浮世亭夢丸

浮世亭夢丸

浮世亭夢丸・吾妻ひな子

美山なをみとのコンビ

三曲萬歳を演じる夢丸(真ん中)
左は桜川末子、右は浮世亭出羽助、右端、桜山梅夫

人 物

 人 物

 浮世亭うきよてい 夢丸ゆめまる
 ・本 名 北村 誠一
 ・生没年 1896年1月6日~1978年4月3日
 ・出身地 石川県 金沢市

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。砂川捨丸の一番弟子として、長く捨丸一門を支え、また当人も「浮世亭家元」として君臨。弟の浮世亭歌楽と共に、浮世亭出羽助、浮世亭夢路、浮世亭夢若、浮世亭公園などの人気者を育て、浮世亭とん平、浮世亭三吾・十吾、浮世亭とんぼに至るまで、漫才界随一の山脈を形成した。また、古典万歳や三曲萬歳の復活にも熱心であった。

その前歴

 出身は石川県金沢市。生年月日は『芸能画報』(1959年3月号)の『オールスタァ名鑑』より割り出した。

浮世亭夢丸

①北村誠一 ②明治29年1月6日 ③石川県 ④大正10年砂川捨丸の門に入り現在に至る。(千土地興行専属。)初出演は南座。

 実家の北村家は、加賀百万石・前田家に代々仕えた典薬医(医者)の家柄で、夢丸歌楽の母親の実家も医者という名門であった。

 祖父の代までは羽振りもよかったそうであるが、父親の代に没落。父親の放蕩三昧が原因であったという。

 弟の歌楽が『難波津』(第六号)の「万歳五十年の回想」で父の姿を語って見せたところによると、私の祖父は医者で、母方の祖父も医者でした。医者の娘と息子が結婚して私たちが産れた訳けです。両親とも石川県の金沢の産です。父は極道もので祖父が死ぬと同時に家は倒産しました。その時は、すでに母と結婚していました。貧乏暮しの父に、母はよく仕えたそうです。そして父は中年から大工になったのです。別に器用でもなんでもなく、その当時の大工の服装が小意気で、食いつきそうな、もも引き、腹掛け、豆しぼりの手拭ではち巻き。道楽で覚えた唄を唄いながら、鉋をかける姿が若い娘さんにモテたと、晩年父は、私達子供によく話をしていました。

  当然、家は火の車。父親は家族総出で大阪に出て来たものの、裕福になる筈もなく、兄弟たちは、働きに出る始末であったという。

関係者提供

 関係者のご協力で知った経歴によると(道頓堀角座のパンフレット「1966年6月のお笑い号」)、夢丸は12人兄妹の5男。その下が浮世亭歌楽。家の没落に伴い、夢丸も早くに働きに出され、職場を転々とする。

 しかし、何処も長くは続かず、親譲りの美声と道楽っ気でその気になって、当時売り出し始めていた砂川捨丸の門下に入る。時に17歳。

捨丸門下へ

 入門は1913年頃であろう。当時、捨丸は神戸を中心に活躍しており、前年には新開地日の出座でリサイタルを行い、見事に成功。神戸の萬歳禁止令を解いた油のノリ盛りであった。

「砂川菊丸」と名付けられ、師匠の一座に随行。神戸の寄席や劇場で、前座として活動をする事となる。この時、師匠や当時の幹部について覚えた古典万歳や三曲萬歳が大きな財産となった。

 なお、大正10年入門――とする資料があるが、これはどうもおかしな話である。

 なぜなら、夢丸の筆頭弟子であった砂川菊一こと浮世亭出羽助の初舞台が1920年(大正9年)。師匠よりも先に初舞台を踏む師弟関係がどこにあるというのだろうか。

 筆者は、「浮世亭夢丸」名義としての初舞台が、大正10年だと考えている。

 事実、秋田実主催の『漫才』で掲載された「砂川一門」の系図では夢丸の項目に「浮世亭夢丸(十七歳で入門・捨丸二十三歳)」とある。当時夢丸は健在で、古い仲間である山崎正三、櫻川末子などからも同じ回答を得たという。信憑性はあると考えていいだろう。

 1921年、和歌山から出てきた中尾幸一郎を弟子にして「砂川菊一」と命名。砂川捨丸は30代にして、孫弟子持ちとなった。この菊一こそ、後年大人気を博した浮世亭出羽助その人である。

 この頃、捨丸から独立。「浮世亭夢丸」と名乗る。芸名の由来は、「夢が浮世か、浮世が夢か」という歌の一節。雅な名前である。

 なぜ砂川姓を捨てたのか諸説あるが、香川登枝緒は『私説おおさか芸能史』の『オウムはかなしい鳥なのだ』の中で、

 それはとにかく、その捨丸師の高弟が昭和五十三年に、八十二歳で亡くなった浮世亭夢丸なのである。
 彼が、その名になる前は、 砂川捨丸の弟子らしく、 砂川菊丸という名だった。
 やがては捨丸をも襲うかも知れない、その菊丸がどういう訳で、 浮世亭夢丸になったのか?
 従来、このことに関しての考察はなかったようである。 浮世亭という亭号の家元は、万才師ではなく、浪曲節真似の名人といわれた浮世亭雲心坊である。
 坊と名乗るにふさわしく、坊主頭で黒眼鏡をかけていた人だったが、捨丸門下の菊丸がどうしてこの人の弟子になったのか?
 表面的には菊丸が美声で、浪曲節真似がうまかったから、このままズッと捨丸門下で万才の修業をするよりも、雲心坊の弟子になる方が出世が早いに違いないと本人が考えて、捨丸師匠の了解のもとに移籍したのだと解釈されるが、どうもわたしは真相はそうでないような気がするのだ。
 万才師……ヨロズの才能の師匠という名にふさわしく捨丸さんは多芸だった。浪曲の節真似もうまかった。虎造でも奈良丸でも米若でも、見事に特長をキャッチして、それらしく聞かしてくれたのだ。
 しかし、その節を口ずさむのは、ホロ酔い機嫌の酒席とか、気の合った仲間とマージャンの卓を囲んでいるときに限られていて、本芸の万才の高座では節真似をすることはなかった。
 わたしは、それを不思議に思って、あるとき理由を訊いてみたが、それに対する捨丸さんの答は、 実にきびしいものだった。
「わては浪花節は好きやけど、自分の本職の万才の高座で、人の真似するのはいやですねん。 米若さんの節真似でうけても、それは捨丸がうけたんやなしに、あんなええ節をこしらえはった米若さんがうけたんですわ。わては高座へ上ったら、捨丸の芸でうけたいんです」と……。
 プロの芸人なら衿を正して聞かねばならぬ至言であろう。だから前記の菊丸移籍問題は、彼が好んで万才の高座で、浪曲節真似をしていたために、「そないに真似がしたいのなら、砂川菊丸の名前を返して雲心坊はんの弟子になれ!」と捨丸さんが強引にそうさせたのかも知れないのである

 と、諸芸尽くしをモットーとする捨丸と、浪曲節真似で人気を集める夢丸の間に芸の対立があったから、と説明している。

 節真似の名手・浮世亭雲心坊との関係性も触れているのは面白いが、雲心坊が本格的に節真似一本になるのは、震災以降なのでちょっと信憑性には欠ける。

 文末に、「何分、今から半世紀以上も前に起った出来事だから、誰に確認するすべもない」と書いているが、である(生前、澤田隆治氏から何度も「香川はんは物知りでしたけどもね、年齢から偽りはってんで、何処までが本当で、何処までが思い込みなのか判らんかった」と聞いている)。

 また、10年近く仕えてきて、一本立ちの意味を込めて、あえて独立したのかもしれない。

 もっとも、破門という立場ではなかったので、捨丸との関係は普通に良好だった。戦後の三曲萬歳や古典万歳では師匠を相手に鼓の太夫を演じたり、「忠臣蔵三段目」では師匠の鷺坂伴内を相手に勘平を演じるなど、捨丸の高弟として、上手く立ち回っている。

浮世亭夢丸、売り出す

 独立後は「浮世亭夢丸一座」を立ち上げて全国を巡業。当時浪曲の人気が高く、それに乗じる形で、浪曲漫才を展開。なかなかの人気を博して居たという。

 また、浮世亭歌楽が『上方芸能』(43号)で語ったところによると、「兄の一座は、喜劇が一幕あってあとに何組かの漫才が出るという式でしたので」と語っている。当時勃興した喜劇と組み合わせるあたり、なかなかハイカラなものである。

 独立後は、宮崎八十八主宰の芸人団体「大八会」に参加。この頃、喜劇から流れてきた花菱アチャコとコンビを組んでいる。

『大衆芸能資料集成』掲載の『大正十年十一月調べ 関西各派寄席芸人人名簿』をみると、「萬才 夢丸・アチャコ」とあるのが確認できる。

 アチャコとは短期間の漫才コンビであったが、アチャコが吉本に入社するきっかけを作ったのだから、決して小さな存在ではない。

 当時の漫才は、夢丸が活動弁士に扮して、得意の美声と話術で映画説明や浪曲を語ると、アチャコがその文句に合わせて、ドタバタと暴れまわるアクション性の強いネタが目玉であったという。

 この夢丸と漫才をやっている時に、アチャコの先天的な面白さに目をつけたのが林正之助で、夢丸と別れたアチャコを吉本に引き込む事となる。

 1923年頃、アチャコとコンビを解消し、平和ニコニコとコンビを結成。『上方落語史料集成』掲載の『日本興行新聞』(1923年7月14日号)を見ると、

◇千日前播重 関西唯一の色物席として連夜五時より浪花落語大八会の幹部連が雁首を並べるの大車輪振、十一日より出番替りとあつて五時よりパチ〳〵張扇をたゝいて人気者の玉輔がお客を呼んでいる。ニコニコと夢丸、相変らず頭の張合で客を喜ばすと、次はジゴマ式の様な眼玉の男、これは曲芸の時三郎、此の先生、球の使ひ分けも器用なもの。

 とある。アチャコと別れてからは、昔ながらの漫才に戻った模様。

 この後間もなく大八会が分裂したため、吉本興業に入るものの、すぐに離脱している。事情は不明。

 1925年11月8日、開局して間もないJOBK(大阪放送)から『萬歳』を放映。これは砂川捨丸に並ぶ速さである。相方は浮世亭喜鶴なる人物。

 この頃より、東京へも参上するようになり、主に浅草の安来節小屋に出演。当地でも相応の人気があった模様。

 1927年5月1日より、浅草帝京座に出演。『都新聞』(4月29日号)に、

▼帝京座 一日より安来節、小原節、諸藝大會全部新顔となし関西萬歳八木日出夫、加藤瀧子、セメンダル、浮世亭夢丸、露國女優ルアフ等加入

 1927年12月、大阪弁天座で行われた「全国萬歳座長大会」に出演。

荒川芳丸・芳春 芦乃家雁玉・林田十郎、都家文雄・静代 
玉子家弥太丸・浅田家日左丸 浮世亭夢丸・ 柳家雪江 荒川光月・藤男 
浮世亭出羽助・河内家一春 日本チャップリン・梅乃家ウグイス
松鶴家団之助・浪花家市松 玉子家志乃武・山崎次郎 

砂川捨市・曾我廼家嘉市 河内家文春・玉子家政夫 松葉家奴・荒川歌江 
河内家芳春・二蝶 若松家正右衛門・小正 荒川芳若・芳勝 
砂川菊丸・照子 宮川セメンダル・小松月 花房秋峰・出雲金蝶 
桂金之助・花次 河内家瓢箪・平和ニコニコ

 『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』には「退席萬歳連」として「浮世亭夢丸」とある。結局、吉本とは合わずに師匠同様の別行動が多かった。

 この頃、「大和家こたつ」なる人物と組む。女性だったという。芸名の由来は、戦前まで使われた簡易こたつの「大和炬燵」。ずんぐりむっくりした女性だったからこういう名前になったらしい。

 1928年7月には、東西萬歳大会に出席。東京の人気者と共に一枚看板で出演した。以下は『都新聞』(6月30日号)の記載。

▲市村座 一日よりの萬歳親交記念大會に出演する関東関西の顔ぶれは 
 直之助、朝日、かほる、春雄、保子、六郎、源六、清、啓之助、玉春、清子、染團治、芳春、芳丸、源一、友衛、小芳、染若、初江、日出男、静子、文雄、駒千代、喜代駒、金之助、セメンダル、秀千代、秀夫、花輔、デブ、清丸、玉奴、豊丸、小一郎、愛子、金吾、力春、力松、小徳、春夫、芳郎、千代治、愛子、秀丸、茶目鶴、仲路、こたつ、夢丸 

 1929年頃、ニワカの衰退でくすぶっていた弟の治作に声をかけ、漫才転向を勧める。治作は夢丸の斡旋で、捨丸の門下という形となり、夢丸の弟という事で、「浮世亭歌楽」と名乗った。

 夢丸、捨丸の威光もあってか、歌楽は初めから真打待遇で、非常に先行きの良いスタートを切ったという。『上方芸能』(43号)で行われた歌楽のインタビュー『大正も今は遠く』の中で、

 そうこうしていると、私の兄で漫才をやっていた浮世亭夢丸が、浮世亭の家元でもありましたので、いつまでもそんなことをしているくらいなら、漫才をやったらどうやということになったわけです。兄の一座は、喜劇が一幕あってあとに何組かの漫才が出るという式でしたので、初めのうちは喜劇にだけ出ていたのですが、劇場主なども喜劇だけではもったいないと言うので、いつの間にか漫才もやるようになったわけです。
 ですから、漫才では見習いとか三番叟というものは一日もすることなく、最初から真打格の扱いをしてもらいました。若い頃に仁輪加の世界に飛び込み、更に旅廻りなどを重ねながらの修業が、こゝにきて初めて役に立ったのです。鳴り物や踊りを習い、軽口をやり芝居の型を覚えていたので、いわゆるズブの素人からの漫才とは調子ひとつにしても、どこか違うところがあったんです。

 と、述べている。実際、漫才デビューを果たした歌楽は兄以上の活躍をする事となる。

上方漫才の大御所分

 弟の歌楽、弟子の出羽助や夢路は早くから吉本入りして、人気を博して居たにもかかわらず、当人は漫才ブームになっても吉本に入らず、気楽な旅や公演を続けていた。こうした鷹揚たる態度が、良くも悪くも夢丸の人柄の良さであり、またイマイチの人気の裏表であったようである。

 1932年頃、ツルレコードより『おらが女房』、『万才屋の洋行』を吹き込み。『おらが女房』は、『大衆芸能資料集成』で読む事が出来る。

 1934年夏、江戸家猫八一行に加入して、朝鮮半島を巡業。『京城日報』(6月9日号)に、

 本町五丁目朝日座/六月二日より八日間階上全部三十銭次第早い勝/猫遊軒猫八 江戸家猫八 合同大競演会/浮世亭夢丸 吉田家加入特別出演/明六日より全部プロ取替御覧ニ入レマス 拳闘萬歳日本コンクリン特別出演

 とある。

 1935年頃、吉本に帰参して花月系の劇場に出るようになる。この頃には、「登美栄」なる女性と組んでいた模様。『上方落語史料集成』の4月中席案内に、

△福島花月 蘭丸・照子、五郎、紋十郎、三好・末子、馬生、五九童・蝶子、小円馬、夢丸・登美栄、円枝、登吉・花奴、市丸・捨奴、蔵之助、文治郎他。

 とあるのが確認できる。しかし、出戻り帰参の哀しさか、あるいは当人の気質か、弟子たちの活躍や一流劇場への進出とは裏腹に、率先して大劇場や公演には出なかった。

 1935年9月、愛弟子の浮世亭夢路が死去。『ヨシモト』(1935年10月号)に掲載された『浮世亭夢路を偲ぶ座談会』に出席し、故人を偲んだ。

 1935年頃、ルモンドレコードより「世界漫遊」を吹き込み。

 1938年頃より、吉本の売れ筋として徐々に浮上し、北新地花月や南地花月などにも出演。花月劇場にもよく出演した。

 相方も転々としたが、結局大和家こたつとのコンビに収まっている。この頃にはもうすでに大幹部格だった模様。

 1940年9月13日、戦時協力のために吉本興業内で作られた「演芸自粛同志会」の役員に就任。第3位当選だったというのだから、その人望の良さがうかがえる。同月15日の『大阪時事新報』に、

  吉本の芸人委員決まる
 吉本の漫才師百余名によつて結成した「演芸自粛同志会」の委員は各自の投票によつて決定することになり、何れも清き一票を投じたが、十三日開票の結果左の二十名の委員が決定、十五日総会を開くこととなつた。

 横山エンタツ、芦の家雁玉、浮世亭夢丸、高田久子、花月亭九里丸、林田十郎、林田五郎、三遊亭柳枝、松鶴家千代八、浮世亭歌楽、都家文雄、竹本小糸、花菱アチヤコ、桂三木助、柳家雪江、秋山右楽、砂川菊丸、一輪亭花蝶、浪花家市松、千歳家今男(当選順)

 1941年夏、大和家こたつとコンビを解消して、小唄志津子とコンビを結成する。

 1942年夏、「洋子」なる女性芸人とコンビを結成。すぐに別れて、今度は相方を失った実の弟、浮世亭歌楽とコンビを組む事となる。

 このコンビで戦時下を渡り歩いたが、太平洋戦争の激化で寄席が閉鎖され、職場もなくなったために自然解散。

 再び「浮世亭夢丸一座」を結成し、戦前戦後地方巡業をしてたくましく生き延びた。

 浪曲が得意で芸達者な事もあってか、結構人気はあったそうで、『上方芸能』(34号)掲載の志摩八郎『漫才は生きている』で、

「また気の合った者どうしは一座を組んで地方巡業に出かけた。筆頭は砂川捨丸一行で、浮世亭夢丸一行、柳枝劇団、雁玉十郎、歌楽さんのコロッケ座、市川福治一座……」

 と、二番目にその名を挙げている(年功序列なだけかもしれないが)。

 また、師匠の捨丸が引退を漏らした際には、花月亭九里丸と共に相談に乗り、弟子の菊丸に「二代目捨丸」を譲る約束をするなど、捨丸の高弟としても奮闘した。もっともこれは捨丸の復活により、菊丸はひどい目に遭わされるのだが。

戦後の復活と吾妻ひな子とのコンビ

 戎橋松竹の開場にも一枚噛み、早くから幹部として舞台に出る事となった。この頃は未だ小唄志津江と組んでいた。

 1949年、関西演芸協会の設立に携わり、理事に就任。以来、理事や副会長として要職に就いた。発足当時の名簿が早稲田演劇博物館に残っていたので記載。

 会員名簿(順不同)
 落 語
笑福亭松鶴(※五代目)、桂春團治(※二代目)、立花家花橘、桂米團治、桂文枝(※四代目)、橘ノ圓都、文の家かしく(※福松)、桂文我(※五代目文吾)、笑福亭光鶴(※六代目松鶴)、桂あやめ(※五代目文枝)、桂小春(※三代目春團治)、桂米朝、桂米之助 

 漫 才
林田十郎・芦の家雁玉 浅田家寿郎・浮世亭歌楽 小唄紗江美・林田五郎 小唄志津江・浮世亭夢丸(※原文では歌楽と誤植) 平和ニコニコ・喜音家花楽 鹿島洋々・富士正二郎 橘家太郎・菊春 浪花家芳子・市松 一輪亭花蝶・荒川勝美 轟美代子・一蝶 松葉家喜久奴・奴 堀江柳子・島八郎 都家静代・文雄

奇 術 一陽齋都一 曲 技 森幸児 曲独楽 但馬源水

 1951年頃、吾妻ひな子とコンビを結成。ぼんやりとした夢丸と、美貌のひな子の対比が兎に角おかしかったそうで、大看板にのし上がった。

 吾妻ひな子『吾妻ひな子一代記』(『落語』1980年2月号)によると、夢丸は兎に角優しい、いい人であったという。一方で、当時全盛を極めていた歌楽と夢若にいじめられ、ひどい目に遭わされたという。

 夢丸さんは、とてもやさしい人で、とくに家元だけにまわりの芸人さんが大事にしてくれましたが、実弟の浮世亭歌楽さん、夢丸さんの弟子浮世亭夢若さんには、なにかと口うるさくつらい思いをしました。  
 とくに夢丸さんの弟子夢若さんは、光晴夢若コンビで、どれだけ人気があったか、言葉や文字であらわせないほどの人気と勢いがありました。 夢若さんは、大変な社交家、おしゃれ、たくみな話術、大阪の漫才界は浮世亭でなければ夜も日も明けぬ、天下の浮世亭にのし上っていました。直系浮世亭は、勢力をほしいままにしていましたが、松鶴家光晴、吾妻ひな子などは、ただ相方をつとめさせてもらっているにすぎなく、おとなしいもんでした。
「浮世亭なくば漫才師に非ず」昔、平清盛っていばったのがいたけど、漫才界の清盛が浮世亭夢若でした。実際、光晴・夢若は名コンビでした。イキのええ漫才やった。アチャコ・エシタツ、一郎・ワカナ、日佐丸・ラッパには少し落ちるけど、戦後の名コンビには間違いありません。アチャコ・エンタツ、一郎・ワカナは全国的やけど、 光晴・夢若は関西だけですもんね。  
 戎橋松竹は、戦後たった一つの寄席劇場です。この寄席に出演するには、実力はもちろんのこと、浮世亭一家の気に入らないと一切出演できまへん。いかに浮世亭一家の力があったかわかりまっしゃろ?  浮世亭一門の楽屋もあったほどで、後に、お風呂までできました。当時NHK(BK)で「上方演芸会」が故秋田実先生のキモ入りで、芦乃家雁玉・林田十郎の名コンビ、名司会の人気番組がありました。全国放送というので、よほど芸(話芸)が達者でないと、出演できませんでした。
 人気者で話術達者な夢若光晴コンビは、たえず出演していました。浪花家市松・芳子、東五九童・蝶子さんらも、浮世亭と並ぶ勢いで「上方演芸会」 戎橋松竹に出演していました。  
 浮世亭の家元である夢丸さんは、とてもおだやかでやさしい人でしたけど、実弟の歌楽さんそれに夢丸さんの一番弟子、夢若さんは大変やり手の甲斐性者、社交家でしたから、外様であるうちと、光晴さんは、居づらい時もありました。 

 浮世亭一門の楽屋風呂があったというのがすごい。もっともこういうわがままを通したのは夢丸でなし、歌楽や夢若の事だろう。

 吾妻ひな子とのコンビは評判高く、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中でも、

上 岡 浮世亭夢丸吾妻ひな子というコンビ……。
米 朝 吾妻ひな子さんは浅田家でな、浅田家小日奈というてたらしいね。 古い人は皆、「小日奈ちゃん、小日奈ちゃん」というていた。
上 岡 あの人は晩年は「おんな放談」と称してひとりで座った漫談の高座で、三味線を弾きそうで弾かという、最後にのんき節にのせて、
はは、のんきだねェ……とうたう、あれも面白かったンですが、ぼくは漫才のツッコミが好きでしたね。
米 朝 ボォーッとした軽いイキでね。 松鶴家光晴さんと組んだンはやっぱりアカンかった。光晴さんという人はポンポンときてもらわなアカン人やさかいね。 夢丸さんの時にはボンヤリとした味でね、面白かった。
上 岡 香川登枝緒先生はひな子師匠のことを 「甘えたボケ」というてはりました。
米 朝 まァ、そうやろうな。甘えたみたいなあの口調でね、でも年をとっても派手な若い格好がよう似合うたわ。一ぺん、定期券の年齢があまりにも若いンでね、「これは何か証明するものは」といわれた。劇場はええ加減にそんなもンは渡すからね。「ホンマは四十幾つや」「そしたら、あんたいけませんやないか」「そうしたら、四十幾つやというたらあんた信用しますか」というたら、「しませんわな」(笑)。「そやからこの年齢にしてまいねん」。それで通したらしい。 夢丸さんというのは捨丸さんの一番弟子ということになっている。浮世亭歌楽さんの兄貴なんや。で、まァ浮世亭の家元やねんけどね、浮世亭夢丸というのは節まねの名前なんや。
上 岡 そんなンありますの。
米 朝 浮世亭雲心坊というのも浮世亭やった。 この人はひとりで興行を成り立たしてました。
上 岡 光晴・夢若の浮世亭夢若さんもその系統になるンですよね。
米 朝 あれは弟子やねん。 浮世亭夢丸というのは”夢は浮世か浮世は夢か”というあれから取った。考えてみたらこれはなかなかイキな名前やね。 この人はやっぱり浪花節、節まねはうまかったですよ。 小唄志津子さん、最晩年に、馬漫才のもろ多玉枝・広多成三郎の玉枝さんが死んでから、牛漫才になって、 広多シズエの芸名で舞台に立っとったあの人が三味線を弾いてね、 吉田奈良丸の「東下り』 かなんかを節まねでやるというてね、そしたら三味線が、チャチャラチャチャンチャラ、チャチャチャチャチャン、チャ「ちょっとうたう間あらへん。そう、ペンペンペンペンやられたらやられヘンがな。浪花節というものは、間を拾うだけでええやさかいなァ」。〽かわる密書は旅のォ〜友ォよ~、チャーン、チャン…、「そうそう、そうやったらやってられンねん」。そしたらそれが妙に間を外す。(チャン、チャ……節が出られヘンねん。それをムりしてな、〽ここは夢路か夢の間か….、〽チャーン、チャン… もうそれだけでお客はワーワー受けてるけどな。

 と、長く割かれて紹介されている。

 1953年2月、戎橋松竹で行われた「砂川捨丸芸能生活50周年」の公演に出演。師匠と中村春代、都家文雄、弟子の夢若と共に口上に列席し、祝言を述べた。

ひな子とのコンビ解消と復活

 この頃、吾妻ひな子のわがままに愛想をつかし、更にひな子が「コンビ解消したい」と申し出た所からコンビを解消。当のひな子は『吾妻ひな子一代記』(『落語』1980年2月号)の中で、

 ところがうちは、生れつきのわがままやから、同じネタのくり返す漫才に、少しイヤ気がさしてきたんです。
 夢丸さんは大変やさしいええ人なんやけど、 なんとなく、舞台の雰囲気、楽屋のムードが鼻についてきてねエ。もうイヤだと思うたら、なにをするのもイヤになりますねん。漫才は、イキ・マをうまく使い、話術を聞いてもらい、笑ってもらうのですけど、片方いずれかがマをはずしたらもうあきまへん。いやいや舞台をやっているものやから、わざとをはずすことも、しばしばありました。
 これが度重なると、いくらやさしい夢丸さんでも怒らはります。当然ですわ。うちがわざと怒らすようにしてるんやもの。「すんまへん。うち、この間から、ずっと身体の調子がわるいので、舞台がうまいこといきまへんでしたんや。夢丸師匠、うちはしばらく休みたいんです」  
 漫才をやめたら、たちまち失業で困るくせに、うちは漫才をやめてしもたんです。後のことも生活のことも考えんと、ポイとやめてしもたんです。
 コンビ解消しても夢丸さんは浮世亭の家元。勢いのある夢若・歌楽さんがついてはるから心配いりまへん。うちは父と娘をかかえて、明日からルンペンや。でも、自分のわがままからこうなるんやから、うちも泣き言が他人に言えまへん。

 と自らの気性を暴露した上で、夢丸へ懺悔している。

 ひな子とのコンビ解消後、守住田鶴子とコンビを結成。とにかく口達者な田鶴子が、モッチャリしゃべる夢丸を一方的にやっつける女流優位漫才であったという。澤田隆治氏に聞いた話では「歌楽サザエはもっちゃりとゆったり喋るのに対し、夢丸田鶴子の対比の凄さたるや、あれはあれで結構面白かったですわ」。

 1954年12月9日、NHK「浪花演芸会」に出演。共演は喜音家花楽・平和 ニコニコと落語の笑福亭枝鶴(六代目松鶴)。

 1955年4月27日、NHK『上方演芸』に出演。共演は桂福団治(三代目春団治)。

 1955年6月16日、NHK『浪花演芸会』 に出演。共演は、木村郁夫・松原勝美、砂川捨丸・春代。

 この頃、千土地興行の斡旋で、吾妻ひな子とコンビを再結成。『吾妻ひな子一代記』(『落語』1980年5月号)の中に、

 浅田家の主、浅田家寿郎さんが田鶴子さんとコンビを一度別れた浮世亭夢丸さんと吾妻ひな子と再びコンビを……と千土地興行から言われてうちはまた、夢丸さんとコンビを組みました。丸二年間夢丸さんと話もしていなかったのですが、いざ舞台に上るとネタが少しも変っていないので、スラスラ喋ることができました。  
 民間ラジオ放送の開局も始まっていましたから、演芸界も活気でムンムンしており「吾妻ひな子の漫談も悪くない」と、朝日放送からうちだけの番組、現在のDJみたいな番組もできたくらいでした。 他人コンビで片方だけ売れるというのも、売れている方はいいけど売れていない方は気の悪いものです。うちは一人で漫談の仕事が入った時は、出演料の半分は夢丸さんに手渡していました。そうしないと夢丸さんに悪いもの。

 1955年8月25日、NHK『浪花演芸会』 に出演。共演は秋田Aスケ・秋田Bスケ、轟一蝶・轟美代子。

 ひな子とのコンビを復活させた前後で、師匠の捨丸や相方のひな子と共に、勝忠男経営の「新生プロ」に移籍。この「新生プロ」は「松竹新演芸」、「松竹芸能」へと繋がる事となる。

 1957年1月の『放送朝日』の特集「ブームを迎えた上方漫才」の中で、「第一線48組」の一人に選ばれている(今を時めく人気者30組と時折浮上してくる準人気者20組という奥歯に物が挟まったような言い方をされているが)。

 1957年3月7日、NHK『浪花演芸会』に出演。共演は五條家菊二・松枝、都家文雄・守住田鶴子。元相方が出るのはどんな気持ちだろうか。

 1957年7月4日、NHK『浪花演芸会』。共演は、松鶴家光晴・浮世亭夢若、芦乃家雁玉・林田十郎。

 コンビを組み直して、3年ほどして、漫談でも自信をつけた吾妻ひな子は独立を考えるようになる。夢丸とのコンビのやりやすさや、夢丸の優しさに感謝しつつも、『吾妻ひな子一代記』(『落語』1980年5月号)で、

 再コンビを組んだものの、ネダは少しも変らないし進歩しない、将来楽しみもない、ネタの内容にリアルさがない。昔のまんまのネタでNHKや民放が、ずっと、夢丸・ひな子のコンビを使ってくれるだろうか……終戦後世間、時代がコロッと変ってしもたのに、うちらは古い古いネタ形の漫才コンビや。 このままではアカン。夢丸さんに誰か相方をさがして、うちは独りでなんとかやっていかんと父や娘がいつまでたっても、安心した生活ができない。うちがしっかりせんといかん。

「古い形の漫才」「進歩がない」と夢丸の弱点を指摘している。これも吾妻ひな子の率直さでなければ言えないコメントであろう。

 もっとも、その固定的なネタの背景には、老いや浪曲がウケるという一面性を持っていたようである。

 それでも、砂川捨丸の威光に、歌楽、夢若などの全盛もあって、出番や仕事にそこまで困る事はなかった。ある意味では人徳だろう。

ひな子とのコンビ解消後

 吾妻ひな子とのコンビ解消後は、吾妻ひな子の紹介で知り合った美波なをみとコンビ結成。歳の差コンビで話題になったが、夢丸当人は相変わらず浪曲漫才で鳴らしていた。吾妻ひな子は、夢丸に美波なをみを斡旋した事情を、『吾妻ひな子一代記』(『落語』1980年5月号)の中で、

梅田の歌声喫茶の司会をやっていた「なをみさん」とのなをみさんは、若くて可愛らしくて声もいいし、以前から(子供の頃から)漫才をやっていたし、夢丸さんの相方には丁度いい。うちは梅田の歌声喫茶へ行き、なをみさんにあいました。
「なをみちゃん。うちを助けると思うて夢丸さんとコンビを組んでくれへんか。お願い……頼むわ。あんたかて、漫才やりたいやろ。こんな喫茶店で司会してても仕様ないやろ……」 「ひなちゃんがそない頼むのやったら、仕方ないなァ。うちは漫才が好きやし夢丸さんと組めるやなんて……」
 結局、夢丸・なをみコンビを実現させるため、千土地興行の人と夢丸さんに話したのです。夢丸さんも心よくなをみさんを相方にしてくれはったんです。うちは、生れつきのわがままな人間です。独りで舞台をつとめる方が相方にめいわくをかけずにすみますからねぇ。再びコンビを組んで三年で解消。

 夢丸は独立とコンビ解消を受け入れたものの、弟の歌楽は兄貴をわがままで振り回すひな子を許せず、楽屋に呼びつけて「浮世亭の威光を知っているんか」と脅したそうである。

 1960年、芦の家雁玉の死去に伴う、「関西演芸協会」の改選で、理事と共に「成田奉賛会長」に就任。成田山不動尊にある「笑魂塚」の管理をする。

 1962年、有明和子とコンビを結成。

 1962年11月、師匠の捨丸が、「舞台生活六十年記念公演」として角座と浪花座で「御殿萬歳」を披露。華井八千代、中村春代、海原小浜と共に才蔵として、舞台に立った。

 1965年春、天光軒満月嬢こと「五味満里子」とコンビを結成。

 1965年9月、砂川捨丸が角座で「三曲萬歳」を復活。中村春代のおかる、捨丸の伴内を廻して、主役の早野勘平を熱演、春代の美貌、捨丸の道化振りも合わさって、やんやの大喝采であったという。

 1966年、関西演芸協会の人事改正に伴い、東五九童と共に副会長に就任。会長は都家文雄。

 1960年代後半まで角座、浪花座、新花月に出ていたが、この頃一回病気に倒れたらしい。後年のビデオを見ると、ちょっとだけ詰まったような口跡をしている。それでも人並みには話せているのだが。

その最晩年

 以降は、三曲萬歳や古典万歳などの復活の企画で舞台に出るのにとどまった。しかし、そういった芸が既に珍しく、また小沢昭一や永六輔、桂米朝などの再評価などもあって、カラーテレビに出演し、その映像が残ったのは幸せな事だったのかもしれない。

 晩年、そうした隠居的な態度や立ち位置から、漫才作家・足立克己は「薬にも毒にもならん人」「集金やらなんやらばかリしていた人」と貶しているが、生前の澤田隆治氏などに伺った話では「芸の良し悪しは兎も角、いるだけでおさまりがついた人」と評価していた。

 当時の楽屋では、弟の歌楽が何かとやかまし屋で人気もあるだけにトラブルメーカー、それを兄貴の夢丸が自身のキャリアと人徳で、「まあまあ」と丸く収める所から、「曾我兄弟」とか何とか云われていた――という噂も聞いた。なるほどうまい見立てである。荒事で暴れん坊な弟・五郎、おっとりとして気弱な兄・十郎を即したもの。

 そういう意味では、裏方的な側面でよく漫才界を支えたといえるだろう。

 1971年9月13日、YTVサロン『こんな漫才もあった』の『三曲万歳』に出演。他の出演者は、  

 鼓   浮世亭夢丸 河内文春
 三味線 松鶴家千代八 尾乃道子 桜山梅夫
 胡弓  浮世亭出羽助
 太鼓  桜川末子 桜津多子

 1971年10月12日、師匠の捨丸死去。弟子入りしてから、約60年近い時が経とうとしていた。

 1975年3月22日、『第38回和朗亭』の「砂川捨丸三回忌」に出演。吾妻ひな子とのコンビを一夜限りで復活させ、評判となった。以下はその出演者。

砂川菊丸・照代『古典漫才』
上方柳次・柳太『漫才』
ハワイ伸『浪曲ショー』
浮世亭夢丸・ひな子『神埼東下り』

 同月7月12日、「第53回和朗亭」の「あいならえ」に出演。着流しの略式姿の三曲萬歳であったが、夢丸が勘平、団之助が鷺坂伴内に扮して楽しそうに演じて居る。

夢丸、出羽助、団之助、恵一、貞子、まこと『三曲萬歳・あいならえ』
安藤孝子『茶音頭』
米朝『替り目』

 この上の2作は、ワッハ上方に保存されていて見る事が出来る。少し声が詰まり、声に張りがなくなっているが、それでも美声は衰えていない。

 1975年8月19日、郵便貯金会館で行われた「三曲萬歳」に出演。共演は、(鼓)松鶴家団之助、華井八千代、(胡弓)浮世亭出羽助、(三味線)本田貞子、小松まこと、花柳かつこ、華井秀子(太鼓)本田恵一。

 この公演の裏表は辻脇保夫『てんのじ村の芸人さん』に出ている。

 1976年11月、弟の歌楽に頼まれて、虎の門ホールで行われる「にわか公演」の「三方笑」の与市兵衛で出演する予定であった。

 しかし、80歳の老齢故に、にわか芝居を本格的にやっていないだけに、共演の歌楽、一輪亭花咲とはバランスが取れず、遂には辞退。にわか出身の松鶴家団之助がその穴埋めをして、なんとか公演を成功させた。(『上方芸能49号』の『芸人の夕まぐれ』

 余談であるが、花咲と歌楽を結びつけたのは夢丸であった。花咲と夢丸は、修業時代の友人。歌楽と夢丸は兄弟。しかし、歌楽と花咲はにわか出身であるにもかかわらず、一面識がなかった。

 花咲の「にわか」再演の夢を聞いて、弟の歌楽を紹介。二人とも存在を知りながらも面識がない事に驚き、呆れ、笑ったという。以来、花咲と歌楽はよい仲間となり、国立劇場や和朗亭の「にわか」で、華を咲かせるのである。

 歌楽の「三方笑」出演予定から間もなく、老齢と病気のために舞台へ上がれなくなり、事実上の引退となった。

 1978年4月3日午後1時15分、脳溢血のために住之江区南粉浜の松下病院で死去。享年82歳。当時、漫才界の最長老であった。

 4月4日、娘婿の真鍋太が喪主となって、自宅で葬儀が催された。晩年は良き娘夫妻に恵まれて、静かな日々であった――と聞く。

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