ジョージ多田

ジョージ多田

 人 物

 ジョージ 多田ただ
 ・本 名 多田 博雄
 ・生没年 1925年7月21日~2008年6月10日
 ・出身地 大阪市

 来 歴

 ジョージ多田は戦後~平成に活躍した奇術師。本格的な奇術を武器に吉本系の寄席で活躍した。漫才師や色物関係者とも仲がよく、晩年まで活躍を続けた。現在も関西で活躍を続けるMr.マサヒロの父としても知られる。

 経歴は息子さんのMr.マサヒロさんに伺った。以下のような返答があった。

ジョージ多田
本名多田博雄
大正14年生まれ
大阪市中央区生まれ
実家は裕福でお手伝いさんいる会社経営の長男で生まれる。
第二次世界大戦に徴兵されたが出撃前に乗るはずの船が故障修理にドック入り命拾ったと
無線技士に配属されたがラジオ修理、バラシて元に戻すのが下手でよく壊してた。

 実家が裕福だったこともあり、青年時代より奇術に没頭。

 当時、寄席奇術の第一人者であった二代目一陽斎正一のもとに出入りし、芸を学んだ。『笑根系図』にも――「二代目正一に手ほどきを受く ジョージ多田」とある。

 当人も『日本演芸家名鑑』のプロフィールで――

(ぷろふぃーる)
●2代目一陽斉正一師に手ほどきをうける
●昭和23年 芸能界入り
●〃30年代のNHK、民放のテレビで活躍
●〃40年 リンダ藤本とコンビを組み、関西の奇術界をリードする
●昭和50年 リンダの都合でコンビ解消

と記している。正一はスライドハンドマジックの名手だったそうで、多田もそうした西洋奇術の系譜を受け継いだという。

 またこの頃より一陽斎蝶一と面識を得、晩年まで仲良くしていた。

 太平洋戦争中出征。上の通り、苦しい兵隊時代を送った。

 出征中の1945年3月13日、師匠であった二代目正一が戦死(ただし陸軍病院で亡くなっている)。

 復員後は家業手伝いなどをしていたらしいが、ちょぼちょぼと奇術を演じ始めるようになった。

 1948年、大魔術と称した派手な奇術一座で人気を集めていた保田春雄一座に入り、保田を師事する形でプロデビューを果たした。「ジョージ多田」の芸名で活躍するようになる。

 1950年代に独立し、師匠譲りの大魔術、大掛かりな奇術を得意とした。何かと奇術不振の関西において、貴重な一枚看板として大劇場やマスコミの出演も多かった。

 1954年10月15日、NHK「お好み風流亭」に出演。共演は山名偉三郎とあひる艦隊。

 1958年1月22日、NHK「テレビ木馬館」の「マジック・ショー」に出演。師匠の保田春雄とともに大魔術を演じた。

 関西の演芸ブームの中においては早くから吉本興業に所属。吉本が演芸界へと復帰する際の貴重な戦力となった。

 1960年12月12日、NHK「お好み風流亭」に出演。共演は漫才の上方柳次・柳太。 

 1963年4月13日、息子の多田政弘が誕生。この子がMr.マサヒロその人である。

 1967年9月9日、NHK「土曜昼席」に出演。リンダ藤本とともに奇術を披露。

 この頃は劇場だけでなく、キャバレーや余興などでも派手に稼いでいたそうで、当時の雑誌や新聞に広告を打つほどであった。その広告を見ると「大魔術」のほかに、一陽斎譲りの金魚釣りや手妻を演じている様子がうかがえる。

 1975年、リンダとコンビを解消。

 コンビを解消した前後からターバンを巻いて高座に上がるようになった。息子曰く「頭がハゲかかっていて、それを隠すため」だったとのこと。しかも、高いカツラも買ってハゲを隠していた。

 また、旧友の一陽斎蝶一を吉本に誘い、本格的にデビューを遂げさせたのもこの頃である。なお、蝶一入社後しばらくしてジョージ多田は先に退社している(リンダ藤本と息子が残留)。

 1977年2月25日、NHK「ひるのプレゼント」に出演。共演は上方柳次・柳太。鶴沢寛八。

 1980年代に入るとフリーとなり、余興やキャバレー、演芸会などで独自の活躍を続けていた。また、マジシャンの世界に飛び込んだ息子の面倒を妻とともに見るなど、よき師匠としても知られた。

 この人もまた蝶一に劣らぬ失敗談の多い人で、息子のマサヒロさん曰く――

ギロチンは客いない時はアシスタントに使ってたマジシャンにさしたり、
鳴らないピストル
自分の声でパーンパーンと声出したり!
鳩出しでよく鳩失敗して死なせたり、また地方公演の間に飼ってた鳩、母親が朝鳴き声うるさいと逃がし!
大阪城の鳩で白い鳩とドバトのハーフ鳩はジョージ多田師匠の逃がした鳩の末裔とよく言うてました

 これは古くからの知人であった桂米朝たちも認めるところであり、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中で――

上岡 ぼくらの時代ですとジョージ多田さんという方が。
こいし 今は息子がやっている。それでいろんな話を聞いてな、あの客席から一人を舞台へ上げて、ギロチンをやる手品をな、客一人しかおれへんのにやった。誰に見せんねん(笑)。
いとし お客さんが一人しかいないのにね。
一同(笑)。
米朝 あのジョージと私ら(米朝、いとし)は同じ年や。
上岡 多田ちゃんは面白い人でね、 ぼくら余興へ行ったら、あの人はトランプが好きで、そやけど奇術のクセにカードを切るのが下手でね。そんなんで遊んでばかりしているから手品の道具の手入れをしませんねん。あの舞台へ出て行っていきなり、ステッキをトンと床へ突き刺したらパッと花が咲く手品がありますやろ。あれが、手入れせんもンやから先が丸ゥなっている。田舎の舞台やから下が堅いから、トンと刺したらボンと跳ね返す(笑)。それで最後に思いっきりポォンと突き刺して、花を咲かしたンやけど、ハーハーハーと息が荒い(笑)。肩で息して花を咲かしてもね、見事でも何でもない。もっと粋にやらんとイカン(笑)。
いとし テレビの初期の時代にジョージ多田さんがテーブルのうえで隠しの屏風を立てて手品を仕込んでいたら、テレビのカメラがうしろへ廻って撮ったから全部見えてしもた(笑)。
一同 (笑)。
こいし やっぱりジョージ君がな、ピストルの失敗がようあって、鳴らんもンやから口で、パァ――ンというた(笑)。それからさっきの札を燃やす手品やないけど、高野山で、客から時計を借りてな、その時計を移動する手品をやろうと思っていたら、時計を誰かにそのままもって行かれてな、つまり盗まれたンや。これはさっきの「完全に燃えました」では済まんわ。弁償や。あとでボヤいてたわ。「仏さんのところで悪いことするやつがおんなあ」というてな、よく失敗のあるお方や。

 と、散々に茶化されている。それでも相応の実力があったこと、人徳はあったそうで、その多くは愛嬌になった。

 最晩年はハゲと老いを隠すためにピエロ姿で高座に上がっていた――とマサヒロさんの弁。

 2004年7月4日~8日、国立文楽劇場小ホールで行われた「第12回上方演芸特選会」が最後の寄席出演だった模様。出演者は以下の通り。

▽玉すだれ 大塚珠代
▽浪曲 京山宗若
▽マジック ジョージ多田
▽落語 林家小染
▽浪曲 京山幸枝栄
▽漫才 和光亭幸助・福助
▽落語 露の五郎

 80歳まで活躍していたが、間もなく老齢のために第一線を退いた。

 その後は息子や娘の世話を受けながら、入退院を繰り返した。入院先でも平気でカツラを持ち込み、見舞が来ると「ちょいと待ってや」とカツラをかぶって出迎えた――などという伝説もある。

 最期は徐々に衰弱を始めるようになり、入院。一進一退を繰り返していたが、ぽっくりと亡くなった。臨終は夜中1時過ぎであったそうである。

 その前日まで普通に元気だったそうで、家族たちの前で談笑した後、「疲れたから帰れ」と言い放つ始末であった。本当の急逝だったといえよう。

 息子のマサヒロさんが第一に駆け付けると「親父の亡骸にカツラがきちんとかぶされていて、看護師さんがきれいにしていた」そうだが、「よく見ると昨日自分が着てきたジャケットを着ていた」とのこと。

 これを脱がすために看護師たちは四苦八苦、「死後硬直始まっとるから組んでいる指を無理やり離した」「ドタバタの末、なんとかジャケットを剥いだらカツラがずれていた」などと最期まで逸話が多い人であった。

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