小山慶司

小山慶司

 人 物

 小山こやま 慶司けいし
 ・本 名 森本 慶師
 ・生没年 1895年~1963年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 小山慶司は戦前活躍した漫才師。関東大震災以前より活躍、「野球節」と呼ばれる独特の漫才で人気を集めた。兎に角息が長い漫才師だったらしく、高度経済成長期まで活躍したというのだから大したものである。

 師弟関係と生年は『笑根系図』より割り出した。

 幼い頃に新劇の大山松太郎に弟子入り。子役として舞台に出ていたが、1909年、師匠に死なれたために廃業した模様か。

 その後は剣舞芝居にいたらしく、『上方』(100号)掲載の『剣舞芝居』の中に、

漫才師と轉向した者も亦澤山ある。漫才で始めて洋服を着て舞臺へ立った日本チヤップリンとウグヰス、林田五郎、松鶴家千代八、小山慶司、 秋山道樂、石津政雄、變った所では尺八の扇遊老も、劍舞師の流れである。

 とある。

 大正初期に漫才に転向した模様か。転向時期は不明であるが、一九二〇年代には既に一枚看板であるところを考えると、デビューは早かった模様。

 1923年12月、オリエントより早くも「万歳浪花節」を吹きこんでいる。

 1926年頃、林田五郎と共に吉本興行へ入社。色物として舞台に出るようになる。

 この頃既に「野球節」という芸を考案していたようでこれでたちまち人気を集めた。

 1926年7月、ニットーレコードより『野球節・からかさ』を早くも吹きこんでいる。

 同年9月、ニットーレコードより『大津絵・滑稽都々逸』を吹きこみ。

 また、『上方落語史料集成』によると、『大阪毎日新聞』(1926年10月31日号)に、 

◇一日よりの各席出番表 秋深し錦織る法善寺南地花月の霜月上席

 お馴染喬之助、清子、五郎、慶司の野球節、圓子の熱演、芝鶴、歌蝶の脱線振り、正光の手練の奇術、是等を濃淡とり〴〵の紅葉と見れば、それ〴〵特徴はあれど話術界の雄と許された右圓喬、文治郎、ざこば、圓馬は先づ緑濃き老松にも比すべきか。偖久し振りのろ山、小文治は何にか例ぶべき。その他数名──五色織り交ぜた法善寺花月のこの出番に、是非一宵の笑ひを買はれよ!

 とあるのが確認できる。

 1926年10月、ニットーレコードより『おつにからんだ・さのさ』を吹きこみ。

 1928年頃、五郎が柳家雪江とコンビを組み直すために解散。一説では「五色會と呼ばれる一座に移籍したからコンビ別れをした」ともいう。

 1928年11月に出された『柳屋』の「萬歳繁盛記」を見ると、

 小山慶司に林田五郎、『きょうのゲームに外野は不要……』と、例の野球ぶしの家元だが、慶司が五色会へ去ってから、二人が二人とも別々の意味で死んでしまった。惜しいことだと、あたしは思う。

 と批判されている。

 五郎とのコンビを解散後、弟の小山明とコンビを組んで、朝鮮巡業に出ている。

 朝鮮巡業時の新聞が残っており、その中に明の詳しい素性が出ていた。右は『朝鮮新聞』(1928年10月2日号)の引用。

野球節の元祖小山慶司一行の前人気は今や物珍らしさを好む満都の好劇家間に異常なる期待を以て迎へられ熱狂的前人気を博してゐるいよ/\一行は二日午前七時京城駅着列車で入京の筈で直ちにその夜から京劇の舞台に開演する事となつてゐる恐らく野球萬歳の持味の素晴らしさは必ずや一般の満足得る事確実でスポーツ時代と萬歳全盛の今時には見のがし難い一座である因みに神戸ダイヤ野球團の投手で早大出身の小山明も同行し座長小山慶司の弟して大いに頑張る筈で明の文化萬歳も独特の持味を賞さるゝであらうその他美人連数名の熱演はそれ/\素晴らしい好評を博すると期待され久しぶりに満都の好劇家は恵まれるのであらう

 早稲田大学出身で野球の投手をやっていたとは意外である。異色も異色の経歴ではないだろうか。

 帰国後、小山慶司は復帰して荒川歌江とコンビを結成――と思いきや、小山明とコンビを組んでいる時もあるので嫌らしい。

 当人は野球節が出来ればいいと思っていたのか、相方には固執しなかった模様。

 1929年9月4日、小山明・慶司コンビで、JOBKに出演し「俗曲四種」と称して漫才を放送。「万歳」と名乗れないのでこうなった模様。

 この頃、小唄志津子・南サザエという二人の少女を弟子にして一人前に育て上げた。この二人は戦後別々にコンビを組み、志津子は広多成三郎、荒川キヨシと、南サザエは浮世亭歌楽とコンビを組んで高い人気を集めた。

 1930年8月、ヒコーキより『夕暮れ・縁かいな』を吹き込み。これはyoutubeで聞く事が出来る。ボケが慶司、ツッコミが歌江でオーソドックスな音曲漫才である。

 1930年5月、千日前の三友倶楽部で行われた、観客による吉本興行所属の漫才師の人気投票に選出され五位に入賞。一位は花菱アチャコ・千歳家今男。二位は轟一蝶・日出子、三位は平和ラッパ・日佐丸、四位は芦の家雁玉・林田十郎、五位は小山慶司・歌江であった。

 1931年11月、ヒコーキより『降りてゆく』を吹きこみ。

 同年12月、ヒコーキより『脱線浪花節』を吹きこみ。

 1932、3年頃、吉本興行を退社し、なぜか東京漫才となった。以来、地方巡業と東京漫才の劇場が中心となって活躍をした。理由は不明。

 相方も、妻の森本コト、「小山琴路」と変わった。この人が一番長い相方であったという。

 どういうコネがあったのか、落語協会系の寄席に出演したほか、東宝笑和会にも何度か出演している。

 1940年に発足された帝都漫才協会では幹部に昇進。その後の再編帝都漫才協会、大日本漫才協会にも幹部として活躍した。

 1942年時点の「帝都漫才協会名簿」を見ると、第4部――浅草田島町に住いしていると記録されている。

 しかし、敗戦直前に帝都を襲った空襲や戦後の混乱で立ち行かなくなったと見えて東京を去った。

 その後の動向はハッキリとしないのだが、1963年の『出演者名簿』をみると、なんと九州にいて、「九州芸能協会」なる団体の会員になっている事が確認出来る。

 この団体も謎が多く、生き残りが殆どいないために分からない。しかし、東京オリンピック前後まで漫才師として舞台に立っていたのは本当のようである。

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