荒川芳政・浅田アサヒ

荒川芳政・浅田アサヒ

芳政・アサヒ

 人 物

 荒川あらかわ 芳政よしまさ

 ・本 名 辻田 政次
 ・生没年 1911年3月3日~1992年以降  
 ・出身地 兵庫県 明石市

 浅田  あさだ アサヒ

 ・本 名 松村 八重(一時、辻田姓)
 ・生没年 1907年9月28日~1992年以降
 ・出身地 大阪府 河内松原

 来 歴 

 戦前戦後活躍した漫才師。晩年は漫才の長老として、桂米朝らに敬愛され、テレビ番組に出演した。

 二人の経歴は、1985年発行の『日本演芸家名鑑』から出身地と生年月日を割り出したが、肝心の芸歴が書いてない――が『国立劇場演芸場』(1984年2月号)の『芸人・てんのじ村(Ⅶ)』に詳しく出ていた。これを底本とした。

 芳政は、荒川三兄弟の真ん中で、姉に荒川光子、弟に辻一夫がいる。1991年の新年に、毎日放送で放映された「米朝一門顔見世大興行」に出演した際、僅かながら芸歴を語っている。

 某所で視聴した時の、要点や芸風を記したメモを見ると、「東京の震災が、大正12年、あの時に、12の歳に芸界に入って……」とある。

 姉の光子が、1921年に荒川芳丸に入門していることから、この談話は決して嘘ではないだろう。

 小学校卒業後、1923年9月、神戸千代廼座の安来節一座に入団。ここで三味線や鼓、唄、漫才などを学びとった。

 1927年、本格的に漫才を志し、姉同様に荒川芳丸に入門。「荒川芳政」として、子供漫才として舞台に立つようになった。

 若い頃は師匠の経営した寄席での内弟子生活や師匠の巡業に同行していた模様である。まずは姉の光子とコンビを組んで、姉弟漫才を結成。

 ついで、東明四郎なる先輩漫才とコンビを組んで、14年間という長きにわたって活躍。神戸の千代廼座がメインホームだったようである。

 この四郎とのコンビ時代に、海原お浜と所帯を持ち、25年近く生活をしていたそうで、『国立劇場演芸場』に

「この間、海原お浜・小浜さんのお浜さんと二十五年の結婚生活をしたが、こと漫才では別々の歩みをした。」

 とある。本当だろうか。

 然し、お浜が1930年頃から芸能界にいた事、戦前戦後にてんのじ村にいた事を考えると、嘘ではなさそうでもある。

 戦後は長らく姉の光子とコンビを組んで、地方巡業を中心にやっていたという。

 相方のアサヒはその芸名の通り、浅田家朝日の門下生。若い頃は、浅田家朝日嬢といった。

 漫才師になる以前は、芸者をやっていたそうで、小学校卒業後、花柳界入り。三味線、音曲、踊りなどを会得し、左褄を取っていたほどであったが、漫才に転向。

 1936年、浅田家朝日の妹分として漫才界入り、「浅田家朝日嬢」と名乗った。

 戦前は兄弟子の浅田家日佐丸についていたらしく、新興演芸部に所属している様子が、『近代歌舞伎年表』などから伺える。当時は「浅田家朝日嬢・花柳三鈴」というコンビであった。

 なお、花柳三鈴はアサヒの実の娘だという。

 戦後、新興演芸部の解散や浅田家朝日の死など、苦労が重なった。その中で、浅田家朝日女と改名。「笑根系図」ではこの名前で登録されている。

 長らく地方巡業や微妙な活躍が続いたが、上方演芸が復興するに従い、千土地興行に所属。砂川捨女などとコンビを組んで、女道楽風のコンビで堅実な舞台を勤めたという。

 一時期は、藤浪扇太郎を入れて、トリオ漫才をやっていたこともある。

 また、この前後で、花ノ本八重と改名して、芳政の姉・光子と「七重・八重」のコンビを組んだこともあったそうである。この関係から、芳政とのコンビ結成の流れとなった模様か。

 コンビを本格的に結成した後、「浅田アサヒ」と改名。師匠の「浅田家朝日」の名をうまい具合に継いだともいえなくはない。

 一方、芳政はお浜と離婚。アサヒと出会い結婚した。

「米朝一門顔見世大興行」の中の談話を信じるならば、「この人と舞台をやりはじめて28年頃」という所から、1963年頃にコンビを結成した模様。

 但し、『出演者名簿1963年』ではまだ「浅田家朝日女」として登録されている所から、改名はまだ先のようである。

 また、1984年発行の『国立劇場演芸場』に「今年でちょうど二十四年」とあるところから、1964年にコンビ結成をしたとみるべきだろうか。

 芸達者で古風な漫才を得意とした所から、寄席・劇場よりも、地方巡業や余興で喜ばれ、そちらの方面で稼いだ模様。

 男女コンビとしては珍しく、両人が三味線を弾けたので、三味線尽くしの漫才を展開。独特の風格のある「都々逸」、商売や世相を織り込んだ「テイノー節」、「春雨」「越後獅子」などといった曲弾、

 また、平成に入っても、大きなガマ口の中から手拭を取り出す古風なギャグもやっていた。

 今日残っている映像では、和服紋付の物が多いが、基本的には芳政がスーツ、アサヒが和服という取り合わせが多かったようである。

 余談であるが、芳政はカツラをつけていた。一部の写真にはあまりにも不釣り合いな頭になっているものもある。禿げあがった頭を見せないとするのも一つの美学なのだろうか。

 1971年放映の「新日本紀行 浪華芸人横丁」に出演。松鶴家団之助夫婦や吉田茂などに交じって、麻雀に興じている様子が確認できる。

 1970年代に入るとなぜか入籍したらしく、日本演芸家連合の名簿を見ると、「荒川芳政 辻田政次 浅田アサヒ 辻田八重」と登録されている。住所も一緒で、かつ名字も一緒という所を見ると、入籍した模様か。

 そのくせ、1985年頃の名簿を見ると、再び「松村八重」「辻田政次」に戻っている。離婚した模様であるが、平然と同居している。どうしたものだろうか。

 凄まじい関係といえば凄まじい、芸人らしいといえば芸人らしい、という話だろうか。

 1980年代からは主に大須演芸場を根城に活躍。同門の荒川キヨシや、同輩の河内文春らと共に貴重な古老芸人として鳴らした。多い時は、一年の半数近く出演している様子が当時の番組表などから確認できる。

 ディープな客層や気心の知れた仲間もいたせいか、艶ネタや都々逸など、大人向けのネタも十八番とし、天衣無縫な芸風を見せていたそうで、決して評価の悪いものではなかったという。

 1990年代に入ると、芸歴60年超えの長老として、桂米朝・上岡龍太郎などに見出され、彼らの番組に出演。その番組の一部は「ワッハ上方」などで見ることが出来る。その芸歴は東京の千代若・千代菊と並び称される声もあったほど。

 1993年頃の名簿まで大阪に在住して活躍している様子が確認できるが、それ以降の名簿を所有していないため、いつ頃没したのかは不明。

 但し、消息筋の噂によると、中々の長命筋で、21世紀の幕開け前後までは健在だったと聞く。

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