宮川小松月・美津子

宮川小松月・美津子

 人 物

 宮川   みやかわ 小松月こしょうげつ
 ・本 名 ??
 ・生没年 1913年~戦後?
 ・出身地 ??

 宮川   みやかわ 美津子みつこ
 ・本 名 ??
 ・生没年 1915年~戦後?
 ・出身地 ??

 来 歴

 戦前活躍した漫才師。二人は実の従兄弟という珍しい間柄を持ったコンビであった。

 小松月は幼い頃から物真似がうまく、美津子を誘う形で少年漫才師としてデビュー。『サンデー毎日』(1936年11月1日号)の『笑ひの人国記』の中に、

 宮川小松月に美津子と云ふ吉本で一番若い従兄妹同士の漫才もある。
 この御両人、廿三歳と廿一歳で、小松月がとても物真似がうまいところから、万才になり、いとこの美津子をさそつてコンビになったといふ変りもので、一流万才師の癖をやらせると絶品、そのかはり、親兄弟が見に来ていると、がつかりしてまるでやれないさうである。

 とある所から年齢を逆算した。

 デビューは古く、『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』に「宮川セメンダル・小松月」として出ている所から、それ以前からやっていた模様である。当時小松月は、15歳。美津子は13歳。ラブライブもびっくりである。

 相方のセメンダルは美津子の前名で愛称だという。なおセメンダルとは「セメント樽」の愛称で、戦前大柄の人の事を揶揄する時にこう呼んでいた。今日の「マシュマロ」的なそれであろう。

上方落語史料集成』を見ると、1934年春までセメンダルの名前で寄席に出ている様子が確認できるが、同年9月から美津子になっている。理由は不明。

 この頃の紹介が『ヨシモト』(1935年9月号 66頁)に掲載されているので引用しよう。

小松月君のこと

 先ン達つての北の花月倶楽部からの中継放送の時、美津子君は小松月君の風貌を評して、
「……眼は近いし、耳は遠いし、歯は抜けているし、顔つたらぼうとしてゐるし、背と云ふたら大人とも子供とも区別がつかんし。……」
と、散々客を笑はしてゐたが、正にその通り、小松月君は實に愛すべき倭漢です。

 宮川小松月、宮川美津子。――二人は二つ違ひの従兄妹同士、十二の歳に始めて一緒に舞台を踏んでから、既に十餘年、吉本興業での最年少者の一人だらう、二人の愛称は美津子がセメン樽、小松月は松ちゃん。
 曾つてマーカス・シヨウが吉本興業の手で大阪歌舞伎座で開演された際、耳の遠い眼の近い小松月君は、這入らうと思へばタダで這入れるのに、特等の入場料を拂つて一番前で舞台をじつと睨んでゐた、そんな挿話がある。
 小松月君はしかく舞台熱心だそして器用だ。論より證拠、彼の舞台を見給へ、時たま演る人気漫才の真似、エンタツ、十郎雁玉分けて八千代・千代八の身振りの堂にいつた面白さ。
 が、彼の器用なのはそれだけではない。いつ何処で稽古したのから画も字も仲々巧いものだ。

 とある。以来、吉本興業の花月系の寄席・放送などで活躍。レコード吹込みもしており、テイチクから『気の小さい女』を出している。

 1935年7月31日 北新地花月倶楽部から『鼻唄キャンピング』を放送。

 1936年12月26日 京都花月劇場から『気の小さい女』を放送。共演者は一輪亭花蝶・三遊亭川柳、橘家太郎・菊春、横山エンタツ・杉浦エノスケ。

 1940年頃、美津子とのコンビを解消し、小松月は中村力三なる人物とコンビを組んで、出演している様子が、上記の『上方落語史料集成』や『近代歌舞伎年表』などから伺えるが、理由は不明。中村力三は、隅田川五月とコンビを組んで、浪曲漫才をやっていた。

 美津子は、相方を戦争にとられた同僚の都家文路とコンビを組んで女流漫才をやっていたことがある。

 小松月は戦後まもないころまで漫才師として活躍している様子が、『近代歌舞伎年表京都編』などからうかがえる。以下は同著の引用。

1946年9月16日~花月劇場  まんざい 小松月・勝若

 勝若は高田勝若だろうか。

 然し、これ以降の消息は絶え、再び吉本が漫才に力を入れるようになった後も、復帰することはなかった。市井の人になった模様か、夭折したかのどちらか。

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