橘大正坊

橘大正坊

橘大正坊

 人 物

 たちばな 大正坊たいしょうぼう
 ・本 名 川村 鶴松
 ・生没年 1889年頃~戦前?
 ・出身地 大坂?

 来 歴

 橘大正坊は上方漫才黎明期に活躍した漫才師。元々は落語家であったらしいが、後に漫才に転身。当時の元号であった「大正」をそのまま芸名にしてしまったという。戦前の大看板であるが謎が多い。

 経歴は謎が残るが、『上方落語史料集成』に掲載ある『京都日出新聞』(1928年4月4日号)の記事の中に本名と年齢が出ていた。ここから逆算した。

◇芸人の賭博 開帳中に踏込れる 二日午後新京極寄席花月に出演中の大阪市西区九条通り三丁目吉田菊丸事宍戸菊太郎(三二)、同市此花区上福通り二丁目玉子家虎勇事西野利久(三四)、大阪府中河内郡橘大正坊事川村鶴松(三九)、同西成区萩の茶屋李玉川(二五)、若松家太郎こと藤田春一(二六)の五名がカブ賭博中を五条署興行係杉本警部補、木瀬巡査が踏み込んで取押へ目下取調べ中。

 博奕でしょっ引かれた資料によって経歴がわかるのだから皮肉と言えば皮肉である。

 経歴には謎が残るものの、元々は橘ノ圓一座の芸人だったらしい。すなわち、落語家上りということである。しかし、「らしい」という推測ができるだけで、それ以上の活躍や前歴は不明。

 大正中期より漫才が勃興するようになると、「大正坊」と名を改めたらしく、漫才師へと鞍替えした。落語家時代に鍛え上げた話術や珍芸を主とした古風な珍芸漫才を得意とした。

 1925年頃、ルナパークや南陽館といった萬歳専門席に出ていた漫才師の名を集めた一覧の中に、

末春・末義 景山・天地 菊丸・義弘 藤男・光月 正壽・アチャコ 正右衛門・ニコニコ 大正坊・捨次 ウグヰス・チャップリン 花奴・登吉 キネマ・雁玉 春太郎・楽春 千代春・文春 艶子・末丸 一春・芳春 小春・辰丸 小雪・雪江 慶司・日の丸 菊丸・朝日 政夫・日の丸 菊丸・慶司 義弘・正右衛門 福来・福徳 義弘・捨次 日佐丸・朝日 文々・義弘 喜鶴・捨次 五郎・慶司 日代志・金蝶 辰春・房春 春江・千代政 次郎・幸丸 正若・正右衛門 義弘・喜楽

(「芸能懇話 第13号」 21頁)

 とあるのを確認できる。砂川捨次とのコンビが長かったという。

 1928年、吉本興行へ入社し、同社の寄席に出勤するようになった。4月1日の上席では――

△花月 (落語)枝之助、(運動)李玉川、(万歳)米二・正月、(万歳)ニチ〳〵・大正坊、(曲芸)直造、(所作事)岸菊・初菊、(掛合噺)歌蝶・芝鶴、(奇術)操光、(万歳)二三丸・菊丸、(落語)助六、(万歳)玉枝・成三郎、(万歳)勇若・虎勇、(女道楽)花菱家連、(万歳)芳江・鶴春、(曲独楽)源朝。
△中座 (落語)小太郎、(掛合噺)歌蝶・芝鶴、(女道楽)花菱家連、(万歳)芳一・千代春、(奇術)操光、曲芸)直造、(万歳)ニチ〳〵・大正坊、(曲独楽)源朝、喜歌劇「寿酒」、旧劇「二十四孝狐火」、ボードビル十種。

 と華々しいデビューを飾っている。しかし、その直後に賭博事件を起こした関係もあってか、吉本からは冷遇されるようになった。そのため、吉本の主戦力になったのは1年足らずでしかない。

 1930年11月27日、砂川捨次とともにJOBKに出演し、『万歳浪曲節真似』を放送。当日の『日刊ラヂオ新聞』を見ると、古風な地の内から、三朝小唄、「京山恭爲・岡本鶴治・藤川友春・東家楽燕」の節真似、滑稽ドラマ――と芸尽くしを演じている。

 1931年1月9日、捨次とともにJOBKに出演し、『お笑ひいろ〳〵』を放送。こちらも芸尽くしの漫才と、最後に新婚旅行のお芝居を入れている。

 この放送後、間もなく捨次は河内家芳子とコンビを組みなおして、再出発を遂げている。1931年春に捨次とコンビ解消した模様か。ただ捨次は色々とコンビをとっかえひっかえするため、信憑性は微妙なところ。

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