道和多比良・大津おせん

道和多比良・大津おせん

十八番のドジョウ掬い(右が多比良)

 人 物

道和みちわ 多比良たいら
 ・本 名 森 平三郎
 ・生没年 1899年~1973年6月28日
 ・出身地 大阪?

大津おおつ おせん
 ・本 名 森 タツエ
 ・生没年 1904年~没
 ・出身地 ??

 来 歴

 道和多比良・大津おせんは戦前戦後活躍した夫婦漫才師。奇術の手法を入れたどじょうすくいや数十本の扇を使う松尽くしなどを十八番にした。

 道和多比良の経歴は謎が多いが、元々は桂小米喬と名乗った曾我廼家満月の弟子で、「曾我廼家満平」という名前で喜劇役者をやっていたという。

 花月亭九里丸の『笑根系図回答綴』では「満月師より浅田家朝比奈師あずかられ一時橘家多比良と名のっておりました」とあり、浅田家朝比奈という漫才師の下で漫才に転身した模様である。

 しばらくの間、橘家多比良と称していたが、後に「道和多比良」となった。

 一方のおせんは元々東京漫才の大津お萬の弟子であったという。

 朝比奈一座にいたのか、「橘家若千代」という名前で高座に出ていたという。そこで多比良と出会い結婚。所帯を持った。

 その後はてんのじ村に移住し、主に旅回りで活躍した。古風な漫才の型を残す雑芸漫才を得意とした。

 1937年には森ミネオが誕生。この人は後に「ザ・ダッシュ」の原型となるスプリングボーイズを結成し、活躍する。

 戦後は松鶴家團之助興行の専属として地方まわりを中心に活躍。地方では相当な人気があったという。

 また、吉本興業の黎明期においてうめだ花月などにも出演した。

 十八番の松づくしとどじょうすくいは名品とされた。布部寸刀『百扇百話』に――

「高座芸能で扇子づかいの下手な芸人は多いが、”おせん・たいら”の漫才コンビも変っている。丸寸の舞扇四十二本を全身で受け止め、次々に飾りつけて、扇子のパレードを踊る。伴奏はお誂え通り”松の名所”。最後にパラリと為めになる標語を書いた一枚布を垂らす。扇は止めを利かした黒骨松づくし。すべて小道具的色調があふれ、寄席芸能のよき彩りとなっている。本数の多い点では正に日本一」

と激賞されている。また、どじょうすくいは奇術入りのものであり、「安来節を踊ってザルを動かすと、中からドジョウが出てくる」という見て楽しい芸であったという。

 上岡龍太郎は『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中で――

上岡 あの、道和多比良・大津おせんさんのどじょうすくいをうめだ花月で見ました。そうしたらどじょうがザルからジャバジャバ出てくる。
こいし これはザルの縁に仕込んである。これはビックリする。すくうてる時はあんまり感じひンけど、水槽のところへパッとザルをあけるとホンマにどじょうがおるもンね。

と語っている。

 しかし、晩年は息子の森ミネオが園花世と心中をして親を残して先立つ、多比良自身も体調不良に陥るなど不幸が続いた。

 その中でも巡業を続けていたが、5月の仕事を最後に日赤へ入院。ひと月足らずで息を引き取った。

『上方芸能』(1973年9月号)の雑報に――

☆六月二十八日、誰にも知られず、たいらは死んでいった。知ってか知らずかマスコミは黙殺。(中略)「松づくし」の名人・道和多比良が五月十二日の下市巡業を最後に、肝臓ガンのため日本赤十字病院で死んだ。享年七十四才であった。多比良は曽我廼家満月に師事、喜劇役者として出発したが、機を見て万歳に転向、以来妻おせんを相方に四十余年、「松づくし」に加え、生きたどじょうを客席からすくい取る「どじょうすくい」の二つを得意とした。もはや後継者はいない。その芸を惜しんで多比良の「扇」は捨丸の「鼓」、奴の「釣竿」と共に『天王寺村』に出来る予定の芸能文化保存会の手で永久保存されることになった。『天王寺村』はまた多比良が、おせんと共に最後まで暮した地でもある。

 と老芸人の死を追悼している。

 おせんはその後、芸能界を辞め、てんのじ村でひっそりと暮らしていたというが、昭和末に村を去ったか亡くなったかというそうで、消息不明となる。


 

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