東鶴八・西鶴次郎

東鶴八・西鶴次郎

鶴八・鶴次郎(左)

 人 物

 あずま 鶴八つるはち
 ・本 名 徳永 はる
 ・生没年 1911年~1994年2月10日
 ・出身地 横浜

 西にし 鶴次郎つるじろう
 ・本 名 徳永 ?
 ・生没年 ??~1993年以降?
 ・出身地 ??

 来 歴

 東鶴八・西鶴次郎は、戦後一時期活躍した夫婦漫才。両人ともに三味線と音曲を得意とし、「万才」の趣の強いコンビであったという。笑福亭鶴八・鶴次郎といった事もある。

 鶴八は後に独立して、「徳永はる」というお囃子さんに転向。下火になっていた上方落語のお囃子の貴重な継承者として、腕を振るった。

 はるは、平成まで生きたおかげか、そこそこ資料が残っている。一番手っ取り早いのが、『桂米朝集成 第2巻』だろうか。そこで米朝が実に詳しく語っている。引用をしていこう。本当にこれが数少ない全貌なのではなかろうか。

米朝 松永というのは長唄の方の名前です。松永和太吉いうて、松永和風いう人の弟子の和吉つあんいう人の弟子やった。徳永は本名です。

米朝 笑福亭鶴八鶴次郎というコンビでね。戦争が始まった頃、 お鯉さんが住吉の新地で松鶴というお茶屋をやってて、その時の抱えの芸妓でした。あの人は以前、東京の神楽坂の芸者で、生まれは横浜や言うてました。 それで新興演芸部か何かに引き抜かれた。女道楽てな言葉、その当時東京では使わなんだけど、その種のことの地方に引き抜かれてね、戦争中で花柳界も暇になるし。それに行ってる時に鶴次郎はんと。 この人は踊る。 ケレンの踊りも踊るというンで、鶴八つぁんの地で笑福亭鶴八鶴次郎という名前をつけた。漫才みたいなことはできへんので、何か挨拶みたいなことしてて「踊らしてもらいますが何かご注文は?」てなこと言うと、お客が注文する。鶴八つぁんも大概のもンは弾けるさかいに、そんなことで演ってた。まぁ派手な高座やし、ニンも綺麗でした。

 一部文献では、鶴八は、「松葉家奴と組んだ」とあるが、これは「松鶴家鶴八」の間違いではないか、と考えている。

 また、林家染丸『上方落語寄席囃子の世界』にも芸風に関して詳しい話が出ているので引用する。

 戦後も、活躍。敗戦直後に行われた演芸大会に出ている様子が、『近代歌舞伎年表 京都篇 第11巻』から確認できる。

 十一時より二回 京都座 九月(二十一)日~(二十六)日 〈短期慰楽興行〉

 第二回 かみがた名流演芸大会

【番組】
落語 笑福亭松之助
唄と踊の漫才 東鶴八・西鶴次郎
大阪俄 芝居の寄せ鍋

(百姓与市兵衛=文団治 団七九郎兵衛=ニコニコ 雲助平作=花橘)
漫談 丹波家九里丸
舞踊百千種 文の家かしく 地方 鶴八
風流二人羽織 花橘・文団治・かしく
漫才 浅田繁子・浅田家寿郎
落語 立花家花橘
滑稽落語 桂春団治
漫才 平和ニコニコ・喜音家花楽
落語百種の内 爆笑怪談 庵寺潰シ 全二景(全員総出演)

 戎橋松竹の創設当時から度々舞台に出ていたという。こけら落とし公演後に撮られた関係者の集合写真にも二人の姿が写っている。米朝曰く、

――戎松の開場記念の写真を見ると、鶴八鶴次郎のお二人が入ってはりますね。
米朝 そら五代目(松鶴)の内輪やからね、早い段階からあそこへも出てたね。初期の戎松は落語が何本も出てたし、もちろん漫才も出てたけど時間が短かった。十五分とか二十分とか。 大概トリネタは『おてもやん』でね。くわえ面で、これでちょっとウケさして。鶴八つぁんはおトミさんに頼まれて、手の足らん時にちょっと弾いとったンです。

 しかし、その後、両方が浮気をして解消するというのだから呆れた話。米朝の談話によると、それで切れて以来、鶴八はお囃子に転じたのだという。

そのうちに鶴次郎はんに男ができた。男のほうに男ができてそれで別れよった。あの鶴次郎はんは梅玉さんの弟子やと本人は言うてたけど、梅玉の息子の福助、高砂屋福助のいわば弟子みたいなもんで、歌舞伎に女形で出てたンです。 楳茂都の名取やったやけど、晩年は東京の猿若清方さんの弟子になって猿若清水という名前をもらいよった。

 猿若一門に行ったという事は、猿若流の名簿か何かで見れば、晩年の動向が知れるかもしれない。

 1993年11月の『演劇界』に名前が出ているので平成初頭まで健在だった模様か。

 一方の鶴八は、林家とみの弟子分という形でお囃子に転向。『桂米朝集成』でも、林家トミ門下という形で収録されている。

 早くから米朝一門について同行し、米朝演じる噺の地を担当した。また、後年穴の空いた中田つるじ社中に声をかけられ、社中に参加している。

 1975年『上方下座音楽集成』の吹込みに参加。レコードとして売り出された。

 1980年、桂小文枝のレコード『桂小文枝上方噺集成 「はめもの入り」の名作を集めて』に参加。このレコードは芸術祭参加となった。

 芸人出身だけに、舞台度胸があり、芸人連中とも仲が良かったが、その度胸の良さやアドリブで時々舞台を滅茶苦茶にすることがあり、関係者をあきれさせたという。林家染丸『上方落語寄席囃子の世界』で、染丸が、

ところが、度胸がありすぎてこっちが困ったこともあります。私がNHKの録画で 「三十石」をやったんですが、「や、うんとしょい」 きっかけで「唄」というのが入るんですよ。 その唄を松永さんが忘れてしまったんですね。とっさに何か唄っているんですが、何とも言えん不思議な 節。文句は何となく合っているんですが、メロディは実にいい加減。その唄の間、私は船を漕ぐしぐさをしているだけなので、その唄で吹き出しそうになってしまい、すぐに止めました。お客さんはご存じないので支障はありませんでしたが、そのけったいな唄の入った映像は今もNHKに保存されているはずです。

そうそう、こんなこともありましたね。以前、千里セルシーで「千里繁昌亭」という落語会をやっていたのですが、そう、今の天満天神繁昌亭という名は、この会がルーツになっているんです。 そこで、私の踊りに合わせて、舞台で唄ってもらったことがあります。「松づくし」という曲で、扇子を松に見立てて、一本目から二本、三本と数を増やしていき、最後は手も足も使うという曲芸みたいな踊りです。四本目からは口にも咥えるのですが、そこで急に唄が止まったんです。「あら、忘れちゃった」。 松永さんは関東弁でした。扇を両手片足につけ、口にまで咥えている私にはどうすることもできません。そんな私に、松永さんは「えっと、何だっけ」と聞くのです。しばらくはお客さんも茫然としてましたが、やがて事情が呑み込めたとみえて大爆笑。 そこでやっと思い出してくれて最後まで踊りましたが、それはもう冷や汗ものでした。

それから、ある落語会で、三枝さんの出雅子「おそづけ」を松永さんが弾いたんですが、「チンツン」とはじめるのを「チンツーン」と弾いてしまったんです。 ツボは同じなんですが、間が違うんですよ。弾いたのは「せり」という他の曲。 でも、そう入ってしまうと抜け出せない。「チーンツーン、ツンチンチンツン」と、 もうどうしても「おそづけ」にならない。途中から 弾き直しても、また「チーンツーン」と同じこと。横から太鼓の者が、「違う違う」と言っても、当人も必死で耳に入らない。三枝さんが私に「なあ染ちゃん。これ、ちょっとおかしいのと違う?」と不思議そうな顔で私に聞くんです。「もう、早いこと出てしまいなはれ」と「チーンツーン」だけで送り出した(笑)。そんなこともありました。何やら失敗談ばかりになってしまいましたが、おスエさん亡きあとは、米朝師匠もよく使ってはりましたし、この世代の最後の人でした。

 しかし、上方落語のお囃子を支えたという功績や地位は揺るがないだろう。

 1991年に引退。当人はまだやりたかったようであるが、既に老体になっていて、お囃子としての機能が損なわれる前にやめさせたという。米朝も、『桂米朝集成』の中で、

――徳永さんは、なんで辞めはったンですか?
米朝 音が外れてきたこともありますけど、あの人の一番困るンは三味線が早よなる。途中から初めのテンポと違うてしまうンでね。それはもう芸者の時から言われてたらしい。私がそない言うたら「昔から私、早よなる言われてたンですよ」と言うてた。 これは使いもンにならん。
――亡くなりはる前に引退披露みたいなンをやったのは、林家トミさんと、この徳永さんだけですね。平成三年のオレンジ寄席でしたね。
米朝 徳永はんの引退披露をする必要はなかったンやけどね。
――あの時は「他の人は誰もやれへんのに、何でこんなことするかいな」という感じがありましたね。

米朝 悪い例になれへんかいな、と思うてやったやけど、もう使われへんようになってたンでね。 本人はまだやりたがってたけど、引導をわたす意味で引退披露をさせたンです。

 と語っている。晩年の動向に関しては、『上方芸能・落語・演芸の過去・現在・未来を語る』に詳しい。参考にしてください。

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