鹿島洋々
松葉家奴・鹿島洋々(右)
人 物
鹿島 洋々
・本 名 倉島 為造
・生没年 1908年10月9日~?
・出身地 京都
来 歴
戦前戦後活躍した漫才師。夢路いとし・喜味こいしの傑作『ポンポン講談』の原作を作った人として知られている。
その経歴は、『レコード音楽技芸家銘鑑 昭和15年版』に詳しい。生年月日は『出演者名簿 1963年度』より割り出した。
鹿島洋々(吉本興業部内)
明治四十一年京都に生る。吉本興業部で初めは專属落語家として高座に上つてゐたが昭和九年滔々たる漫才熱の切興に刺戟されて轉向す。洋々たる漫才界に鹿島立ちしたところから鹿島洋々と命名、初め松葉家奴を相方としてゐたが最近は深田繁子と共に吉本興業で活躍す。
レコードはビクターより皇軍慰問荒鷲隊北支班從軍土産「北京見物」「島巡り」等がある。深田繁子 (吉本興業部内)
本名を以って名とす。島根縣に生れ四歳の頃より父と共に本場ものの安来節を歌ひ歩いたと言ふ涙ぐましい物語の持主、十六歳にして吉本に入社、二十三歳の時漫才に轉向、鹿島洋々氏のよぎコムビとして活躍してゐる。
余談であるが、従兄弟は、作家・将棋囲碁観戦作家として知られた倉島竹二郎だという。『話』(1940年新年特大号)掲載の石原金三『漫才界太平記』に、
(千歳家)歳男・繁子の歳男は、今男の弟子で依然、相弟子の今若と組んで可成り将来を愉しまれてゐた一人だ。それが今度事変に應召して、東日の将棋観戦家の倉島竹次郎の部下として、北支に転戦……(中略)序に、繁子の相棒であつた洋洋が、倉島の従兄弟であるのも、妙な因縁である。
とある。同じ倉島姓から親父の兄弟の関係だろうか。
後年、桂助六に入門して桂助二郎と名乗る。兄弟弟子に橘家つばめ(桂助三郎)がいた。
1931年頃、助六が死んだため、笑福亭福圓の門下に移籍。笑福亭福之助と改名して、前座修業に励んでいたそうであるが、上方落語の凋落と漫才ブームに乗じて、1934年、漫才師に転向。
一番最初は同門の橘家つばめ、更に横山東六、松葉家奴とコンビを結成した模様か。当初は笑福亭福之助と名のっていたが、後年鹿島洋々と改名した。
1934年7月ころ、松葉家奴とコンビを結成。『上方落語史料集成』に、
大阪の寄席案内
十一日より
△天満花月 出羽助・竹幸、蔵之助、登吉・花奴、竜光、奴・福之助、三木助、房春・鶴江、枝鶴、九里丸、夢若・夢路、文治郎、梅三・すみれ、団治・時子他。
△福島花月 文治郎、扇遊、蔵之助、小円馬、九里丸、馬生等花月幹部連に吉本特選漫才競演。二十一日より
△南地花月 「鎖夏涼笑の夕」。九里丸、三木助、文男・静代、福団治、石田一松、円枝、日左丸・ラツパ、五郎、エンタツ・アチヤコ、枝鶴、市松・芳子、円若、馬生、奴・福之助等。
△北新地花月倶楽部 石田一松、蔵之助、成三郎・玉枝、九里丸、三木助、エンタツ・アチヤコ、福団治、文男・静代、染丸、日左丸・ラツパ、五郎、源朝、文治郎等。
とあるのが確認できる。
同年10月ころ、鹿島洋々と改名。『上方落語史料集成』に、
京都の寄席案内
十一日より
△新京極富貴 春風亭柳橋、九里丸、福団治、雁玉・十郎、蔵之助、出羽助・竹幸、円馬、正光、太郎・菊春、柳橋、クレバ・栄治・清、小円馬、三八、おもちや、三馬。
△新京極富貴 小文治、円若、文男・静代、五郎、紋十郎、幸児・静児、文治郎、奴・洋々、円枝、竜光、ろ山、三八、今若・歳男、馬生、亀鶴、三馬。
△新京極花月 奴・洋々、喜昇・芳子、水月・朝江、円若、三八等。昼夜二回。
1934年12月20日、JOBKに出演。松葉家奴・鹿島洋々で「年がお若い」。
その後、安来節出身の深田繁子とコンビを結成。この男女コンビは繁子が洋々を手玉に取る漫才を展開し、人気を集めた。
1937年2月12日、JOAKに出演し、「僕の家系浪漫ス」を放送。
1937年12月18日、JOAKに出演し、「萬歳!南京割れ」を放送。
1938年、わらわし隊の一員として北支に派遣されている。
1939年頃、繁子とのコンビを解消して、満州日出丸、若松家正二郎とコンビを結成。この正二郎は、若松家正太郎門下の「林しのぶ」であるらしい。この正二郎コンビ時代に、講談を元にした寸劇風の漫才『ポンポン講談』を生み出し、人気を集めた。
この時、子供漫才で人気を集めていたのが、後の夢路いとし・喜味こいしで、成人後このネタを手掛けるようになった。鹿島洋々のネタから拝借したとは生前から明言しており、『いとしこいしの世界』の中で、
この『ポンポン講談』というネタは、戦前の鹿島洋々・若松家正二郎さんというコンビが得意にしていたネタです。だから、その芸を盗んだものということですわ。
といっている。この話は、上方演芸界では有名だったようで、桂米朝も『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中で、
米朝 鹿島洋々・林正二郎。この洋々さんという人はね、昔の若松家正二郎との時代、今、いとこいのネタにある、講釈の叩きのマネをするネタ、あのパパンパンで売った人。それがボヤいていた。「私が売れてやっと浮かび上がったと思った時に戦争が激しくなった」。相方が徴用か何かでとにかく漫才がやれンようになった。今度、戦争が終ってやっとやれると思ったら前の正二郎はんが死んでしもうた。洋々さんは元噺家で、笑福亭福円という人の弟子やった。林正二郎はんの方は、これはちょっとだけ昔の二代目の林家染丸さんの弟子になって、「私はタタキ(大阪の噺家の最初の修業で、両手に小拍子と張扇をもって見台をカチャカチャと叩きながら『東の旅』などの落語を語る)なんか、ちょっとやったンでっせ」というとった。それから東京へ行って、言葉は東京弁になってたけどね。その息子が曲芸のラッキートリオの佐々木幸治や。
米朝は戦後死んでもうた、と書いているが、笑根系図では「林しのぶ」と改称し、妻の林こいじとコンビを組んで活躍している、とある。この米朝言説は、やや鵜呑みにできないものがあるので注意。
1939年4月、ビクターより「北京見物・島巡り」を吹き込み。
同年5月、ビクターより「愚兄賢弟」を吹き込み。
同年10月、ビクターより「思いつき夫人」を吹き込み。
同年12月、ビクターより「奥様になりたい・ワシントン」を吹き込み。
戦後、漫才師を転々としていたが、大阪へやって来た林家染芳とコンビを結成。
染芳は、戦前、東京漫才で活躍した漫才師。大阪で人気を集めた曲芸師のラッキー幸治の親であり、内海桂子と一時期夫婦だったのは有名。詳しくは、『東京漫才のすべて』を参照にせよ。
染芳とのコンビ結成は、1960年4月。『大阪朝日新聞・夕刊』(4月28日号)に、
漫才の新コンビ二組が大阪千土地興行から生れた。
落語家出身の鹿島洋々と、漫才林家染団治の門から出た林正二郎のコンビが一つ。
と紹介されている。以来、このコンビで、千日前劇場を中心に活躍。派手な活躍こそなかったものの、古老株として睨みを効かせた。
1964年頃、コンビを解消した模様か。その後、香島ラッキーとコンビを結成したが、1967年頃より名簿などから名前が見えなくなる。引退した模様である。以後の消息は不明。市井の人として過ごした、と解釈すべきか。
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