市川歌志・泰子

市川歌志・泰子

市川歌志・泰子

(関係者ご提供)

 人 物

 市川いちかわ 歌志
うたし

 ・本 名 泉 金蔵
 ・生没年 1910年2月21日~1986年頃
 ・出身地 熊本県 山鹿市

 市川いちかわ 泰子やすこ
 ・本 名 泉 静子
 ・生没年 1920年1月2日~1991年頃?
 ・出身地 岡山県 岡山市

 来 歴

 市川歌志・泰子は戦前戦後活躍した夫婦漫才師。歌志がギター、泰子がボンゴという不思議な取り合わせで民謡や浪曲を唸る独自の音曲漫才を展開した。一部文献では「いちかわ・うたじ」とあるが、『日本演芸家名鑑』などの公式プロフィールでは「うたし」である。

 その経歴は『現代上方演芸人名鑑』『日本演芸家名鑑』となぜかCD集「栄光の上方漫才」に出ている。「栄光の上方漫才」に関しては、金欠の為、未所有、情報も国会図書館でとったメモ程度しかないのでご了承ください。

 歌志は熊本県の出身。当時、九州は浪曲の全盛で隣県の佐賀からは名人・天中軒雲月が大活躍しており、それ以外にも桃中軒如雲、東三光(初代春野百合子の父)などがしのぎを削っていた。

 幼い頃から浪曲が好きだった金蔵少年は親に無断で入門。当然露見して三日で連れ戻された――という苦い経験があったらしく、『日本演芸家名鑑』の中でも「幼児に浪曲へあこがれ先々代天中軒雲月師へ入座、3日にして親に連れ戻され」と、あるがままを語っている。

 その後は芸人になりたい志を持ちながらも大人となり、大阪へ上り、工場の工員となる。しかし、芸の街・大阪で大人しくできる筈もなく、ますます芸事へのめり込んだ。

 その内、市川福治と交友を持つようになり、漫才界に出入りするようになる。『日本演芸家名鑑』によると、1936年、内弟子となり、本格的に漫才師となった。1936年入門という記載もあるが、それ以前から付き人、セミプロみたいな形でやっていた可能性は高そうである。

「市川唄治」と命名され、舞台に立つようになる。

 一方、泰子は岡山の出身。元々は宝塚歌劇団の座員になりたかったらしいが、挫折。市川福治一座のレビュー舞踊家として入団。1935年、同座の団長となり、市川福治の門弟のような形となった。

 市川福治一座で同行するようになった二人はいつしか仲良くなり、1937年に結婚。夫婦漫才となるが、盧溝橋事件及び日中戦争の勃発で一度解散したらしく――『日本演芸家名鑑』には「昭和12年 結婚、支那事変勃発にて解散」とある。

 そのくせ、翌年には「昭和13年 唄治・京治コンビで漫才修行」と書いてあるのでわからない。日中戦争勃発後、一座は解散したらしく、福治も唄治夫妻も大阪へ戻る事となった。この頃、吉本興業に入社している。

 芸名の流れ的には「唄治・京治」→「唄治・鈴子」だったようで、1939年4月、天満花月に出た際には(『上方落語史料集成』より)、

△天満花月 福助・松子、弟蝶・久次、団之助・静香、蔵之助、正蔵・文路、文治郎、洋々・繁子、唄治・鈴子、円馬、一郎、林芳男、五九童・蝶子、春団治、石田一松。

 と、「唄治・鈴子」名義になっている。然し、この直後にコンビを解消したらしく、同年8月中席の北新地花月の番組表を見ると、

△北新地花月倶楽部 雪江・五郎、夢若・光晴、春団治、出羽助・竹幸、花蝶・正二郎、芳男、男蝶・公園、一郎・勝久、三木助、右楽・左楽、洋々・峯子、おもちや、唄次・糸次、染蔵。

 となっている。後述するいとしこいしの発言などから「糸治・唄治」のコンビは他人同士のコンビだった模様。

 この頃、新興演芸部と吉本の対立に巻き込まれるが、吉本に残留。新鋭の漫才として注目されるようになり、京都花月、南地花月、北新地花月などに出演するようになる。

 この頃は、唄治のギター、糸治の三味線という音曲漫才のコンビだったらしく、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中に、

こいし これはそうや。 邪魔になるからな。男どうしのコンビでもな。
上岡 ああ、なるほどね。 こいし 市川糸路・唄路(唄路→唄治→歌志と改名)なんていう人は、まず椅子の上へ上がって三味線を弾きはねん。これは上手やな。 歌志さんというのは花王石鹸というあだ名があるねん。
いとし 顔が月の形。
こいし(笑)。本人は嫌がってな。舞台へ出てると、「今、誰や。花王石鹸か」。
いとし 高座でね、顔のことをいわれても怒りはねん。「顔のことはいわないで下さい」(笑)。あれっと思ってね、受けているのに。
こいし 歌が鼻にかかンねん。
米朝 声はええ声やったけどね。
こいし それで歌が一区切りついたら、お客さんの前へ身体を突き出して下がりはンねん。
いとし ちょっとお尻を突き出してね。
米朝 嫁はん(市川泰子、前名・八重子)とコンビを組むようになったら、あんまり顔のことで怒らんようになった。
こいし なんかボンゴかなんかもってはった。奥さんとな。

 とある。しゃくれた顎と風貌から「花王石鹸」「椎茸のコブラ返り」と綽名されたが、当人は無茶苦茶嫌っていたというのがおかしい。

 戦時中は漫才師の出征や解散が相次ぐ中で、貴重なコンビとして南地花月や北新地花月に連日出演。また漫才大会にも抜擢されるなど、歌志にとって一つの全盛期であった模様。出演記録は後々追記していきます。

 敗戦色も濃厚になり始めた1945年夏、歌志は師匠の代理で丸山定夫などと共に広島巡業へ出発。この時、すぐ近くで興行していたのが松鶴家団之助一行

 8月6日、広島の原子爆弾投下に遭遇。即死を多く出した丸山定夫一行とは異なり、命拾いをして比較的軽症で済んだようであるが、全てが破壊され、死屍累々の街と化した広島の惨状を目の当たりにする事となる。

 なんとか広島を脱出するものの、高濃度の放射能に被爆した事により、原爆症を発症。死ぬ直前までこの後遺症と戦い続ける事となった。団之助などと共に「被爆者手帳」を持っていたという。

 終戦後、京阪に戻ってきたようであるが、劇場は焼き尽くされ、寄席も芸人もままならず、また当人の原爆症悪化に伴い、ふるさと・熊本への帰郷をする事となる。

『日本演芸家名鑑』によると、原爆症と戦いながら、地元で飲食店を経営し、何とか生計を立てていたという。

 7年ほど、地元で過ごしていたが、幸い原爆症も寛解し、峠を越したこともあってか、再起を決意。

 1952年、夫婦そろって大阪へ戻り、「市川歌志・泰子」と改名して再出発を果たす。復帰当時は西成区山王に居を構えていた模様。関西演芸協会に入会し、復帰の準備を行う。

 戦前の看板や人気も手伝ってか、相応の待遇で迎え入れられ、松竹芸能へ移籍した模様。同社の持つ角座や諸演芸場に出演。

 歌志は相変わらずギターを持って民謡や浪曲を唸り、泰子がボンゴを叩きながら河内音頭を歌い、歌志をどやしまくる女性優位漫才を展開した。

 1959年4月、関西演芸協会の人事選挙に伴い、地区委員に就任。幹部となる。同委員に鹿島洋々千歳家歳男、立花幸福、松原勝美、中村直之助(京都組)と桂文紅、旭堂小南陵(後の三代目)。

 この頃、演芸業務に復帰した吉本興業に移籍。再び吉本の世話となる。この関係は死ぬ直前まで続いた。

 貴重な音曲漫才として、戦後の漫才ブームの一員として達者な所を見せていたようであるが、やや地味であり、また歌志の原爆症や虚弱体質が仇となり、遂に大輪の花を咲かせきれなかった。

 ただ、その歌声や話術の間は中々味のあるものだったそうで、前田和夫は「得難い高座」と書き、相羽秋夫は「今では数少なくなった音曲漫才として、得難い価値をみせる。独特の節まわしの民謡は真似る者がいない。」と記している。味のある古老コンビだったといえようか。

 私生活は真面目で、人望があったらしく、1967年に設立された「日本芸能実演家団体協議」に早くから参加し、理事に選出される。

 1970年代に入り、やすし・きよし、Wヤングが台頭した後も吉本の花月劇場に出演。出番的に恵まれているとは言い切れないが、それでも岡田東洋・小菊などと共に味のある漫才を見せていた模様。

 しかし、老齢に加え、歌志の原爆症や病身が不安定となり、1970年代後半より入退院を繰り返すようになる。結局、1981年を最後に一線を退く。一部資料では「引退」とあるが、芸界から離れたわけではなく、死ぬ直前まで演芸協会と吉本には在籍していた。

 1984年、歌志は長年の理事勤務と仕事ぶりが評価され、芸団協より「芸団協日連永年勤続理事表彰」を受ける。老芸人へのせめてもの餞だったといえようか。

 そのころには既に病状は悪化し、長く入院していたと見えて『日本演芸家名鑑』の中でも、

「74歳の老体に鞭打って死ぬまで研究を続けたいと入院中もそれのみです。夢よもう一度。」
「年令を重ね、若き日の夢も破れ宝塚を目指した。夫と漫才に日を過ごし、夫が病魔に取つたれ入退院の繰り返し、だけれど芸魂は衰えず必ず治療したらもう一度舞台へ立たなければ死にきれないとはかない夢に激励中です」

 と夫婦の悲痛なコメントが載せられている。 

 夫婦そろって舞台復帰の夢を見ていたようであるが、その夢は遂に叶わなかったとみえて、歌志の名前は1987年度の名簿より消滅。泰子のみ載っている所から、没した模様である。原爆症を抱えながら、最期まで舞台への執念と愛を持って生きた姿が、美しくも、儚く、哀しい。

 夫に死なれた泰子は、堺市で飲食店を経営して晩年を送っていたようであるが、平成3年の名簿以降、その名前が確認できなくなる。亡くなったか、本格的に引退したか。

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