吉田茂

吉田茂

吉田茂

東みつ子と
(関係者提供)

かぼちゃパンツを上げる所から名がついた「かぼちゃ」
(関係者提供)

 人 物

 吉田よしだ しげる
 ・本 名 吉田 茂
 ・生没年 1899年1月19日~1985年12月26日
 ・出身地 鳥取県 米子市

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。難波利三の代表作で直木賞受賞作『てんのじ村』の主人公、花田シゲルのモデルでもある。「かぼちゃ」なる珍舞踊を得意とし、晩年脚光を浴びた。

 昭和のワンマン宰相・吉田茂と同姓同名であるが、縁戚関係は一切ない。

 出身は鳥取県米子。幼い頃から安来節を子守唄代わりに育ち、早くからドジョウ掬いや安来節の基礎を見聞きしていた。この環境が後年大きな武器となった。

 当時としては高学歴の「旧制・米子中学」の出身で、2年で中退後、鉄道省の機関士として入社。中退こそしているが、中学出身の中々のエリートであった(『週刊読売』1981年1月16日号『新春奉納極付珍芸』より)。

 米子区間の機関士として勤務する傍ら、職場の素人劇団を主宰。歌舞伎の真似事をしたり、夜勤をほっぽり出して、音曲舞踊を稽古するなど、道楽な日々を過ごした。 

 1920年、大阪へ遊びに行った折、大阪天満で顔なじみの安来節一座と遭遇。一座の「よごれ」(ドジョウ掬い)がいなくなった事を相談され、二つ返事で初舞台を踏む。舞台の上ではやんやの喝采であったが、この舞台を偶然見ていたのが、職場の上司であった。当然、呼び出しを受け、叱責されたのを遺恨に思い、喧嘩の末に退社。

『国立劇場演芸場』(1983年9月号)に、その経緯が語られている。

 米子生まれの吉田さんが、この世界に入ったのは大正九年だが、動機がふるっている。当時、米子で国鉄の機関士をしていたが、休暇をとって大阪見物した時、郷土名物の安来節を上演している 天満の宮崎亭(現在は映画館)に入った。山陰では顔見知りの一座で、たまたま欠員が出たとかで、吉田さんは穴うめに舞台にあげられて、どじょうすくいを演じた。安来節を子守唄に育った吉田さんにはお安いご用であった。
 ところがお安くない男が客席から吉田さんをみつめていた。米子機関区の上役である。幕がおりると早速呼び出された。
「機関士は鉄道省(国鉄は戦前、鉄道省の管轄にあった)の官員である。その官員が寄席芸人の真似をするとは何事ぞ!」と頭ごなしに怒鳴られた。
「若かったのですね。売り言葉に買い言葉、そんならやめたるわい」といい返したため、クビ。そのまま安来節一行に加わった。十年位いて、この間、二、三度上京、四谷の喜よし、浅草の御国座(後の松竹座)に出演している。だが、安来節だけでは将来が不安。

 また、退社の背景には給料の良さもあったそうで、『週刊読売』(1981年1月16日号)『新春奉納極付珍芸』によると、「当時国鉄の月給が十八円」「(安来節は)八十円」でだったそうで、好きな方を選ぶことにしたという。

 大正末期の安来節ブームに乗り、関西を中心に巡業。貴重なよごれとして安来節一座を支えた。その傍ら、安来節一座に出入りする漫才師と懇意となり、その芸の下地を身に着ける事となる。

 この頃、安来節一座で三味線を弾いていた森永千代香(吉田ハル 1895年~1965年頃?)と結婚。この千代香は、安来節の森永八千代なる人物の弟子だそうだが、謎は多い。

 1923年の関東大震災以降、安来節が下火になっていることを受けて、徐々に漫才へと傾くようになる。

 1925年、漫才に転向し、「吉田茂・森永千代香」。生涯本名のまま、芸能界を走り続けることになる。

 砂川捨丸を私淑した、数え歌・俗曲、踊りを旨とした「芸尽くし漫才」を展開。その器用さを買われる形で、京都勢国館を拠点とするようになる。『国立劇場演芸場』(1983年9月号)によると、 

 そこで、三味線の弾ける夫人・森永千代香さんを相手に見よう見まねで漫才師に転向したが、運よく京都の勢国館の席亭に見込まれて、そこを本拠とした。

 そうで、『日本演芸家名鑑』によると「大正末から14年間」。

 当時としては珍しく、吉本・松竹・籠寅と殆ど関係を持たず、独自の路線を貫くこととなった。

 安来節の名人とは有名な話だったそうで、桂三木助(二代目)や橘ノ圓が安来節を習いに来たほどである。

 戦時中は慰問や農村巡業で活躍。この頃、西成区に居を構え、通称「てんのじ村」の芸人の一人となる。

 敗戦後、政界の中心を担う政治家・吉田茂と同姓同名だったこともあって、変な人気を集めるようになる。悪く言えば、総理大臣「吉田茂」と同じ名前の芸人を出して、観客をだます――昔ながらの興行のやり口であるが、当時の事情もあって、無茶苦茶な人気を集めたという。同姓同名でこれだけ売れた人も珍しいだろう。

 『国立劇場演芸場』(1983年9月号)で、吉田茂が語ったところによると、

 この吉田さんがうけにいったのは、同姓同名の総理大臣がワンマンぶりを謳歌した昭和二十年代。
 京都の寄席の名門・富貴に招かれた時は、人気絶頂だったミス・ワカナと同格に扱われただけか、“吉田茂、富貴に現わる!”と特別の看板が立てられ、物珍しさで札止めになったという。また名古屋の富士劇場では自由党(現自民党の前身)の院外団が楽屋へ乗りこ んで、「一国の宰相の名前 をかたるとはけしからん」と凄まれたそうだが 「向うさんが有名になられる前からの私の名ですし、どうにもなりません。そうはいっても名前で随分稼がせて貰いましたワ」とふり返った。

  しかし、1950年代になると吉田茂人気も低迷。てんのじ村から巡業続きの生活を送るようになる。

 もっとも小説で書かれるような悲惨で苦悶するような男ではなかった模様。旅から旅に明け暮れ、村に戻れば、砂川菊丸を筆頭とする芸人仲間と好きな将棋を打って日長に暮らす……というノンビリとした生活を送っていた。

 吉本や松竹とはかかわりを持たず、てんのじ村の芸能社を相手に仕事を続けた。

 1960年代初頭に、妻の千代香が倒れ、コンビを解消。『てんのじ村』では、妻が不注意から火事を起こしかけ、火だるまになって死んだ――とあるが、本当だろうか。信憑性はあまりないと思われる。

 小説では、長らく鳴かず飛ばず、妻の死後、いきなり東みつ子とコンビを結成、と書かれているが、やはりそこは小説でドラマチックな構成になっている。史実とはやはり異なるのだろうか。

 妻とコンビ別れした後(その妻も関西演芸協会に籍を置き続けている)、松鶴家千代八とコンビを結成。このコンビで数年続けた。『出演者名簿』などからも確認できる史実である。

 さらに轟勝世、五条家松枝などといったベテランとコンビを結成。国立劇場演芸場』(1983年9月号)によると、

千代香夫人の死後、轟勝世、五條家松枝、現在の二十六歳年下の東てるみさんと相方は交替したが、吉田さんの漫才は変らない。

 1971年頃、南ふく子とコンビを解消した東みつ子とコンビを結成。この頃より、桂米朝などから引き立てを受けるようになり、関西ローカルの番組で珍芸を演じるようになる。決して売れていないわけではなかった。

 1971年4月5日、NHK『新日本紀行』で天王寺村が取り上げられ、出演。砂川菊丸と一緒に黙々と将棋を打っている姿が今も見ることができる。

 この頃、関西演芸協会を脱会し、関西芸能親和協会の設立に関与。理事として名を連ねる事となった。

 1974年9月7日、「第10回 和朗亭」に出演。

桜川末子・松鶴家千代八『江州音頭』
桜山梅夫・津多子・吉田茂・松本さん吉『安来節』
ゲスト 森やすし

 梅夫ツタ子が安来節を演奏し、松本さん吉が銭太鼓を披露、最後に三人の安来節に合わせて、吉田茂が「ドジョウ掬い」を魅せるという趣向。

 これは朝日放送に保存され、現在も「ワッハ上方」でみることができる。

 この頃、難波利三が家や舞台に出入りするようになる。この取材や経験が後年の『てんのじ村』へと結びついたのは言うまでもない。

 小説では「かぼちゃ踊り」に一芸を賭けるように書かれれているが、実際は芸幅は広く、「今と昔の数え歌」「安来節」といった数え歌や俗曲、野球のユニフォームを着て踊りを踊る「野球節」、古風な「三曲漫才」など、それらを組み合わせて漫才を披露していた。

 これらの珍芸は晩年高く評価され、その一部は「朝日放送」に残っている。

 中でも、「かぼちゃ」は、

 「お手てつないで」のメロディに乗り、小学生の帽子に短いかすりの着物を着、「浪花小唄」に合わせて、歩いているうちにだんだん背がのびて大人になり、「てなもんやないかないか道頓堀よ」に合わせて、袴をちょっとずつ釣り上げて、かぼちゃパンツをチラッと見せる――

 というものである。但し、この「かぼちゃ」という名称は、難波利三の『てんのじ村』による所が強いのではないだろうか。

 因みに、『てんのじ村』が発表される前には、『大文字踊り』(『週刊読売』(1981年1月16日号)『新春奉納極付珍芸』)、『一寸法師の踊り』(『国立劇場演芸場』1983年9月号)などと、実に曖昧な呼ばれ方をされている。

 『大文字踊り』は、大文字足袋の福助から着想を得た(頭でっかちな小人の芸を魅せる事から)と説明がなされており、『一寸法師』もまた似たような記載になっている。

 「かぼちゃ」の初出は、やはり難波利三の小説ではないだろうか、と考えている。

 1979年2月28日、サンケイホールで行われた『上方漫才今昔大絵巻』に出演。浮世亭歌楽、佐賀家喜昇と共に、幕開けの『三曲漫才』に出、昔懐かしい芸を見せた。頭の禿げているのをからかわれ、

 歌楽「吉田茂さんの頭と掛けまして」
 喜昇「あげまひょ」
 歌楽「これを頂きますと、ソバをたべているところと解きます」
 喜昇「その心は」
 歌楽「ツルツル」
 全員「アイナラエ」

 と、足立克己『いいたい放題上方漫才史』に記されている。

 1981年1月、『週刊読売』(1981年1月16日号)掲載の『新春奉納極付珍芸』に、紙切りの泉虹天、本田恵一・玉木貞子と共に紹介される。

 1981年1月29日、NHK「ばらいえてテレビファソラシド」の企画、『芸歴500年・オールド漫才』 に出演。小説でクライマックスになっているのは、この番組だろうか。判らない。

 他の出演者は、萩笑三・萩奈良恵ボクジロー・キミマチコ

 1982年、関西芸能親和会の会計事務局長に就任。

 1983年、関西芸能親和協会の副会長に就任。

 1983年8月、『国立劇場演芸場』(9月号)の特集『てんのじ村の現状』に掲載される。

 1984年、難波利三の『てんのじ村』が、第91回直木賞を受賞。このモデルになった事により、一躍脚光を浴び、舞台にメディアに引っ張りだことなる。85歳にして大輪の花を咲かせることとなった。

 受賞が相当嬉しかったのか、『日本演芸家名鑑』の中に、

 昭和59年 小生の漫才がてんのうじむらの難波利三先生により小説となり、これが直木賞となって晩年に花が咲く

 と素直に喜びを記している。

 そんな人気と芸歴を評価されたのか、1985年12月7日、「第14回上方お笑い大賞」功労賞を受賞している。同授賞式の映像はワッハ上方で見られるが、矍鑠と喜びを語る吉田茂の姿をそのまま映し出している。

 その受賞から19日後の12月26日、脳出血に倒れ、急逝。86歳。人気と話題の絶頂の間に亡くなった形となった。

 晩年大きすぎるほどの花を咲かせ、持ち切れぬほどの冥途の土産を抱えた吉田茂は、死ぬ間際に何を考えたことだろうか。

 以下は、『国立劇場演芸場』(1986年2月号)に掲載された訃報。

 上方漫才の吉田茂さん逝く
 トリネタで衣裳を引抜いての一寸法師やユニフォーム姿で野球ぶしを踊る珍芸の持ち主だった漫才師吉田茂さんが、十二月二十六日、脳内出血のため死去した。八十六歳。

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