河内家千代鶴

河内家千代鶴

 人 物

 河内家かわちや 千代鶴ちよつる
 ・本 名 後藤 トク(旧姓・宮脇トク)
 ・生没年 1888年12月21日~1961年
 ・出身地 大阪府

 来  歴

 戦前活躍した漫才師。戦後は河内音頭の河内家の宗家のような形で河内音頭の普及と啓蒙に尽くした。河内家芳春は夫。

 本名と生没年、そして経歴は『上方芸能83号』(1984年1月号)の竹本浩三『遥かなり円辰』に詳しい。これは関係者に取材した円辰研究の最高峰である。

 この連載によると、千代鶴は、大阪池之島の地主・宮脇宗太郎とみよの10人兄妹の三女。宗太郎は地主の資産運用だけで食える大金持ちで、道楽に徹した人物であった。

 若い頃から野山で狩りをしたり、大阪の芝居街で散財するような地方のお大尽であった。また、桶や樽のタガをはめ込む不思議な趣味も持っており、近隣住民の壊れた桶や樽をタダ同然で直す所から、地元では慕われていたという。

 後年は円辰などの音頭取りにも熱を上げるようになり、末娘の3人に音頭を取らせ始めた。本文を引用すると――

三女に「とく」、四女に「さく」、五女に「とめの」などがいて、後年音頭のトリオを組むことになるが、三女のとくは明治二十一年十月に生まれて今年九歳(数え年)になる。

 生年はここから割り出した。河内音頭研究家の村井市郎の教え子から伺った話では、「千代鶴は山崎祭文から着想を得た」そうであるが、詳しい事情は不明。

 一方、村井市郎氏が河内家一門に求められて執筆した顕彰碑「河内家千代鶴顕彰碑」の記載によると「河内家千代鶴事旧名宮脇とく明治21年12月21日当地に生まる。」とある。生年月日はここから採録した(取材協力ありがとうございました)。

 とくの天才的な技芸を噂に聞いた円辰(当時為丸)は、千日前の色物小屋に進出するにあたって、宗太郎と掛け合って彼女と妹二人を門下生という形で引き取った。宗太郎はこの芸能界入りを喜んだが、母親のみよは芸能界入りを嫌がり、生涯円辰と確執が残る羽目になった。

 弟子入りの早さで行けば、荒川浅丸に次ぐ存在であったという。当初は八重春と名乗っていた。

 明治28年、円辰に連れられて大阪千日前(小宝席)で初舞台を踏む。当時、江州音頭が注目されていた事もあって、人気芸人となった。

 竹本浩三の説によると、その美声と美貌は師匠の為丸を食ってしまうほどのものであり、円辰が音頭取りから漫才師へと移行した背景には、この千代鶴の天才的な技芸との人気に圧倒され、「とくに負けるのは自分の芸がまずいから、自分がうまくならなければならない、そして音頭以外にも何かを持たねばならない」と一念発起をしたのも一因にあったそうで、竹本浩三はその辺りの説を論じている。

 その後、円辰は数年来修行の旅に出てしまったが、宮脇三姉妹は依然として千日前の舞台に出演し、高い人気を集めていたという。

 後年、円辰が名古屋万歳を仕込んで帰阪した際に一門に復帰。この前後で「玉子家千代鶴」と改名した模様。玉子家一門の紅一点として活躍していた。

 明治末、大阪葭原の芸人で、師匠・円辰と仲が良かった荒川藤春の弟子・荒川芳春と相思相愛の仲になり、結婚。「後藤トク」と改名した。

 この結婚騒動で、円辰と不仲となり、玉子家の名前を返上して、河内家千代鶴と名乗った。

 この騒動を持田寿一は『大阪お笑い学』(181頁)の中で、

 とくに、玉子家千代鶴が初代荒川芳春と結婚したことに怒り、弟子の浅丸に荒川の屋号をわざわざ名乗らせ、上方萬歳の系譜に困難を生ませた張本人である。千代鶴と芳春はその後、河内家の亭号で音頭活動をおこなっているところから、圓辰のパワーゲームの影が見え隠れしている。

 と、推測しているが、これは些か眉唾といった所である。確かに「笑根系図」の中には「荒川芳丸の弟子と間違えられたので……」とあるが、荒川芳丸の師匠であり、当記事にも出てくる荒川浅丸は「荒川村」の生まれなので荒川と名乗った筈である。出典不明の逸話として、一応置いておく。

 1914年、荒川芳春、西田弥五郎と共にニッポノホンから「三曲萬歳」「江州音頭」「河内音頭」などを吹き込んだ。これが、本格的な演芸としての漫才師が吹き込んだ初の漫才レコードとされている(それ以前に地方芸能としての萬歳や祝福芸の萬歳の吹込みは僅かながら行われたものの)。

 これは今日にも保存され一部は視聴することができる。

 また、ウグイスレコードから「河内音頭・かいつくし」も吹き込んでいる

 1923年、夫・芳春が37歳の若さで夭折。夫亡き後は漫才から一線を退き、江州音頭や河内音頭に移行。ヤンレー節や日下音頭の改良に勤しんだ。

 中河内では相当の勢力があった為か、レコードを数枚残しており、今日でもこれを聞くことができる。

 戦時中、河内音頭や江州音頭の櫓が立てられない、仲間が戦死、罹災死するような苦難に見舞われたが、戦後の復興に伴い、再び櫓や寄席に上がるようになる。

 当時としては長命筋をほこり、60を越しても矍鑠と櫓の上に上がり続けたと聞く。

 晩年は弟子の育成も熱心に行い、河内家一春河内家房春などといった漫才師のみならず、河内家広春、当代の河内家芳春(親戚に当たるはずである)などといった優秀な音頭取りを輩出した。

 最後は、浪速区の稲荷館という寄席に出演。ここでも江州音頭や河内音頭などで鳴らしたそうであるが、間もなく舞台を退いた。

 村井市郎の調査によると、「昭和36年、72歳で死去」。

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