河内家千代鶴

河内家千代鶴

 人 物

 河内家かわちや 千代鶴ちよつる

 ・本 名 後藤 トク
 ・生没年 1888年~1959年
 ・出身地 大阪府

 来  歴

 戦前活躍した漫才師。戦後は河内音頭の河内家の宗家のような形で河内音頭の普及と啓蒙に尽くした。河内家芳春は夫。

 本名と生没年は持田寿一『大阪お笑い学』の『漫才の元祖 玉子家圓辰』の注釈に記されている。これは関係者に取材した話らしいので本当であろう。

『新修・大阪市史』には「ちなみに千代鶴は円辰が万歳を始めたころ地元から連れてきた音頭取の子供で」とあり、幼い頃から素地はあった模様か。河内音頭研究家の村井市郎の教え子から伺った話では、「千代鶴は山崎祭文から着想を得た」そうであるが、詳しい事情は不明。

 玉子家円辰が江州音頭から漫才を創始するにあたってスカウトされるような形で漫才界入り。玉子家一門の紅一点として活躍していたが、同じ音頭取りの荒川芳春と相思相愛の仲になり、結婚。後年、玉子家の名前を返上して、河内家千代鶴と名乗った。

 この騒動を持田寿一は『大阪お笑い学』(181頁)の中で、

 とくに、玉子家千代鶴が初代荒川芳春と結婚したことに怒り、弟子の浅丸に荒川の屋号をわざわざ名乗らせ、上方萬歳の系譜に困難を生ませた張本人である。千代鶴と芳春はその後、河内家の亭号で音頭活動をおこなっているところから、圓辰のパワーゲームの影が見え隠れしている。

 と、推測しているが、これは些か眉唾といった所である。確かに「笑根系図」の中には「荒川芳丸の弟子と間違えられたので……」とあるが、荒川芳丸の師匠であり、当記事にも出てくる荒川浅丸は「荒川村」の生まれなので荒川と名乗った筈である。出典不明の逸話として、一応置いておく。

 1914年、荒川芳春、西田弥五郎と共にニッポノホンから「三曲萬歳」「江州音頭」「河内音頭」などを吹き込んだ。これが、本格的な演芸としての漫才師が吹き込んだ初の漫才レコードとされている(それ以前に地方芸能としての萬歳や祝福芸の萬歳の吹込みは僅かながら行われたものの)。

 これは今日にも保存され一部は視聴することができる。

 1923年、夫・芳春が37歳の若さで夭折。夫亡き後は漫才会から一線を退き、江州音頭や河内音頭に移行。ヤンレー節や日下音頭の改良に勤しんだ。

 中河内では相当の勢力があった為か、レコードを数枚残しており、今日でもこれを聞くことができる。

 戦時中、河内音頭や江州音頭の櫓が立てられない、仲間が戦死、罹災死するような苦難に見舞われたが、戦後の復興に伴い、再び櫓に上がるようになる。

 当時としては長命筋をほこり、60を越しても矍鑠と櫓の上に上がり続けたと聞く。また晩年は弟子の育成も熱心に行い、河内家一春河内家房春などといった漫才師のみならず、河内家広春、当代の河内家芳春(親戚に当たるはずである)などといった優秀な音頭取りを輩出した。

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