世気晴所」であった。 
 これは従来の喜劇とは全然意気が異ってゐて劇中に歌ふ唄が当時の流行歌ばかりだったので、漫才ばやりの大衆にもピッタリと嵌って、歓楽街の人気に投じた。
 昭和五年十月創立以来、足掛け二年といふ ものは、常に破天荒の成績で他を圧した。昭和六年の十月に京都の中座(現在の花月劇場)へ乗り込み、こゝでも桟敷の一方を潰すことになったので、”民謡座が来ると潰される”なんて云はれたものである。

 さらに、1936年8月には「漫筆涼み台無駄話」と題した随筆を『ヨシモト』に寄せている。

 1936年9月29日、JOAKに出演し、「新喜劇・家庭円満見学」を放送。鶴蔵は「友人・伊藤雪雄」という役であった。

 その後も民謡座に出演する傍ら、執筆をつづけて行った。作家としては「神谷鶴蔵」と名乗ることが多かったようで、後年は喜劇座のみならず、花菱アチャコ一座や吉本の喜劇連中にも書く事があった。

 1940年代に入ると民謡座も縮小し、鶴蔵も事実上の引退となったらしい。その後は落語家を廃業し、「神谷鶴蔵」の名義で吉本の文芸部に飛び込み、そのまま文芸係長となった。

 一方、兄弟子で事実上の師匠であった五代目松鶴達とも交友を持ち、『上方はなし』の雑務をこなしたり、字を書いたりすることもあったようである。

 敗戦後、演芸興行から手を引いた吉本興業に残留し、「文芸家」として起用されるようになった。敗戦後、焼け残った千日前常盤座の第一回戦後公演となった「花菱アチャコ劇団」の公演でも、「取的三代記」なる作品を与えている。

 ただ、舞台の仕事が少なくなった事もあって、徐々に暇を持て余すようになったらしく、作家としての活動も戦後まもなく途絶える。それでも吉本には居続けられたのだからすごい。

 1950年、松鶴より芸談を取り、それを文字に起こした。これが今も松鶴の自叙伝として知られる『噺家五十年』である。さらに、芸人たちの生没年を綴った『噺家転鬼簿』も鶴蔵が筆記したという。

 1950年頃まで健在確認できるが、その後は不明――というのが通説であったが、1955年頃まで吉本にいて健在だった模様。

『京都年鑑 昭和30年版』の中にある吉本興業の記事の中で――

主要職員(総務)辻阪昌一(業務)前田米一(経理)大原康正〔課長〕(総務)伊藤万蔵(経理)岡田幸太郎(技術)藤村徹(劇場)高山浩(芸能)神谷乙也(映画)山本米吉

 とあるのが確認できる。最後は芸能課長だった模様。

 これが最期の消息で、後は分からない。この時すでに60過ぎ。引退したのだろう。

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