都家駒蔵・花菱蝶奴

都家駒蔵・花菱蝶奴

晩年の都家駒蔵

 人 物

 都家みやこや 駒蔵こまぞう
 ・本 名 田中 宇一郎
 ・生没年 1902年~1970年代?
 ・出身地 ??

 花菱はなびし 蝶奴
ちょうやっこ

 ・本 名 上田 カメノ
 ・生没年 1901年~1961年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。男女コンビであるが、夫婦ではなかったという。駒蔵は「飴売り唄」を筆頭に、物売りの唄や物真似がうまく、小沢昭一『日本の放浪芸』に採録された。ある意味、異色の漫才師である。

 駒蔵は荒川ラジオの門下生。荒川ラジオは荒川千成の門下生なので、孫弟子にあたる。若井はんじ・けんじの両親、荒川久丸とは同門であったという。ラジオ・久栄に関しては別項を記す。

 元々は「荒川小ラジオ」といって、ラジオ一門で巡業していた模様。生年は「笑根系図」より導き出した。

 1930年代前半には、若松家正蔵時代の山崎正三とコンビを組んでいたそうで、『国立劇場演芸場』(1983年11月号)の『芸人・てんのじ村(Ⅳ)』に、

当時、山崎さんは若松家を名乗り、都家駒蔵さんを相方にしていた。結婚後は駒蔵さんに代って文路さんが相方に起用されたが……

 とある。この時は、若き日のミヤコ蝶々の一座に入っていたという。正三・文路とのコンビ結成は、1934年なので、それまで組んでいた模様。

 正三とのコンビ解消後は、桂かん治なる男と組み(噺家出身か)、籠寅興行に所属。神戸千代廼座に出演するようになる。西条凡児がその頃の印象を残していて、その手記を『凡児無法録』でみる事ができる。以下はその引用。

桂かん治 都家駒蔵 兵隊万才、私は兵万は嫌いだった。かん治君は色気充分で二葉館や湊座へ出ばってどんな女でも作った。エロ話、実演もよくやった。あまり真にせまって、汚い感じがした。またヌエの様な性格の人だった。嫌いだ。 芸児君の尻をかいて、第一回芸児凡児の別れ話の糸口をつけた、功労者。高座が済むと木綿の荒いシマの上下で、よく新開地をウロウロした。長身だった。上官をやっていた。

 駒蔵とは格別仲が良いわけではなかったようであるが、嫌いでもなかったようで、そのどこか間抜けた、奇抜な逸話を書き残している。

 駒蔵 背の低いどんぐり眼の男。よく飲む勿論只の酒の方が好きな人程阿呆みたいなところがあった。毎朝寄宿 (千代之座の東にあった。吉田大和丞氏の経営していた宿屋の隣三階建)の表で早くからラッパを吹く、高座で古賀少佐や常タチ丸で使うのだが夜の遅い芸人達には苦の種だった。ある日このラッパにローソクを流しこんで脱脂綿をつ めた犯人がいた。駒蔵先生これを知らず舞台に出た。「上官殿」「うん、進軍ラッパを早く吹け」「ハイ」、ここでラッパで幕だが、どんなに吹いても鳴らない。真っ赤になって吹き立てたが息が詰まってやめた。とんだ切りである。さあ大事になって犯人を調べたが不明、後年芸児君の話では彼氏と寿々男君の仕業らしい。

 また、凡児や五条家菊二と同じ下宿先にいたそうで、

 この男のはその図々しさで逸話が多い。寄宿では二階の良い部屋を芸児君と五條家菊二氏とで借りていた。その上が駒蔵氏の部屋だ。ある夏の真夜中、ドシン!と云う物音と同時に天上からジャーーッと水が落ちて来た。さあ大変御両人慌てて三階へ行き彼氏の部屋を開けて見ると当時寄宿には南京虫が多かったので駒蔵先生、畳を上げて板の上に石炭箱を立て、その上に戸板を乗せて、 ベットを作り一ぱい機嫌で真裸で寝ていたが 寝返りを打ったとたんにドシンと床板の上に落ち、酔いざめ用の一升びんの水が倒れてジャジャ漏り。一尺以上のところから落ちて下に寝ていた者が驚いて上がって来ているのに、御本人グーグーといびきをかいていた。

 と無茶苦茶な逸話を紹介している。愛すべき奇人であろうか。そしてきわめつけの逸話二本。

亦こんな話がある。芸児君と共に合部屋をしていた頃彼氏(芸児)に三十四、五の日本髪のテリヤを連れた仲居風の中年増が出来た事があった。セコな肩くれで、おかずを炊いては小皿に盛って芸児君の部屋の戸棚に入れている。ところが早く済む駒蔵氏が先に戸棚を明けて何とも云わず食って、皿も洗わない、そのままどっかへ行く。少時して高座を降りた芸児君が戸棚を開けると汚れた小皿がある。洗っておく、 翌日、女が来る。「おいしかった?」「ハァー」、また昼から持って来る。また駒蔵氏が食べる。また彼が皿洗い。これは芸児君から聞いた話の一つ。

もう一つ、これはY談になりますがネ、その女史と芸児氏がその部屋でお昼、お昼ですぞ寄宿は、昼の方が人目がないので、よろしくやっている真最中、フスマをガラーと開けて、駒蔵君が這入って来た。大抵の人ならこの場合開けた方が体裁が悪く失礼とか何とかで赤面して出て行くところが先生ジィーッと見て出るどころか、ノソリと這入って来た。行動最中の芸児君何ともカッコウがつかず困っているとその枕元へ来て ドシリと座った駒蔵君、二人の顔をジロジロ見て「何してんのん………」おしまい。

 とぼけた風貌をしている駒蔵がとぼけたことを言って見せるのが、どこかおかしく、儚い。

 妻は花柳流の踊り手だったそうで、喜味こいしの妻の師匠であったという。『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』の中に、

米朝 ブラザーズって、女性が二人入っている(笑)
こいし いましたがな。柳ちゃんとうちの嫁が。漫才で都家駒蔵っていてましたやろ、「あめ屋の駒蔵」。あめ売りのモノマネをする。
米朝 テキ屋の?
こいし そうそう、それの嫁はんみたいなのが昔漫才をやっていて、その人が花菱の踊りの流れで、踊りを教えていた。それでな、うちの話になるけどな(笑)うちの嫁はんが今里の鉄鋼所の娘で、そこへ踊りを習いに行ってたわけや。それで若いのがいるからというのでやな、引っぱって来た。 それがいやァ、なれ初めや。なんで俺の(笑)
上岡 さすが青春ですね。青春ブラザーズ(笑)

 とある。蝶奴ぽくもみえなくないが、後年離婚でもしたのだろうか。

 蝶奴とコンビを組んだのは、敗戦前後か。

 相方の蝶奴は、元々、千歳米紫という人の弟子で、「岡本小八千代」といったらしい。師匠の米紫は名前からして、明治期の女優、千歳米坡の弟子だろうか。

 後年、荒川ラジオの門下に入り、「花菱蝶奴」。なお、駒蔵とコンビを組んだものの、夫婦ではなく、本名も居住先も全く別々であったというのだからおかしい。

 敗戦後は、細々と巡業や端席で活躍していた模様か。1952年に、関西演芸協会に所属している様子が、当時の名簿から伺える。

 戦後、兵隊漫才が出来なくなった関係からか、「売り声」や「タンカ」を漫才の中に練り込む不思議なネタをやっていたそうで、楽屋では「テキ屋の駒蔵」「テキ屋」と綽名されていたという。

 1960年代には第一線を退いていたようではあるが、芸人たちの交友はあったようで、放浪芸を探しに大阪へ来た小沢昭一と対面し、「飴売り」の唄を披露。その声は今もレコード、CDで聞くことができる。

で、ちょっと話を寄り道させますが、飴売りには唄が付きものなのか、流しでない飴の販売の時にも唄をうたいながらやったようで、大阪漫才の都家駒蔵さんから教えてもらったのがこれです。駒蔵さんはこの飴売り唄を漫才にはさんで人気がありました。

 少なくとも『日本の放浪芸』が出る、1971年頃までは健在であったのは間違いない。

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