砂川菊丸・照代

砂川菊丸・照代

売れっ子時分の二人

最晩年の捨丸

 人 物

 砂川すながわ 菊丸きくまる(二代目 砂川捨丸)

 ・本 名 宮地 ?
 ・生没年 1900年~1978年以前?
 ・出身地 兵庫県 神戸市

 砂川すながわ 照代てるよ

 ・本 名 宮地 初江
 ・生没年 1906年~1980年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 俗にいう幻の「二代目砂川捨丸」である。師匠から正式に名前を譲られながらも、師匠の捨丸が舞台へ復帰してしまった為に、遂に埋没してしまった、という悲劇の漫才師で知られる。

 戦後の不遇の扱いから、第一線からドロップアウトしてしまい、詳しい事がわからないのが大きな問題であるものの、有難い事に、桂米朝『上方芸人誌』や『ヨシモト』に僅かであるが、経歴が出ている。

 桂米朝『上方芸人誌』に掲載された『サイドインタビュー二代目砂川捨丸』によると、菊丸の出身は神戸。早くに親を失ったのか、製鉄所を営む兄貴の元で世話になっていたそうであるが、役者を志し、16歳の時に家出をして上京。然し、夢かなわず、帰郷をし、ぶらぶらしていたところ、砂川捨丸と出会い、21歳の時(1921年頃か)に入門。兄弟子の浮世亭夢丸が名乗っていた砂川菊丸を襲名する。

 以下は『上方芸人誌』の引用。

 ――初代のところへ弟子入りなさったのは。

 わたし明治三十三年に神戸で生まれまして、兄貴が鉄工所をしてたもんやさかい、そこで働いておりましてん。そやけど兄貴のもん持ち出したり、そこらの道具売り倒したりして、それがバレかけたんで、電話を抵当に金借って東京へ逃げましてん。

 ――おいくつのときでしょう。

 十六歳の時だ。それで東京で何やらいう役者はんに弟子入りにいたら、「君はからだがこまい。役者役者というけれど、役者いうのはからだがないとむずかしいもんや。それくらい芸事が好きやったら、ひとりでやる芸を考えなさい」いうて意見されて、また神戸へ帰ってきた。

 ――で、初代のところに……。

 神戸で漫才を見にいったら、師匠が出たはりますねん。そのボチボチやる芸が好きやなと思うて、しかも漫才やったら相方さえ見つけてきたら、まあひとりでやるようなもんやし、いっぺんやってみたろという気になって、しばらく素人でやってたんです。そしたら「あんた、捨丸さんによう似とる。弟子になったらどや」いうて世話してくれる人があって、それで東京で会うて、師匠と奥さんに正式に盃もらいましてん。わたしが二十一くらいのときでしたかなぁ。

 照代の前歴は不明であるが、やはり砂川捨丸の門下に入り、照子と名乗っていた。生年は『笑根系図』、本名は『日本演芸家連合名簿 1978年度』より割り出した。

 入門して修業後に独立、菊丸と照代は結ばれて、結婚。コンビ結成年等は不明であるが、1927年12月、弁天座で行われた萬歳大会『全国萬歳座長大会』に出演している。

『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』に「砂川菊丸・照子」とある所から、大正末期にコンビを組んだ模様。

 戦前は、師匠・捨丸と吉本興業の威光もあり、決して悪い待遇ではなかった。師匠譲りの多彩な芸で、独自のポジションを築き上げ、人気漫才師の一組として奮闘。

 その活躍が認められてか、レコード吹込みも多数行っている。初吹込みは、昭和7年6月『深川くづし・春雨替歌』とのこと。(『レコードコレクターズ』1994年6月号)

 師匠にはさすがに及ばぬものの、「口合戦」「都々逸深川くずし」「都々逸草津節」「しゃべくり」「菊丸のマネキン」「ドクトル菊丸大津絵」「唄くずし」など、25枚ほど吹込みがある、とレコード研究家の岡田則夫氏から伺った。

 1935年、娘の節子が誕生。この子は、日本チャップリンの弟子となり、曲芸師となった。不遇の両親に代って、早くから角座や浪花座などに出演し、派手な技芸で人気を得ていたが、漫才の玉松キャップと結ばれ、時計屋になったという。

 空襲が激化する前までは、花月劇場を中心に吉本系の劇場に出演。当時の一流スターや人気漫才師に混ざって、一枚看板をあげているのだから、人気はあったのだろう。

 1937年に発行された『ヨシモト』(5月号)では、「菊丸照子を讃ふ」と冠された激励文まで出ている。当時の芸風がよく伝えているので引用。

 ところが多くの漫才師の中に、近頃益々油の乗って来た菊丸照子の一組が居る事は實に愉快な事である。この二人は二人共に漫才をしてゐる。菊丸が道幅の事を話すと照子も同じ仕草をするお客と喧嘩するとケシかけて引ずり廻す、貫一が走つて来るとお宮は足拂いひにかけて蹴倒す、舞台一杯に二人が活躍して形を差したり先くぐりしたりする者がないからお客は涙を出して爆笑する。
これが本當だ、これでこそ二人で舞台に立つ甲斐があるといふものだ。

 多くの漫才師は藝を生のまゝで出す 浪曲とか小唄とか、それを漫藝化しないで其まゝ出す。芝居の眞似でも「ヤゝ雛菊とは眞赤な偽り、そちや漫才屋のペチャ子であらうがな」などと「落し」によって笑いを誘ふだけで、前後は生のまゝで見せやうとする、これで何かしら空隙が出来て面白くない、
 漫才は飽くまでも漫藝を持って構成されなければならぬ。此の點に於て菊丸照子は藝を生のまゝ出さないで、完全に漫藝化してある。しかも二人共ワザとらしい處がなく、或は又いやにすまして喉の静脈を怒らせて歌を唄ふといふのでもなく、極めて自然に腹からの漫藝となつてゐる。トンボをきつた蹴倒れたり、實によく身體を使つてあるがそれで頓狂らしいところは少しもない八の力で十に見せやうとすると無理が目立つ、あれだけ動いて自然に見えるといふのは底知れぬ熱を腹の中に入れておるからだ。
 今の大阪で菊丸照子の漫才は一番面白い、さうして之が漫才藝術の本當の通であらうと私は思ふのである。

 ここまで激賞されるのは、やはり腕と実力があった証拠である。後年の零落が嘘のように思える。

 戦時中、空襲や統制で職場や劇場を失いながらも、活躍を続け、砂川捨丸によく仕えた。敗戦直前に、捨丸に恩義を尽くしたことにより、二代目襲名の約束が与えられる。

 1945年2月、吉本の慰問部隊の一員として、激化する敵襲の中を潜り抜け、満州を巡業。一切大きな事件もなく、行きも帰りも無事に使命を達成できたのは強運としか言いようがない。しかし、帰国後の彼らを待ち受けていたのは、大阪大空襲で焼き尽くされた町であった。

 以下は、『吉本八十年史』の一節。

 まず、満州の軍隊、軍属、一般日本人慰問のため二月二十五日大阪を出発した。本社々員長谷川政治郎の引率による次のメンバーで慰問団を結団した。浪花家市松・芳子、砂川菊丸・照子、千歲家今男・立花家幸福、鈴木鈴若・花柳小鈴らである。この一団は、満州鞍山製鉄所を皮切りに、大連(現旅大)、奉天 (現瀋陽) 、 新京(現長春)通化等を巡演していた。  
 彼等が出発した後の三月十三日午後十一時、B29九十機は、三時間の波状攻撃で焼夷弾六万四千八百発、機銃掃射も交じえての爆撃を行った。これにより、浪速区を中心とする周辺十三万世帯に五十万人近い被災者を出した。この慰問隊が、こうした焼土大阪に戻ったのは四月十五日、その悲惨さに呆然とするのみであった。

 戦後、捨丸は名古屋にいた後妻と共に暮らし、半隠居生活のような形を送っていたため、花月亭九里丸や浮世亭夢丸が、上手く話しを持っていき、襲名へとこぎつける。それで二代目を襲名したものの、捨丸が大阪へ戻りカムバックしてしまった為、二人捨丸という厄介な状況に陥ってしまった。

 以下は『上方芸能誌』で語った襲名の経緯。

――では、二代目を継ぐようになったいきさつを聞かせてください。

戦時中、師匠は神戸に住んではったんですが、空襲にやられて、何もないようになってしまわはったんです。北海道へ巡業に行かんならんねんけど、着ていくもんも、舞台着も、何もあらへん。その話を聞いて、わたしの家はその時分、まだ焼けてえしまへんなんださかい、「わたしの衣裳みんな持っていったげまっさ」いうて、嫁はんと二人でリュックサックにつめていったげましてん。そしたら師匠、よろこんでくれはりましてな。鏡の前で服を着てみて、「あっ、この服どうや、合うてるか。ちょっと見てくれや」いうてこっちを向かはったら、ポロッと涙こぼしてはるんです。わたしももう胸がいっぱいだ。師匠が涙をこぼしながら、「ええわ、合うわ」というてよろこんでくれはった、そのことだけで得心して、わたしもよろこんでましてん。ところが師匠はあとで、このときのことを弟子連中に話して、「あいつに助けてもろうて、ほんまにうれしかった。わしはこれから満州へ行くから、もしものことがあったら、わしの名前をあいつに継がしたってくれなあ」といわはった。 

 ――それで、初代は満州行かれたんですか。

 行きはったと思います。行って、帰ってきたら終戦だ。それで師匠が「引退する」といい出さはったもんやさかい、兄弟子たちがわたしに二代目を継ぐ話を持ってきた。わたしは兄弟子もいることやし、第一、名前が大きすぎるし、なんべんも断ったんでっせ。「いやや」「早すぎる」いうて、一カ月くらい居直ってました。そやけど結局は芸風もよう似てるからということで、兄弟子たちに盛り上げられた格好で二代目をもろたんです。名びろめ興行は和歌山の有楽座とかいう劇場で、二代目を継いだという口上をちゃんと書いて、 三日間やりました。 

 ――ところが……。

 ところが、世の中が落ち着いてきて、心斎橋をちょっと入ったところに戎橋松竹という劇場ができましてね、師匠がそこへ「まあ出てみんか」と誘われて、出やはったんですわ。そしたらやっぱりおもろいということになって、それからはあっちからもこっちからも声がかかって、放送局もいうてくるわで、師匠がまたパアーッと盛り上がった。それで退くに退けんようになってしもうた。わたしらにも「劇場へ出えへんか」という話もあったんですけど、「捨丸が二人やとややこしいから、前の菊丸で出てくれ」というんです。そやけど、いっぺん名前を継いでまた元に戻ったら、「やっぱり続かなんだ」といわれる。それでは男が立たんからいややいうて断ったら、もう働くとこあらしまへん。

 但し、これは菊丸本人の謙遜や師匠や兄弟子たちへの複雑な思いも絡まっているため、何処まで正しいのか判らない。

 第三者的の説明で一番優れているのは、吉田留三郎『まんざい風雲録』の二代目捨丸の記載であろう。

 誰の顔にも生気が蘇ってきた。この中に片江から移ってきた捨丸の高弟の砂川菊丸もおった。すでに彼は我松の常連となっている。しかし師匠の捨丸は巡業に歩いているとも神戸に帰って来たとも、その動静について、なんの消息も天王寺村の情報蒐集所にはいってこない。ここに戎松の常連から話が起こって、捨丸の一番弟子の浮世亭夢丸、花月亭九里丸なんかが言い出し兵衛となって、 今、この演芸景気の登り坂の時に、菊丸に二代目捨丸を継がせてはどうかという論議が持ち上がった。勿論、捨丸がこのままに引退すれば、という仮定の上に立っての話である。 それで連絡を求めて捨丸に、その由、報告し応諾を求めると捨丸は気軽にこれをOKしてしまった。戦後は日本人の平均寿命が延びるとともに芸人の寿命も延びたが、その頃は捨丸の年くらいの芸能人が次々と引退する、というより自然に消えつつあったから、あるいは捨丸も、そのつもりだったかも知れない。まず、これで二代目捨丸誕生ということになった。この時、私は二代目と戎松の前の茶店でお茶を飲みながら直接に襲名の趣を聞いて祝福したのを覚えている。
 ここまでは、まず目出度し、目出度しでよかったのであったが、世の中が急速度で落ち着いてくるとともに、民放というものが生まれてきてラジオが爆発的な発展を見せてきた。そしてNHKの上方演芸界に捨丸も引張り出されることになった。そこは呑気なもので呼びに来られると気軽に出 演したものだから、二代目捨丸が浮いてしまうことになった。
 この時、二代目は再び菊丸にかえるか、捨丸が捨翁にでもなれば納まったのであるが、捨翁なんて楢山節みたいで変だ、と言ったかどうかは聞き洩したが、ともかく砂川捨丸、初代二代が併立することになってしまった。それに二代目捨丸こと菊丸は芸界でも、ちょっとヘンコツと言われているだけに旧名に戻ることは潔しとしないが、といって時代の変化による師匠のカムバックも理解できないわけではないので、ここで綺麗さっぱり、大阪、神戸など大都会での出演は断念してしまった。
 二代目捨丸、現在も「天王寺村」と言われる山王町に居を構え、スシのような存在になっているが、捨丸が近くのジャンジャン町の新花月に出演した時は、行って、この二代目の家に泊って麻雀など和気アイアイとやっていたものだった。鈴蘭台で捨丸の息子の四郎が死んだ時も二代目はモーニングをつけて先頭に立って甲斐甲斐しく葬式の世話などしていたのを思い出す。
 漫才ではないが、近頃、襲名に何億円もの金を使ったとかいう風説を耳にする。結構なことではあるが、五億円というのは何か変な気もする。大体、襲名というやつは、この場合に限らず、どうも奥歯に物の挟まったように何か割り切れない。捨丸二代目の問題についても同じことであるが、 その後も二人は何のトラブルを起こすこともなくしごく仲よくやっているところに、私などの考え 及ばない芸人道というようなものがあるのではないか、と、ちょっとそんな気もするのである。

 また、桂米朝は『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中で、下のようなことを述べている。ただ、これは少し楽屋すずめの姦しさがある気がしなくもない。

米朝 二代目の捨丸さんはもともと砂川菊丸というてた。初代の捨丸さんは戦前、借家をたくさんもっててンけど、空襲で皆焼けてしもた。土地から もってたらたいしたもンやってンけどね。それで財産がないようになってしもた。あの大インフレの時代に。その時に、この二代目が大変面倒を見てくれたので、「お前に二代目をやる」というこ とになって、大阪府下を廻って襲名披露をやった。初代が口上をいうてね。
上岡 それで、初代はどうしたンですか。砂川捨翁になるとか(笑)。
米朝 引退するというてね。ところがその初代の捨丸さんを戎橋松竹へ引っぱり出したら、これ が珍しいし、客は呼ぶしね、大爆笑になる。それで本人も、「財産もなくなってしもたし、ちょっとだけ稼がせてくれ」。そしたら十年経っても十五年経っても名前を譲ってくれへん。周りも気を使って、砂川菊丸の名前でやるンやったら、ラジオでもテレビでも出すようにする、というンやけど、「わしも一ぺん襲名披露までしたのに今更、菊丸ではよう出ん」と意地を張り通した。
上岡 気の毒にね。
米朝 「和朗亭」に二代目捨丸で出てもうたことがあるけど、そらもうズゥーーッと舞台をやってなかったからね、世間からズレてしもてるわね。
初代の捨丸さんは、大正時代から紋付袴姿で鼓をもったスタイルで死ぬまで通した。ヒゲをつけてね、あのヒゲは染めてたらしい。戦後間なしにアメリカへ巡業に行った。そしたら税関で調べられた時に、鼓やとかね、帯やとか、袴やとか相手にしたらわけの分らんもンが出てくるわけや(笑)。「これ何をするもンですか?」。ゴタゴタゴタゴタ揉めてる時に捨丸さんが側へ行って、「ジ ャパン、チャップリン!」というたら、「オー!」と一ぺんに通った(笑)。こら芸人やということが分ったンやろうね。

 これだけの仕打ちを受けながらも、菊丸は師匠に対する尊敬の念を変えることはなく、師弟関係は良好で、捨丸はしょっちゅう菊丸の家に顔を出しては夜通し麻雀を打ったり、食べ喰いしたり、と捨丸の死まで途切れることはなかった。

 然し、師匠の復活は、菊丸を檜舞台から遠ざける運命を位置付けることとなった。ある意味では、師匠の代わりに自らを犠牲にしたといえよう。

 砂川菊丸改め砂川捨丸、妻の照子も、「照代」と改めたが、パッとする事はなかった。少ないギャラや仕事では生活は当然成り立たず、闇のような仕事もしたという。以下は『上方芸人誌』で語った苦労話。

 ◎そして苦労がはじまった

 ――それが苦労のはじまりですね。

 そらもう、いうにいえん苦労ですわ。芸人でこない苦労したもん、いてしまへんやろ。わたしの家も空襲にやられたんですけど、着物やら衣裳は疎開さしてましたさかい、焼けんと残ってました。そやから、まあ 初めのうちはそれを食いもんに変えて、どうにかこう にかやってたんですが、しまいに交換するもんがない ようになってしもたから、もうどうしようもおまへん。食いもんのうて、麦のおかゆ食いましたわ。もうのう て、食えたもんやなかったけど。

 ――お仕事は全然なしですか。

 劇場へは出まへん。ときどきは農村の慰問やとか工場の慰問やとかに行きましたけど、そんなんではとてもやっていけまへん。それで、炭の買い出しに行きましてん。電車賃を段取りして、二百五十円いりますねん、炭買うてきて売ったら千五百円かしらんになります。そやけど、うまいことばっかりいくとはかぎりま へん。警察に見つかりそうになって、ひっかかったら つまらんから、かついでた炭をペアーッと放って逃げて、あとから取りに行ったら、もうあらへんかったり ……情けないやらあほらしいやら、なんぼ涙こぼしたか判りまへん。 

 ――そんな生活がズーッと……。

続きました。あるときなんか、炭をかついで電車にパッと乗ったら、雁玉さんが乗ってはりますねん。わたしはあわてて後ろ向いて顔かくしましたけど、あのときはつらおましたでェ。 

 ――いつごろまでお続けに。

 三本松というとこへ巡業に行って、帰ってきてから、 またその近くの村へ炭買いに行きましてん。ほんなら、わたし見つけられてしもうて、「あんた、こないだ舞台に出てはったんとちがいますか」といわれたんですわ。わたしは「いいえ、ちがいます」というて騙しとったんですけど、次の日に行ったら「ああ、やっぱりそうや」……それで、こんなことしとったら二度と漫才やれんようになるからやめよ、いうてやめたんです。 

 ――名前を返したいと思ったこともあったでしょうね。

 そら、ありました。わたしらだけやったらともかく、子どもまで苦労せんならん。こんなんやったら二代目を継ぐのやなかったと思いました。やめたろかとも思いました。そやけど意地や。やっぱり辛抱せなしゃあないと思うて辛抱しました。

 地方巡業や慰問など、決して待遇のいいとはいいがたい仕事を淡々とこなしながら、辛抱の日々を送った。不貞腐れずに漫才を続けられた背景には、てんのじ村の芸人たちの人情や周りの人の支援があったそうな。

 その中で出会い、信心とコレクションをするようになったのが、達磨さんである。以下は『上方芸人誌』で語った、そのコレクションの由来。

 ――達磨さんを集めていらっしゃるとか。

 達磨さんは手足がくさるまで辛抱しやはった。わたしはやっぱり勉強が足らん、達磨さんみたいに、手足のくさるまで勉強せなあかん、そう思いましてな。

 ――何かきっかけでも。

 近くにパチンコ屋がありますねん。そこへ、仕事もあらへんし、パチンコしに行ったんですけど、ゲンクソの悪い、全然入りまへん。負けてばっかりや。それで、「こんな入らんとこ知らんわ」いうてボロクソにいうたつたら、それが聞こえたらしい。次の日にまた行ったら店の子どもが、「何番へ行きなはれ、そこやったらよう入る」と教えてくれた。で、そこでやってみたら、よう入るんですわ。隣の人は入らへんのに、こっちはジャラジャラ出てきよる。そのパチンコ屋の子どもが、正月に達磨を売りにきよったんだ。

 ――それを買って……。

  何気のう見とったら、フッとさっきいうたように、達磨さんは手足がくさるまで辛抱しやはったことを思い出した。それからポツポツ集めて、おがみはじめましてん。すると、不思議なことがおましてね、わたしの娘が曲芸をやってましてん。いまはもうやめてますけど。その娘が自動車の助手席に座って、後ろの席にも芸人さんが女の子ばっかり座って走ってたら、前からきた自動車と正面衝突してしもた。そのとき、娘の頭にパーツとこの達磨さんが映ったというんだ。それでほかの人はみんな怪我したんですけど、娘だけは持っとったアコーデオンの角で、足のところをちょっ と怪我しただけ。達磨さんを一生懸命に集めはじめたのは、それからのことですわ。

 達磨は増え続け、死ぬ直前には2000以上のコレクションができ上っていたという。

 1971年4月5日、NHK『新日本紀行』で天王寺村が取り上げられ、捨丸も出演。自慢の達磨のコレクションと、生涯の趣味であった将棋を、仕事仲間の吉田茂(政治家ではない)と打っている様子が確認できる。村の中では実力者であったそうだが、吉田茂にはかなわなかったという。

 師匠の砂川捨丸が亡くなった後、正式に二代目として認められ、徐々にスポットライトを浴びるようになるが、もうその時には病がちになっており、これという活躍は出来なかった。

 それでも、1975年3月22日に放映された、『和朗亭』に出演。同回は「捨丸三回忌」と称した追善興行を模した番組で、兄弟子で前名の菊丸を名乗っていた浮世亭夢丸と再会している。以下は、『ワッハ上方』で採録した出演者一覧。

砂川菊丸・照代『古典漫才』
上方柳次・柳太『漫才』
暁伸・ミスハワイ『浪曲ショー』
浮世亭夢丸・ひな子『神崎東下り』

 これはワッハ上方で見ることが出来るが、桂米朝が「「和朗亭」に二代目捨丸で出てもうたことがあるけど、そらもうズゥーーッと舞台をやってなかったからね、世間からズレてしもてるわね。」と述べたように時節から遅れた漫才になってしまっている。

 笑う以前に、辛抱を耐え続けた老芸人の哀れみたいなのが出てしまっていて、遣る瀬無い。漫才そのものは、古風な掛合の合間に、大きなガマ口や足に時計を巻いていて、それをちょいと見る、所謂大正期の漫才そのまんまの形をなぞったもので、最後に坊主の説教を茶化したものを演じていたと記憶する。この時の写真のワンカットが、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』に出ている。

 この頃には老体に鞭を打っていたようで、『上方芸人誌』の中で、「十年二十年くらい前やったらええけど、もう歳ですさかいなあ。からだの具合も悪いし、いまはもう敬老会やとか、余興をいうてきてくれやはったら、ちょっちょっと行くだけですわ。」と語っている。

「和朗亭」出演が冥途の土産になったのか、この後、数年も経たずに没した模様。『日本演芸家連合名簿 1978年度』に、砂川照代だけ本名と住所が出ている所を見ると、後家になった、と解釈すべきであろう(基本的にこの手の団体の名簿というのは、やめるなら一緒に辞める事が多いので、一人だけ残っているという事は、死別した可能性がすごく高いのである)。

 その後もしばらくてんのじ村で暮らしていたようであるが、旦那の後を追った模様である。

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