高田水月・朝江

高田水月・朝江

水月・朝江

 人 物

 高田たかだ 水月すいげつ
 ・本 名 高田 ?
 ・生没年 ??~1957年以前
 ・出身地 ??

 高田たかだ 朝江あさえ
 ・本 名 高田 ?
 ・生没年 ??~戦後
 ・出身地 ??

 来 歴

 高田水月・朝江は戦前戦後活躍した漫才師。戦後人気を博した女流漫才の紅田鶴子は実の姪、その田鶴子の甥にあたる秋田Bスケも親類にあたるという。

 前歴等は不明。資料は殆どない。漫才師としては古く、1930年代より既に大家として活動をしていた模様。

 1933年頃より、吉本の第一線に加えられ、南地や北新地花月に出演できるようになった。『上方落語史料集成』の1933年6月上席の興行によると、

△北の新地花月倶楽部 小文治、円馬、九里丸、エンタツ・アチヤコ、枝鶴、五郎・雪江、延若、エロ子・キング、千家松博王・水茶屋博次・博多家人形、文治郎、染丸、重隆・武司、三木助、馬生、円若、朝江・水月、春子・正春、正光、円枝、染蔵。

 さらに、『近代歌舞伎年表京都編』掲載の、1933年7月1日から始まる「京都座」の興行の中には既に、一枚看板として登場。

【番組】万歳(大和秀千代 大和秀夫)万歳(高田朝江 高田水月)曲技(寺島玉章)兵隊万歳(立花栄二郎 立花六三郎

 以来、京都の寄席を中心に活躍する所となった模様。1934年からは、北南の花月のみならず、天満花月、漫才大会などに起用されるようになる。

 漫才としては古風な方で、水月の浪曲、滑稽な踊りが売り物であったという。ある意味では「万歳」の流れをくむものだろう。

 1936年4月発行の『ヨシモト』に、「私の一日」と称したエッセイを発表。この中で、朝江と夫婦な事、数人の子どもがおり、一番下に3歳の子どもがいること、弟子に高田幸若がいる事などが記されている。

 相応に人気があったが、しゃべくり漫才全盛となるとともに劇場から、下町や京都の花月や寄席で手堅い活躍を行うようになった模様。

 地道な活動によって、戦争も切り抜け、敗戦まで生き残る所となった。

 1947年10月1日より、京都京極演芸館で開催された「漫才大会」に出演している様子が確認できる。『近代歌舞伎年表京都編』に、 

漫才大会【出演】秋野千草・北斗七星 秋田右め菊・右め助 風流松子・歌江 浮世亭夢若・松鶴家光晴 浪曲節まね 浪花太郎 奇術 一陽齋都一 
(五日迄)高田朝江・水月 浮世亭夢丸・志津子 松葉蝶子・東五九童 (六日より)酔月とり三・唄ノ家成駒 九丈竹幸・浮世亭出羽助

 この後、吉本は演芸興行から一時撤退。水月たちなども契約解除となった。

  1948年3月1日、京都富貴のこけら落としに出演。当時の記録によると、

秋田A助・B助、桜山源若・小奴、椿ヨシオ・ミサオ・○久美、高田水月・朝江、三升源次郎・若松家正太郎、千守歌子・人生幸朗、櫻川末子・井々池大島(東文章)、春日漫楽団(桜山小夜子・一郎・弦二郎・サクラ・梅夫)

 間もなく、水月が患ったらしく、以降は殆ど表舞台に出て来なくなる。

『芸能懇話』(第十三号)掲載の「物故関西演芸家追善回向の精霊」のリストには、高田水月の名前が出ている。1957年以前に亡くなった芸人をまとめたモノなので、それ以前には亡くなっていた模様か。

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