竹の家喜雀
人 物
竹の家 喜雀
・本 名 小野 ?
・生没年 1879年~1935年
・出身地 ??
来 歴
戦前活躍した漫才師。相方は娘でもある。戦後珍芸漫才で活躍した玉木貞子、後ろ面踊りで長らく人気を集めた小松まことは、喜雀の子供たちであり、桝奴の妹弟にあたる――と『国立劇場演芸場』(1983年8月号)の『芸人・てんのじ村(Ⅱ)』中にある。
東京に竹の家雀右衛門という漫才師がいたが関係性は不明。雀右衛門も古い漫才であるので、師弟関係はなかったんじゃないだろうか。その逆という可能性も無きにしも非ずである(竹の家雀右衛門は1921年頃に喜劇俳優になり、全国を巡っていた事がある。)
元は音曲師だったらしく、娘の貞子は「三味線に四ツ竹を叩いて合奏しながら唄っていましたが、いい声でした」と語っている。
父・喜雀の方は大正末期にはすでに第一線で活躍しており、『レコードコレクターズ』連載の岡田則夫『蒐集奇談』(1994年5月号)の中に、
▼竹の家喜雀
大正末の金鳥レコードに、のぞきからくりをネタにした「不如帰」(2043)、ショーワにも「不如帰」(846)を入れている、相方の名前は出ていない。
と、ある。レコード吹込みをするということはやはり人気があったということなのであろう。
長らく料理屋の亭主をやっていたそうで、『柳屋』(36号)掲載の『萬歳時代(下)』の中に、
ところで竹の家喜雀と升奴といふ料理屋の親子一組で娘がおやぢの頭を張り倒す。顔も美しい。それらが市内で散在する廿数席をかけもちで入り乱れての大競争。まさに世は万歳時代なるかなである
と、ある。なお、この料理屋は上京、寄席まわりで稼いだ金で建てたらしく『芸人・てんのじ村(Ⅱ)』の中に、大正7年から大正11年までの間に、365日休みなく、慰問や寄席の出演。当初は、1円だった出演料も、2円、3円と上がっていき、最終的には1軒6円になったというのだから驚きである。
震災前年に帰郷したときは、3000円近い資産になっていたそうで、それを元手に仲居を6人置く料亭を経営し始めたという。以来、芸人稼業から一線を退いてしまったらしい。
それでも、子供たちを立派な芸人に仕立てるべく舞台には時々出ていたか、監督のようなことはやっていたらしく、『神戸新聞』(1929年8月15日)に、
◇十六日薮入デーの海と山
◎境濱海水浴場(昼間)浪花會一行 落語曲書(桂梅團次)軽口(桂遊喬、同遊楽)曲芸(丸一時若)奇術(高田天学)萬歳(松原浪月、同菊子)
◎摩耶山納涼場(昼間)松旭斎天旭一行 小奇術(松旭斎一旭)萬歳(竹廼家小枡、同正鶴)小唄レヴユー(松旭斎天旭)女道楽(竹廼家小枡、同枡奴、同正雀)大魔術(松旭斎天旭)萬歳(竹廼家枡奴、同喜鶴)
とあったりする。「正雀」は、倅の小松まことである。
舞台の芸風は四つ竹を用いて歌舞音曲を得意とした以外、これと言って伝わっていないが、相方の娘・升奴の美貌が売りだったらしく、『柳屋』(36号)の若葉薫『萬歳繁盛記』の中でも、
竹の家枡奴のクリサンテイム(註・ピエールロティ『マダム・クリザンテエム』の挿絵か?)に似た顔も佳し。
竹の家枡奴も美しいが、あれよか、もっと成熟した植物の美しさだ。――そのくせ、年はどつちも、同んなじ位なのだが。
と触れられている。
「笑根系図」によると、「昭和10(56才)」で没したとのことである。上記の生没年はここから逆算したものである。
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