松鶴家千代八(二代目)

松鶴家千代八(二代目)

晩年の末子・千代八(右)

八千代時代

 人 物

 松鶴家しょかくや 八千代やちよ
 ・本 名 上田 たき(旧姓・内藤たき。タキエとも)
 ・生没年 1908年2月5日~1987年以降
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 戦前戦後活躍した女流漫才師。戦前は夫・松鶴家千代八とのコンビで、戦後は桜川末子とのコンビで長らく漫才の第一線に立ち続け、古風な「萬歳」の古格を守り続けた。

 相方の八千代は、子飼いの芸人で旧姓、内藤タキという。『上方演芸人名鑑』ではタキエとなっているが、これは昔の名前の誤差であろう。よくある事である。

 同著には「大四年松島中島席が初舞台。」とある、若干7才くらいで舞台に上がっていたのだから、親も芸人だったのかもしれない。

 姉が千代八の本妻だった関係から千代八の門下に入り、八千代と名乗る。当初は女道楽のような事をしていたようであるが、詳細不明。『ヨシモト』(1935年9月号)の「千代八八千代と語る」の中に、

 漫才以前、万才以前、そして萬歳以前とも云ひたいほど古いーーと云つても演ずる内容の古さを意味せずーー経歴を持つ千代八さんは斯界の元老格。
「あんたより古い漫才家がありますか?」
「吉本興業廣しといへど、自慢やないがおまへんわ」
「漫才生活は何年になりますか」
「三十四年だす」
「全く古いですな、その時いくつでした?」
「十七だした、それまでは歌舞伎の方で浅尾工左衛門の弟子だした」
「八千代さんは?」
「二十歳のときに漫才界に入って――今年八年目だす」
「若い八千代さんを相手に舞臺に出る千代八さんは、よく八千代さんにボロカス云はれては、満場の客に愬へるやうに”数多公衆の面前に於て斯くまで女に侮辱されては何のために生したのか、この髭の要領が解らん!”とよく笑はせたものだが、この頃は髭がない。
「髭はどうしました?」
「白うなつてきたからあきまへんよつて剃りました。染めても頭の方も白髪になつてきましたさかい」
熱演居士の綽名通り、彼氏の舞臺は熱と力そのまゝだ、そしてフアンは子供と老人が多い、弁慶と牛若丸の話、ゴリラなども面白いが、珍藝として安来の鰌掬ひに至つては千代八ならではのお家藝である 

 とある。この計算を適用すれば、1927年頃結成した、という感じになるが、一方で、『上方落語史料集成』『大阪朝日新聞』(1925年7月18日号)に、

○みだらな寄席芸人 田舎から入り込んでお灸

大阪市内の寄席に出演する芸人でみだらな言葉やいやしい素ぶりをして観衆を笑はし人気とりするものが多いので府保安課興行係は十五日西区方面の各寄席に一斉臨検を行つた結果、九条正宗館で出演中の万歳若松屋正右衛門こと野洲政吉(四十四)、米子(二十二)、花子(二十三)、咲子(十六)、末春こと田川義雄(二十一)、花びしやアチヤコこと藤本清太郎(二十九)、平和ニコニコこと八木常一(四十二)、松島廓内中島席松鶴家八千代こと内藤たき(十九)等が臆面もなくみだらな言葉を連発していたので十七日課に召還取調中である。

 とあるのが気になる。1925年には結婚して、コンビをやっていた模様か。あるいは弟子という扱いで、取り上げられているのか、真意のほどは不明。

 但し、この時にはもう活躍していたという証拠には、なる。

 コンビ結成後、一銭漫才と呼ばれる端席を中心に活躍。当時はまだ漫才の地位が低かった事情があるものの、この端席では超の付く人気者だったらしく、この活躍が後年の吉本興業への厚遇につながった模様。

 相変わらずの諸芸尽くし漫才に加え、小柄な八千代が、大柄の千代八をボロカスに貶し、時には板や竹刀で千代八をシバき倒すという、女性優位の漫才で人気を集めた。

 特に千代八が大柄でドス声だった分、千代八の可憐さと甲高い声は一層のコントラストになったという。その美貌は若き日の秋田実を魅了したというのだから大したもの。上にある写真を見ても、小柄で色白なひな人形のような美貌である。

 一方で、私生活では千代八を立てる日々を送っており、楽屋では千代八が熱演してできた傷や切り傷の手当て、身の回りの世話を行っていたという。

 昭和に入り、吉本が漫才路線を確立すると、大看板として入社。花月系の劇場で人気を集めた。その頃の人気ぶりは『ヨシモト』などで確認できるほか、レコード吹込みもしている。

 1938年に巻き起こった新興演芸部引き抜き事件には特に関与することなく、吉本の大御所として君臨。夫と共に、放送に出演して古典萬歳を披露するなど、八面六臂の活躍を見せた。

 然し、太平洋戦争の悪化や吉本の劇場閉鎖に伴い、一線を退くようになる。その背景には千代八の老衰もあった模様か。

 戦後はこれと言って舞台に出る様子もなく、1952年に夫の千代八が死去。この前後には関西演芸協会にも参加せず、独自の立場をとっていた模様。

 それからしばらくして、芸能界に復帰。2代目松鶴家千代八を襲名。1950年代後半に吉田茂とコンビを結成。嘘のような取り合わせであるが、これで数年やっていたのだから見事なものである。

 1961年9月、桜川末子とコンビを結成。同月中旬、角座の中席興行で初披露目を行っている様子が『松竹七十年史』からうかがえる。ただ、「新コンビ 桜川末子・有明千代八」と変な明記になっている。どうしたもんだろうか。

 その後は、角座を中心に松竹芸能の大御所として君臨。男勝りで恰幅のいい末子と並んで、華奢で甲高い声のコントラストがよく受けた。両人ともに、芸達者で年季があるだけか、諸芸尽くしの「萬歳」が売りで、戦後のリバイバルブームにも乗じて、人気を集める事となった。

 中でも「山中節」「博多小女郎」といった音曲は大当たりで、「送りましょうか、送られましょうか」と歌うと、末子が「送ってもらえ、孫に墓場まで!」と毒づくのが定番のネタであった。

 その他にも、末子の饒舌にあわせて見事なばちさばきを見せる「数え歌」、自身が太鼓を受け持つ「江州音頭」、時には剣舞を一刺し舞うなど、非常に芸幅の広い芸人として知られた。

 その古風さ、巧みさは市井のファンのみならず、多くの同業者、好事家を唸らせ、永六輔、小沢昭一、桂米朝などは末子・千代八の熱心なコンビであったと聞く。

 上記の通り、経歴が古いだけに、晩年は「三曲萬歳」「御殿萬歳」といった古風な萬歳の再演、復活に一役を買った。

 1971年9月13日、読売テレビで放映された『上方芸能シリーズ こんな漫才もあった』に出演。

 三曲萬歳(アイナラエ)
( 鼓 )浮世亭夢丸 河内文春
(三味線)桜山梅夫 松鶴家千代八 尾乃道子
(胡 弓)浮世亭出羽助
(太 鼓)桜川末子 桜津多子

 漫才 桜川末子・松鶴家千代八
 浪花節『雪月花三人娘』廣澤瓢右衛門 

 1972年、桜川末子が上方お笑い大賞に選出される。さらに同年ゲストで出演した「桂小文枝独演会」における漫才の演技が高く評価され、「芸術祭奨励賞」を受賞。

 名実ともに上方漫才の長老として君臨、睨みを利かせたが、この頃から末子は眼病、千代八もまた体調不良に悩まされるようになる(一説によると癌だったという)。

 会社や関係者と協議の結果、引退を決意し、1974年10月に新世界新花月にて引退興行。同公演には吾妻ひな子、桂米朝、今いくよ・くるよ、海原千里・万里、三遊亭小円・木村栄子、秋田実といった多くの芸人・関係者が駆け付け、名人の引退を名残惜しんだという。

 千代八も末子に従って引退。その後は市井の人として隠居をしていた模様であるが、1980年代に岡山へ行ったらしく、『相羽秋夫の演芸おち簿ひろい』の追記に「その後 末子没。千代八は岡山に在住」と記載がある、その時には、すでに80近く。結構な長寿で没した模様である。

 

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