夏川左楽(四代目平和日佐丸)
秋山右楽・夏川左楽(左)
人 物
夏川 左楽
・本 名 広島 正夫
・生没年 1925年10月29日~1972年10月17日
・出身地 京都
来 歴
夏川左楽は戦後活躍した漫才師。秋山右楽、二代目平和ラッパと大御所を相手に活躍。名ツッコミ役として謳われたが、40代半ばで夭折した。
経歴は相羽秋夫『上方演芸人名鑑』に詳しい。
平和日佐丸(四代)へいわひさまる【漫才】本名広島正夫。一九二六(昭一)~一九七二(昭四七)
京都市生まれ。京都実業卒。一七歳で日活に映画俳優として入社。キャバレーの支配人を経て、昭二九年秋山右楽と夏川左楽の名で漫才界入り。平和ラッパと人気を博したが、次に平和日佐丸(四代)で平病気がちで解消。病後夏川宇津太の名で夏川加津太と再コンビを組んだが四六歳で病死した。三代目日佐丸も三六歳で夭逝。何かの縁か。
また芸能時代の経歴は『芸能画報』(1959年3月号)に詳しい。
左楽 ①広島正夫②大正11年10月20日③京都④日活より劇団を転々、ショウ「銀の鈴」編成後漫才師となる。
ただ、後述する享年を考えるとどうも「1925年生まれ」のようである。歌奴の圓歌の如く「若く見られると舐められる」と歳を増していたのだろうか。
元々実業高校に通っていたが、俳優を夢見るようになり、戦時中の最中、日活に入社。ちょっとした二枚目だったこともあり、前途も期待されたらしいが、戦争悪化などもあり廃業。
喜劇一座、楽団、ドサ回りの演劇――と転々としたが一向に芽が出ないこともあり、一時期廃業してキャバレーを経営。経営者として成功をおさめた。
1954年、相方と別れた秋山右楽に誘われる形で「夏川左楽」と名乗り、漫才師となる。右楽の人気や実力もあり、それ相応の看板で迎えられた。
1959年、かしまし娘、中田ダイマル・ラケット、浮世亭歌樂・ミナミサザエと並んで朝日放送と民放専属出演契約を結んでいる。
1960年、自動車事故に遭遇するも一命を取り留めている。今なら絶対に許されない飲酒運転での事故――というのだから時代を感じさせる。『郵政文芸特集』(1960年10月号)掲載の中田ダイマル「悪の会のこと」に――
「悪の会」といつても、悪人の集いではありません。酒ぐせの悪い者ばかりが集る会です。酒ぐせの悪い男といえばの夏川左楽君、この男は、行く先々の飲み屋から盃を失敬してくるのがくせで目下、家には三百個程集めて、コレクションとして喜んでいます。飲んで歩いては自家用車を乗り廻し僕もしばしば同乗させて頂いたことがありますが、実にもつて殺人的自動車です。
「おい、そんなに飲んでて大丈夫か、あんまり飛ばすなよ」と始終注意を与えます。
ところが、たまたま、神戸出演中、奴さん一人で飲み歩き、あげくのはてに居眠り運転、国道の西宮あたりで鉄骨の電柱に体当りして重傷、只今入院中。負傷した場所に外科病院、二、三軒向うに交番所、病院の向いが生命保険、お寺がなかったのが幸いでした。
上岡龍太郎と桂米朝の対談『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中でも――
米朝 日佐丸になって何かでケンカ別れした。
上岡 あの夏川左楽というのも変人で、
米朝 変っとったね工。
上岡 右楽・左楽の時代に自動車に乗っていて塀を壊してそのままにしていた。それをラジオの放送で、「今朝、壁を壊して来た」と喋ったら、「お前やったンか」(笑)。バレてしもうたという話がある。男前でね、ちょっと大友柳太朗風の感じでした。お母さんが亡くなられた時に、「夏川左楽の母親の葬式やからきっと人がいっぱい来るに違いない」と、大きなテントを建てさせたけれども来ない。仕方がないから集まった三、四人で、トッピンか何かバクチをやり出したら、本人がまたツイてなくって負ける一方で、そのうち側にあった香典の束を掴んではり出した(笑)。
皆が取るに取れンようになって、「もうやめよ」というて帰った(笑)。
とその奇人ぶりを語っている。
1963年に右楽とのコンビを解消。相方に死なれた平和ラッパに頼まれて「四代目平和日佐丸」を襲名。相変わらず大看板で出るようになる。
この頃の音源はいくつか残っているが、如何にも滑稽なラッパに対し、二枚目の左楽が受けるという凸凹振りで人気を集めたという。
一方、平和ラッパの強烈なキャラぶりに嫉妬したり、ラッパのリーダシップ的な姿勢についていけない所があったと見えて、喧嘩をしょっちゅうしていた。米朝も――
一ぺん、ラッパはんが全部一人でしゃべって、日佐丸さんにしゃべらせなんだことがあったわ・これはサーちゃん、夏川左楽の日佐丸の時にね、何かムカつきよったンやろうね、「これなあ、ああでこうでこうでああで……」って、ザァ――と。「よう知ってるな」「当り前じゃ、お前よりよう知っとるで」。ケンカをしてたンやろうね。
と、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』で語っている。
人気はあったものの、不仲は続き、最終的に両者の不満が爆発。
1968年末に平和ラッパとコンビ解消。その後は秋山右楽とコンビを再結成し、「夏川左楽」と改名。吉本へ移籍した模様。当時の梅田花月の番組などに名前が出ている。
1971年まで高座に出ていたが、右楽引退に伴いコンビ解消。
1971年、「夏川宇津太」と改名。「夏川宇津太・加津太」を結成。「打った、勝った」の洒落だろう。
再び松竹芸能部に所属し、中堅として松竹系の劇場に出勤をしていた。1971年9月、角座上席が初出勤だろうか。
1972年8月下席も角座に出勤していたが、間もなく心筋梗塞を起こし昏倒。吉田留三郎によると「1972年10月29日没、46歳」という。
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