杉京美・マサル

杉京美・マサル

 人 物

 すぎ 京美きょうみ
 ・本 名 ??
 ・生没年 1932年3月14日~ご健在?
 ・出身地 大阪

 すぎ マサル
 ・本 名 ??
 ・生没年 1930年12月23日~ご健在?
 ・出身地 大阪

 来 歴

 杉京美・マサルは戦前戦後活躍した姉妹漫才師。漫才師一本というよりはタップダンス、児童劇、唱歌など、少女の初々しさを前面に押し出した芸で人気を集めたという。7歳・9歳でデビューしたというのだから早い。少女タレントの先駆けというべきだろうか。

 経歴と写真は『宝塚グラフ』(1955年1月号)の「新芸座所属芸人一覧」から割り出した。

 前歴等は不明。帝都漫才協会の名簿に「桂三起夫・杉正美」という夫婦漫才がいるのだが、これの娘たちだろうか。あくまでも推測である。この二人の娘だった場合、本名は「小森某」という事となる。

 幼い頃に浅草へやって来て地元の浅草千束小学校に入学。学校に通う傍らで芸事の修業や実演をはじめるようになったようである。

 1939年頃にデビュー。姉妹二人で舞台に出て、漫才風の掛合や歌を演じながら、タップダンスや舞踊を見せるという器用な芸風で人気を集めたようである。

 まだ低学年の二人が大人顔負けのタップダンスや漫才を演じるのだから、周りはさぞ驚いた事であろう。

 そんなうわさを聞き付けたのが、当時日の出の勢いを持っていた新興演芸部であった。吉本・松竹に対抗できる人材を探していた新興演芸部は彼女たちをスカウトして、劇場に出す事となった。

 ○六月十一日〜 松竹劇場
まげものナンセンス 旅は朗らか 六景 新興笑ひの楽園
兵隊喜劇二の替り 馬と兵隊の巻 祐十郎一座
名曲とタップシヨウ 白高山 杉マサル 杉京美
ミュージカルコメディ 愉快なるかな初夏 八景 ハットボンボンズ

漫才
【出演】秋山ヒゲ虎・富士野芳夫 ミス若子・桂春雨 中井染丸・酔月楼とり三 松葉家奴・吉野喜蝶 浅田家日佐丸・平和ラッパ 曲芸丸一小楽・丸一健坊 セーラー漫才 青柳ナナ・ミチロー 時局諧謔漫才 浪速マンマル・マンルイ

 当時の新聞記事(『京都日日新聞』6月10日号)には、

「白高山は我国が生んだ今年八歳になる天才提琴家で、幼なくして既に”チゴイネル・ワイゼン”等の難曲を容易にこなし、放送、ニュースにて全国的に紹介され、その天稟を称へられた者で、今回は杉マサル・杉京美のこれ又名無し阿の天才的舞踊手と組んでの舞台で名曲、難曲、非常時愛唱歌の数々をご披露する。」

 とあり、その天才性を全面にして売り出されている。

 その後は新興演芸部系の劇場を中心に出ていたが、どういうわけか戦時中に吉本興行へ移籍し、吉本の興行に出るようになった。

 1943年8月からしばらくの間、マサルはミヤコ蝶々とコンビを組んでいた模様か。戦時中のパンフレットにある「蝶々・マサル」のマサルは杉マサルの事ではないだろうか。

 この辺りの事を、蝶々はあまり語ってないので謎が多い。

 戦時中の混乱で、劇場も寄席もなくなり、慰問や地方巡業で細々と暮らしていた模様。敗戦時には15歳と13歳、幼い限りである。

 1945年1月には、喜劇の和田君示と行動を共にしている。『歌舞伎近代年表京都編』に、

○一月(十二)日~ 三友劇場 
【第一】床屋さん
【第二】奴さん評判記 杉マサル・京美とその劇団 和田君示とその一党

 とある。

 敗戦直前にはまた新興演芸部系の公演に戻り、ミスワカナの南座公演に出演。おりしも初日が終戦であった。『歌舞伎近代年表京都編』によると、

八月(十五)日~(二十九日)正午開演 南座 
 ワカナ一郎の芝居 朗らかな保健婦 ワカナ・一郎一座
 民謡絵巻集 劇団くさ笛 草苗美子 
 歌とアコデオン 新人登場 マサル・京美 
 漫才 小柳・東声 ひろし・ワカサ 朝日嬢・美鈴

 といったものらしい。現場に居合わせた島ひろしは「威勢良く演じていたらすぐに終戦で滅茶苦茶ですわ」みたいな事を『大衆芸能資料集成』の中で回顧している。

 敗戦後は新興演芸部に近い形で活躍していた模様。1946年3月に行われた演芸大会に出ている様子が『歌舞伎近代年表京都編』で確認できる。

○三月(二十六)・(二十七)日 朝日会館 
〈海外同胞並戦災者援護資金募集〉
(軽演劇・歌・踊り・演芸)
【番組】インテリ爆笑王 桂木東声・春風小柳 唄とタップダンス 杉マサル・杉京美 軽演劇 永田チエ子と劇団りんご 時事漫才 香島ラツキ・花園麗子 歌ふ大映スター雲井八重子 歌と踊りのヴアラエティ ミヤコ楽劇団)三沢清員楽団特別出演)

 しばらく、地方巡業や寄席出演、演芸会などで地道に食っていたようである。

 1950年に小林一三が秋田実と手を結んだことによって生まれた演劇集団「宝塚新芸座」にスカウトされ、その座員となる。仲間にはミヤコ蝶々・南都雄二、島ひろし・ミスワカサ、秋田Aスケ・Bスケ、夢路いとし・喜味こいし、志摩八郎、笑福亭松之助などがいた。

 ただ、蝶々・雄二、ひろし・ワカサのような主役でもなく、Aスケ・Bスケや松之助のように脇役として相応な地位を占めたわけでもなく、ゲスト的な扱いだった模様である。

 当時の記録は『阪急文化アーカイブズ』に詳しく出ている。

 1951年4月1日~25日、宝塚第二劇場で行われた宝塚新芸座道場公演「あれもこれもショウ  恋のスタイルブック」に出演。

 1951年5月1日~25日、宝塚第二劇場で行われた宝塚新芸座道場公演「あれもこれもショウ  大阪おぼこ娘」に出演。

 1952年5月21日~6月15日、宝塚映画劇場で行われた宝塚新芸座公演「三等重役・夏姿仇討囃子」で杉マサルは「鈴壬マサル」と改名した模様。理由は不明。

 1953年9月5日~26日、宝塚新芸劇場で行われた宝塚新芸座9月公演「これが浮世です・バイヨンセニョリータ・風流やくざ読本」に出演。

 1953年11月7日~29日、宝塚新芸劇場で行われた宝塚新芸座1953年11月公演「或る夜の真心・続風流やくざ読本 」に出演。

 その後も時折出演していたが、1955年頃を境にいなくなってしまう。退団した模様か。ただ、後述のハワイ巡業のチラシには「宝塚所属」とある。

 1955年春、大先輩の橘家太郎・菊春・吉郎、母娘漫才の泉陽子・美鳥ケイコ、俗曲の京山光男と共に「大阪漫楽ショウ」を結成し、ハワイへ渡米。晩夏ころまで巡業を続けている。

 同興行では漫才と舞踊の他に、マサルのギターやアコーディオンの伴奏で、京美が歌謡浪曲を唸るという芸当もやった。

 その後、宝塚に復帰したらしいのだが、すぐに連名から名前が消える。寿引退でもしたのだろうか。

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