東文章・こま代
東文章・こま代
都家文昭・静香時代
人 物
・本 名 大島 実
・生没年 1905年~1986年以降
・出身地 大阪
・本 名 大島 ハナ
・生没年 1910年~1977年
・出身地 千葉県
来 歴
戦後活躍した夫婦漫才師。文章は芸歴が古く、元々は都家文雄門下の「都家文昭」と名乗った人物。こま代は、秋田民謡の一座の出身で、レビューの女優から漫才師になったという変わり種。師匠譲りの「ボヤキ漫才」を得意とし、主に映画を皮肉る独自の路線を開拓した。
生年等は、相羽秋夫『上方演芸人名鑑』と『芸能画報』(1959年3月号)の「新撰オールスタア名鑑」より割り出した。ただ、『出演者名簿』などにも生年月日がなく、宙ぶらりんになっている。要検証、か。
以下は『上方演芸人名鑑』の抜粋。
東文章
本名大島実。一九〇五(明三八)~
銀行員になろうとしたが、都家文雄の舞台を見て一念発起、 漫才の世界に入った。都家文昭の名で、昭六年新世界で初舞台。現米紫と文章・団楽という名でコンビを組んだ。つまり文章には段落がつきものというシャレ。昭三〇年映画のぼやきを主に妻のこま代とコンビを結成。 昭四一年ほんの二、三か月間華悦子(フラワーショウの華ゆり)とコンビを組んだこともある。昭四七年第一線を退くまで、あくの強い大阪弁の面白さをいかんなく発揮した。病弱なため、豊かな才能が花開かなかったのが惜しい。今は妻に先立たれ、寂しい晩年を送っている。東こま代
本名大島ハナ。一九一〇(明四三)~一九七七(昭五二)
千葉県の生まれ。小さい頃から民謡が好きで歌手として水野春海レビュー団に入団した。 昭二七年広島で初舞台。レビュー団解散後、京都に来て、都家静代のもとで漫才修業。昭三〇年、 夫である東文章とコンビを組んだ。萩乃こま代と言った時代もある。 文章を残してあの世に旅立った。
更に、『芸能画報』(1959年3月号)の引用。
文章 ①大島実③大阪④27才で漫才界に入る。 終戦直前迄吉本興行に専属。 4年間のブランクの後こま代とコンビになり4年になる(千土地興行専属)
こま代 ① 大島ハナ③千葉県④ 秋田民謡の一座に席を置き地方巡業をし芸を磨く後漫才の修業をし、文章とコンビを結成する
両資料を折半すると、二人とも漫才入りは遅かった模様である。
さらに芝清之の『浪曲ファン25号』掲載の『浪曲育ちの芸人たち』に「ボヤキ漫才の東文章も、元は吉田元丸という、奈良丸系の浪曲出身者である」という記載がある。真相は不明。当初は浪曲をやりたかったのだろうか。
文章は、27歳の時(数え年か?)に都家文雄門下に入り、「都家文昭」。師匠につく形で、吉本の漫才小屋で初舞台を踏んだ、という。以来、師匠の都家文雄について漫才小屋や巡業等で芸を磨いた。
兄弟子の人生幸朗と違い、早くから吉本興業と契約を結び、新鋭漫才として注目を浴びる。1936年には既に一枚看板として活躍しており、雑誌『ヨシモト』の漫才師一覧の中に「都家文昭・静香」という名前を確認する事が出来る。
当時は紋付き袴で舞台をやっていたそうで、静香も和装。「万才」の名残を漂わせていたという。
『上方落語史料集成』によると、1940年10月上席、檜舞台である南地花月に初出演。
△南地花月 桂小雀、静香・文昭、金原亭馬生、三亀春・三亀三、歌楽・夢若、桂円枝、玉枝・成三郎、東洋一郎一行、芳子・市松、桂春団治、左楽・右楽、五郎・雪江、花月亭九里丸、桂三木助、今男・アチヤコ 柳家三亀松。
以来、大御所たちと混じって南地花月・北新地花月に出演するようになる。
1943年6月まで、静香とコンビで出ていたが、同年夏にコンビを解消し、8月下席から、同じく相方と別れた三遊亭柳太郎とコンビを組み直している。以下は『上方落語史料集成』の広告。
△南地花月 桂小雀、文昭・柳太郎、桂文治郎、唄治・糸治、繁子・小太郎、文蔵・田鶴子、二郎・ケイ一、雪江・五郎、神田山陽、一陽斎正一、桂三木助・小秀・元女、文雄・静代、太郎・菊春。
同じ小屋に、兄弟子の文蔵(人生幸朗)と師匠の都家文雄が出ているのが印象的である。
しかし、1944年になると番組表からいなくなってしまう。人生幸朗同様に、戦争悪化に伴う召集で戦地に赴いた模様か。この辺りの状況はよく判らない。
戦後復員し、漫才界に復帰。吉本興業が演芸興行から一時撤退したため、退社。
その前後で、松鶴家団之助門下の藤野団楽とコンビを結成し、「団楽・文昭」。一部文献では「東文章・藤野団楽」とあるのだが、この時点では都家一門を離脱していないのでそれは違うと思われる。
故・澤田隆治氏に見せていただいた名簿やパンフレットにも「都家文昭」とあった。これは妻とコンビを組んだ後もしばらくそうだった。
若手漫才として再出発した矢先、敗戦の疲れや苦労で体調を崩し、しばらく休養をする事になった。このため、団楽とのコンビは解消、団楽は漫談や腹話術の芸人となった。後年、桂米朝の門下となり、桂米紫と名乗ったのは余談である。
上の記載を信じるならば、1951年頃にコンビを解消した模様か。以来、4年ほど、休養し、ブランクを作ってしまった。
1955年、妻のこま代とコンビを組んで、「都家文昭・こま代」として復活。都家文雄の後ろ盾もあり、先行きの良いスタートを切った。
澤田隆治『上方芸能列伝』に、「(戎橋松竹の)昭和三十年十月上席は師匠の力で前から四ツ目の出番を出してもらえたのだ。」とある。
生前、澤田氏から伺った話では「昭和三十年代は、僕も若かったせいか、東文章さんの方が面白くて好きでしたわ。人生幸朗さんはね、厳しい性格もあってか、苦手だった」と笑って語っていたが、実際、話術やボヤキの構成だけでいけば、東文章の方に利があったという。
『上方芸能列伝』でも、
私は都家文雄ゆずりのギンギンになって喋る人生幸朗さんより、ゆったりと味のある喋りの都家文昭さんの方が好きで、自分の担当する演芸番組にもこま代・文昭の方を選んだものだ。私が若かったせいもあるだろうが、生恵幸子さんの色気がイヤで、出てくるやいなや流行歌を唄うその声にへきえきしたものだ。テレビなら幸子さんの美しさや色気は武器になっただろうに、まだラジオの時代だったのだ。 でも劇場では舞台の明るさで幸朗・幸子の方が勝っていて、陰気なこま代・文昭は勝負にならなかった。
と、芸を激賞している。ただ、最後にある「陰気さ」は、デビュー当時から付き纏っていた短所で、これは生涯抜ける事はなかった。
師匠の覚えも目出度く、新人として売り出そうとした矢先――都家文雄と喧嘩をして、「都家」の屋号を返す事件があったという。澤田氏は「楽屋雀は破門や、いやいや彼方が飛び出したんやと勝手な事を言ってはったが、真相は闇の中ですわ」。
ただ、兄弟弟子の人生幸朗の評伝『帰ってきた”ぼやき”漫才』の中に、人生幸朗が妻の紅田鶴子を、師匠の文雄に寝取られたことに憤慨し、一門を飛び出した逸話と共に、当時を知る香川登枝緒が「都家文昭さんという人も、(註・芸名を)一緒に返したんやと記憶しています」と語っているのが気になる。
師匠の女好きや態度に持てあますところがあったのだろうか。
結局、人生幸朗と東文章の二人は、師匠の相方で妻の都家静代が死んだ際も、その追悼公演に出なかったという。相当の遺恨があったのだろう。以下は『上方芸能列伝』の一節。
昭和三十一年の春に静代さんが亡くなって、戎橋松竹では「都家静代を偲ぶ名流演芸大会」が企画された。 都家文雄は守住田鶴子とコンビを組んで出ている。この公演に弟子である人生幸朗も都家こま代・文昭も出演していないのは、その前に破門されたとか 自分でおん出たのだとかいうもめごとがあったからで、こま代・文昭などは「偲ぶ会」 の翌月に東こま代・文章と屋号をかえて出演しているという激しさ。
「都家」を返上後は、「東文章・こま代」と改名した。歌舞伎の「桜姫東文章」からとったのでは――という主張も見かけたことがあるが、どうなのだろう。当時、「桜姫東文章」はほぼ忘れられたネタであり、今日のような話題を生む演目でもなかった。釈然としない点がある。
その後は千土地興行の専属芸人として、千日劇場などで活躍。映画ボヤキを中心に展開し、コテンパンにやっつけたが、東文章の体調不良や休演もあって、中堅の地位からなかなか脱する事が出来なかった。
それでも芸人との評価は高かったそうで、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中に、
東文章・こま代。この文章はんという人はね、都家文昭というて、都家文雄さんの弟子や。 こま代はんという人は民謡一座か何かにおって、ええ声やったけれどね、しゃべりは下手やったなァ。文章はんが一人でしゃべっているようなのがあった。押さえつけるようないい方やったけどな。私は好きでしたよ。よく受けてましたしね。
という一節があり、上岡龍太郎も自伝で「好きな芸だった」と書いている。
1960年代の漫才ブームの波に乗り、漫才師として売り出す――寸前で、今度はこま代が体調不良に倒れ、休演。東文章は、華悦子(後の華ゆり)とコンビを結成し、再出発を図るも、悦子がフラワーショウへ移籍したために、結局有耶無耶となった。
その後、こま代が復活したため、コンビを組み直した。
1971年5月、都家文雄の死に際し、人生幸朗と共に都家文雄の葬儀に訪れ、関係者を勘当させたという。
師匠、都家文雄の死を受けて、社会批評的な漫才を演じたが、両者共に病弱な事もあってか休演が目立ち、ブームの波に乗り切れぬまま、1972年に一線を退く事となった。
その後、こま代は療養生活に入り、1977年に死去。皮肉にも、病勝ちだった東文章が残される形となった。
文章は、一人寂しく晩年を過ごし――80以上の長命を保ったのが何とも皮肉である。
最晩年の様子は相羽秋夫『演芸おち穂ひろい』に詳しい。これを引用しよう。
話術の粋尽して――東文章・こま代
“ぼやき漫才”というと、その創始者の都家文雄や、テレビで人気のあった人生幸朗にばかり目がいって、この東文章・こま代のコンビの名前が出てこない。 しかし、寄席では、上方弁のねっちりとした味を出しながら、話術の粋を尽くした名コンビとして定評があった。
こま代が折にふれて民謡を歌い、文章がぼやいていくスタイルは幸朗・幸子とまったく同じだが、幸朗が歌謡曲の歌詞に毒づいたのにたいし、こちらは映画をコテンパンにやっつけた。
しかし、文章が病気勝ちで、寄席もよく休んだので、映画を見る機会が少なくなり、もっぱら社会戯評を専門とした。
師匠の文雄が亡くなって、その分野のレパートリーが解禁になったことも原因している。そうしたなかで最も印象に残る話は、戦争時代の耐乏生活のことだった。
「敵の戦闘機が飛んでくると、すぐ電気を消してじっとしとりました。 ぼちぼち寝よか、言うても満足な服も着てへんし、 ふとんというてもなにもあらへん。
新聞紙の間にはさまって寝ました。なんのことない折り込み広告でんがな。
パンツの替わりに、男性はあそこに古封筒をかぶせてました。
その封筒に“親展”と書いてあるんだ。ほんま殺生でっせ。
嬶、早よ寝よか、言うて寝て、生まれた子どもが、今年三十八歳です」。
1986年時点の事を書いた「その後」に「皮肉なことに、こま代が早く他界し、文章が健在。一病息災ということか。」と書かれてあるのが、空しい。
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