芦乃家橘弥・砂川久栄

芦乃家橘弥・砂川久栄

(関係者提供)

 人 物

 芦乃家あしのや 橘弥きつや
 ・本 名 米田 武雄
 ・生没年 1900年~1980年以降
 ・出身地 ??

 砂川すながわ 久栄ひさえ
 ・本 名 米田 久栄
 ・生没年 1902年~1980年以降
 ・出身地 ??

 人 物

 芦乃家橘弥・砂川久栄は戦前戦後活躍した夫婦漫才。橘弥は元々噺家の出身。しゃべくり漫才全盛の中で踊りと唄を主体にした音曲漫才――俗曲『深川』に合わせて踊る乞食坊主の珍芸がオハコで、淡々と舞台を勤めていた。

 橘弥は噺家の出身で、「橘家橘弥」と名乗った。師匠は橘家橘三郎。三遊亭円朝の門弟として知られた橘ノ圓の弟子である――という事は、橘弥は円朝の曾孫弟子という事になる。

 また、東京漫才の橘エンジロ、橘ノ圓十郎は叔父弟子にあたる。

 ただ、この橘三郎という人は中央で売れず、地方回りが多かったので、これという記録に出て来ない。1960年、72歳という天寿を全うしたようであるが、上方落語四天王や関係者とはノータッチだった模様。

 若手の頃は「橘弥」として、師匠や橘の圓一門(旅回りが多かった)の一行に随行。『上方落語史料集成』などにも、『山陽新報』(1918年3月13日号)、

<三代目橘家圓三郎一座・岡山大福座>

◇大福座 落語三日目の語物左の如し。

兵庫船(橘弥)伊勢参り(春三)ないもの買い(米三郎)掛合噺(社中)前田犬千代琵琶(都枝)材木丁稚(太郎)現今の芸界(歌路)辻占茶屋(染五郎)煙草盆(みどり)子猫(正楽)音曲集(三郎、太郎、歌路)景清(圓天坊)お文さま(圓三郎)大切総出踊

1924年8月16日 神戸新聞 ◇藪入りと両浴場余興/天神濱 十六日(昼)軽口萬歳手踊落語橘家橘三郎一行(夜)曲芸俄萬歳手踊扇友會一行

12月20日 神戸新聞 ◇神戸劇場 渡辺静江一行は寿賀芳野、萬歳、一光の曲芸、橘三郎の落語、お歌女の音曲あり

 とある。こういった所で活躍していたのであろう。然し、昭和に入って上方落語の分裂や凋落に伴い、落語家を廃業し、漫才師に転向。当時売り出していた芦の家雁玉に入門し、「芦乃家橘弥」と改名。端席や地方巡業に出演するようになった――というが、如何せん資料がないので追い切れない。

 相方の久栄は、砂川捨丸の門下。元々は砂川捨代といい、戦後までこの名前を名乗っていた。こちらも師匠について、全国巡業をしていた模様。

 戦前、結婚して「橘弥・捨代」の夫婦漫才を結成。やはり端席や地方巡業などをして暮らしていた模様。この頃から既に雑芸漫才を開拓し、後年の乞食踊りなどもやっていた模様。

 戦前の漫才ブームに乗じ(師匠の雁玉の人気にも乗じてか)、吉本興業に入社。吉本の端席に出演するようになる。雑芸的な漫才は端席限定とはいえ、結構人気があったという。

 戦時中、大幹部の解散や出征に伴い、出演席も昇格。1941年4月には、北新地花月中席に出演して居る。

△北新地花月倶楽部 花幸、桂せんば、橘家蔵之助、橘弥・久栄、三遊亭小円馬、桂文治郎、柳枝・道風、春本助次郎、柳枝・道風、花月亭九里丸、成三郎・玉枝、桂三木助、アダチ龍光、三亀三・三亀春、桂春団治、五九童・蝶子、雁玉・十郎。

 しかし、この後も売り出す事なく、端席で活躍――戦争で小屋という小屋が焼き出され、戦後は結構苦労したという。

 敗戦後は吉本と契約を解除し、地方巡業などで露命を繋いでいた。それでも漫才はやめなかったというのだから偉い。それから間もなくして師匠・雁玉たちが立ち上げた「上方演芸協会」に所属。再び中央で仕事をするようになる。

 復興期には、松竹芸能に移籍し、三番叟ながらも角座や浪花座に出られるようになった。戦後の松竹のパンフレットに、看板漫才として写真が出ている所を見ると、一応の人気はあったようだ。

 戦後の漫才ブームで、多くの若手が売り出す中でも淡々と雑芸漫才を務めていた。中でも「乞食踊り」は既に一芸の領域となっており、久栄の三味線に合わせて、橘弥が半纏に六文銭で鼻をつぶした特異な姿で踊りまくる――という他愛無いものであったという。

 1960年12月、師匠の雁玉を喪う。この後間もなく吉本興業へと移籍する。

 1965~6年頃、「砂川捨代」から「砂川久栄」と改名。本名由来の芸名から全く違う芸名の例はあるが、全く違う芸名から本名由来の芸名に戻すのは珍しい例であろう。当時の「大黒帳」を追っていくと、どうも昭和39年頃までは「捨代」名義で登録されている。

 吉本に入った後も待遇は変わらず、三番叟ばかりであったが、不平不満をいう事なく淡々と舞台を勤め続けた。その三番叟ぶりは、常連や仲間には相当知られていたそうで、漫才作家の足立克己は『いいたい放題上方漫才史』の中で、

芦乃家橘弥・砂川久栄というコンビがいた。深川とか安来節の踊りを得意としていたが、相当な年齢なのに万年トップだった。幕が上がると必ずこのコンビが出てきた。ある時何かの理由で急に中ほどの出番になった。その夜常連客が小屋に入ってきていった。「おくれたと思ったがよかった。橘弥が出てる。今始まったとこや」。これ程有名だった。しかし、若い連中がドンドン追いこして出番が奥になっていくのに淡々とトップで一生懸命舞台をつとめているその態度に頭が下がった。私はこんな芸人も大好きだ。

 と、ネタにしている。侘しいがいい話である。

 結局生涯売り出す事もなく、引退――1970年代中頃に引退したらしく、1977年の名簿には既に名前が出て来ない。ただ、1980年の『上方演芸人名鑑』には引退済みながらも、今日も健在として扱われている。

 両名共に天寿を全うした模様か。

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