荒川歌江

荒川歌江

晩年の名コンビ、文雄・歌江

若かりし頃の歌江(左は砂川捨次)

ハワイ巡業の際の一枚

前列右より、千代の家蝶々、千代の家お蝶、千代の家美蝶?、千代の家みどり
ベビーテンプル、藤間静子(藤浪扇太郎)、荒川歌江?
後列右より、大谷伸蝶、大谷マサル、大谷ソング、千代の家蝶九、大谷マンガ

木村宗雄支配人?

 人 物

 荒川あらかわ 歌江うたえ

 ・本 名 猪妻 ウノ(旧姓・水野)
 ・生没年 1903年11月13日~1971年9月1日
 ・出身地 大阪府

 来 歴

 戦前戦後活躍した女流漫才師。太夫役(ツッコミ役)をさせると天下一品と称された傑物で、浮世亭出羽助、松葉家奴、都家文雄といった大看板の相手役として人気を集めた。当人もまた芸達者で知られたという。

 出身は大阪。誕生日は「出演者名簿1963年」より割り出した。名簿では、「明治43年」と思い切りさばを読んでいるが、そこは若く見られたい女芸人としての意地であろう。

 問題は本名である。この歌江女史を調べているうちに、本名の問題がにわかに浮かび上がってきた。

『上方演芸人名鑑』やそれを元にしたウィキペディアの記事などでは、「猪妻ウタエ」となっており、『関西演芸協会名簿』などにも、そういう記載になっているのだが、後述する訃報や、以下の『国勢調査大阪市報告書 昭和5年』では、「ウノ」なっているのである。「猪妻」は夫の姓であり、「水野」は旧姓であろう。

疑惑の本名
(『国勢調査大阪市報告書 昭和5年』より)

 こういう案件が出てしまうと頭を抱えるより他ないのだが、当時、芸人は縁起を担いで、わざと名前を変えている、芸名を本名のように名乗っている人が実在した事例があるので、歌江もまた芸名を本名と称してやっていた可能性がある。

 なお、上の「人物」の本名では、訃報記事および国勢調査の記述を採用した。

 前歴等は謎であるが、22、3歳で一枚看板になっている所を見ると、幼い頃からの芸人ではないだろうか。「Maui Rekōdo」(1940年4月12日号)に「地方の荒川歌江は杵屋六左衛門直流の愛弟子であると云ふ」とある所から、長唄の素養はあったという。

 三味線と踊りが達者だった――という所を見ると、女道楽に関与していた可能性は高く、山川静夫『上方芸人ばなし』では「歌江は女道楽の出身である。」と出典不明ながらも記してある。

 漫才としての師匠は、荒川芳丸。荒川キヨシ、荒川芳政、夢路いとし・喜味こいしなどは兄弟弟子にあたる。なお、夫は兄弟子の荒川助八(本名・猪妻成一郎? 1895年~1970年以降?)で、兄弟弟子で結婚をした――という事になる。

 入門当時は、漫才の地位が低く、寄席や劇場に出られる機会が少なかったため、師匠の一座で全国を巡演したり、端席を回っていた模様か。当時の相方は夫の助八だろうか。

 1927年頃より、吉本系の寄席に出演するようになる。『上方落語史料集成』の初出は、1927年2月1日、

△新町瓢亭 紋十郎、五郎、扇遊、円子、小円太、文治郎、円太郎、蔵之助、歌江・国之助、千橘、円若、春団治。

△松屋町松竹座 円枝、繁千代、歌江・国之助、春団治、千橘、花菱家、今男・アチヤコ、円馬、おもちや、染丸、政夫・雁玉、馬生、一郎

 とある所。相方の国之助が何者かはわからない。

 2月中席は、萬歳大会に出演している。

△新京極芦辺館 万歳大会。日出子・一蝶、おもちや、五郎、慶司、チヤプリン・ウグヒス、東湖・正武、歌江・団之助、嘉市・捨市、秀千代・秀夫

 1927年12月、弁天座で行われた「全国萬歳座長大会」に出演。相方は松葉家奴。以下はその出演者。

 荒川芳丸・芳春、芦乃家雁玉・林田十郎、都家文雄・静代、玉子家弥太丸・浅田家日左丸、浮世亭夢丸・ 柳家雪江、荒川光月・藤男、浮世亭出羽助・河内家一春、日本チャップリン・梅乃家ウグイス、松鶴家団之助・浪花家市松、玉子家志乃武・山崎次郎、砂川捨市・曾我廼家嘉市、河内家文春・玉子家政夫、松葉家奴・荒川歌江、河内家芳春・二蝶、若松家正右衛門・小正、荒川芳若・芳勝、砂川菊丸・照子、宮川セメンダル・小松月、花房秋峰・出雲金蝶、桂金之助・花次、河内家瓢箪・平和ニチニチ

 ゲスト・江戸家猫八と八木節の堀込源太

 この大会直後、相方の奴さんが渡米してしまったため、コンビ活動を休止。番組などにも出てこなくなる。一座を転々としていた模様か。

 奴さんの帰国後、コンビを再開。『柳屋』(1928年11月号)掲載の若葉薫『萬歳繁盛記』に「松葉家奴のシャガレて悲哀の節回しの大津絵に、下品なところのまるでない歌江の美しい瓜実顔もよろしいし……」とあるのを確認できる。

 この頃の美貌と芸達者な風格は、内外の評判だったそうで、若葉薫は

 とにかく、マンザイ、バンザイである!!!  
 ぼくも、漫談屋でくへなくなつたら、いつでも、万ちやんに早代わりするカクゴである。  
 だが、その場合、せめて、あら川歌江氏ほど、片相手にみめよき戀人兼太夫さんの、ご婦人なきことをイカンセン!!

 と、記し、正岡容は同じく『柳屋』の短歌百首の中で、

  歌江によする

 あら川の歌江はいとし 夏痩の我が戀びとに少し似たれば  
 伊豫染をいたくもこのむかの君に歌江は似たり なつかしきかな
 伊豫染のうす水いろの衣着て歌江はいでぬ君かとぞおもふ
 かく許り君に似たる子ありや否 歌江に似たるひとありや否
 あゝ歌江三味線ひけば怨み侘び君とあふ夜の幻もみゆ
 君とみし鴨川べりの草のいろさへみゆるか 歌江笑へば
 小夜更けて君とあふ夜の幻もみえて歌江はなつかしきかな
 歌江似の君をおもへば香爐よりあまた群がる夏の日の蝶

 と、熱唱し、挙句の果てには、

  われも万歳になりたけれど

 あゝ歌江 我が戀びとも汝のごと ピエロとならばおかしからまし
 歌江似の君と高座に立たむなどおろかなることけふもゆめみる
 歌江似の君と高座に立つもよし花ふる旅をながるゝもよじ

 などと、詠み込む始末である。そんなに相方にしたい存在だったのだろうか。

 以来、名コンビとして、新京極富貴を中心に、舞台へ出ていたが、1929年10月ごろ、コンビを解消。大先輩の小山慶司とコンビを組んだ。

『上方落語史料集成』の『大阪時事新報』(1929年11月4日号)の記事によると、

◇一日からの花月は既報の神田伯山を迎へて講談落語特選会と小柳三、春団治、円馬、枝鶴、直造、正光、歌江、慶司、小春団治、勝太郎、文次郎、重隆、武司其他で大切余興「電報違ひ」の賑かなところを春団治、染丸、三八、小春団治、蔵の助、塩鯛、福団治、金の助、花次、光鶴等で見せると。

 と、相方が変わっている。

 この小山慶司は古い漫才師で、「野球節」なる独特の唄を看板とした。歌江の三味線に合わせて、当時流行り始めた野球の用語や選手を織り込むネタで人気を集めたという。

 この人とのコンビは売れに売れ、吉本自慢の一流小屋・南地花月へ出演できるようになった。

 しかし、1931年夏ごろ、コンビを解消。1931年10月中席の、南地花月の広告で、

△南地花月 小雀、升三、扇枝、直造、文治郎、次郎・志乃武、九里丸、小春団治、歌江・文男、正蔵、春子・正春、紋十郎・三木助、春団治、三亀松、蔵之助、一光。

 とあるが、これは暫定的なコンビであろう。文男は、「都家文雄」であろうか。

 それからまもなくして、かつての相方・松葉家奴とコンビを再結成。12月には南地花月に復帰し、10日より、

△南地花月 新昇、小雀、源朝、千橘、一光、延若、文治郎、歌江・奴、春団治、藤村梧朗、勇・清・クレバ、小春団治、志乃武・次郎、正蔵、枝鶴、扇遊、紋十郎・三木助、龍光。

 一枚看板で出ている。

 1932年秋、またしても奴とのコンビを解消し、河内家鶴春とコンビを組む。11月の顔触れに、

二十一日より

△天満花月 小円馬、馬生、福団治、五郎、染丸、とり三・今男、歌江・鶴春、重隆、武司(剣舞)、春団治。  

 とある。これ以降、なぜか番組表に名前が出てこなくなる。その間レコードは率先して吹き込んでいるので、家庭的な事情で舞台だけ退いたか、あるいはレコード吹込みに忙しく、レコード会社の専属のような形となったか、どちらか。

 漫才のレコードが商品になると注目されるようになる、1930年代初頭より、盛んにレコードの吹込みを行った。

 歌江は、オールマイティなツッコミ役で、誰と組んでも破綻を起さない、稀有な人物であった。

 また、ボケ役のギャグをうまく引き出しながら、自分の存在もうまく出すという太夫役としては最高峰の技術を持っていた。その才能が買われる形で多くのレコードを吹き込む事となる。

 舞台では松葉家奴とのコンビが中心であったにもかかわらず、レコードでは多数の人とコンビをとっかえひっかえし、吹込みをした。

 歌江の吹込みが盛んになるのは、1931年頃の話であろう。小山慶司以降、年々吹込み数を増やしていく。

 ここで注意しておきたいのは、吹込みをしたからとて、必ずしも舞台上のコンビではない、という事である。レコードを典拠に、「誰々と組んだ」と、書かれることは多いが、実際調べてみると、コンビを組んで実演していた――という事例を見つける事が出来なかったりする。 

 裏を返せば、誰と組んでも相応のクオリティを提供できる、優れた漫才師であったといえよう。これだけの人と組めたのも信用されていたに違いない。

 レコードの目録をまとめた『78MUSIC』などを見ると、その吹込みの多さに圧倒されるであろう。以下は判明している分を取り上げたレコード一覧である。

 一番多く吹込みをした相手は、砂川捨丸の高弟・砂川捨次である。書籍や動画サイトなどに引っかかるものだけを見ても、

 「滑稽万歳・端唄吹寄せ」「流行歌・合財袋 御笑い都々逸」「女給の唄(よう云わんわ) ・滑稽都々逸」「小唄ナンセンス」「国なまり」「棚おろし」「捨次の磯節」「演説」「芝居道楽」「夫婦連れ・動物園」「地球問答」「八問答」「即席問答」「捨次と歌江の掛合」「萬歳と活動・洋食の名前」「かけておちる」「東雲節」「抜け文句」「テイノー節」「トンチンカン・新婚旅行」「月形半平太・須磨の仇浪」「捨次の商売・萬歳屋の分身」「地球廻し」「三曲萬歳の由来」「数え唄・テレクサイ」「無敵艦隊」「小唄珍劇」「脱線姓名判断」「廓流し」「スポーツ花嫁」「でたらめ放送」「スポーツ花嫁」「つり自慢」

 など、30枚以上ある。再販やマイナーレーベルを含めれば、50枚に手が届くのではないだろうか。

 それ以外の吹込み相手は『蒐集奇談』(『レコードコレクターズ』1994年4・5月号)にに詳しい(※は筆者の追記)。

▼小山慶司・荒川歌江

オリエントに入れた「野球応援歌・野球節」(60188=写真) は、小山慶司の得意ネタ。ほかにツル、ヒコーキに1枚ずつある。

※ヒコーキ「夕暮 万才文句入・えんかいな」がある。

▼荒川歌江・河内家芳子

歌江も芳子も、色々な太夫の相方として沢山のレコードがあるが、 この二人のコンビは珍しい。ツルの電気吹き込みに「女萬歳」と断り書きを入れた「都々逸・ラッパ節」(5458)がある。

▼高田幸丸・荒川歌江

ツルやスタンダードに4、5枚ある。ツルの「数へ歌」(6518= 写真6)は味があってよい。

※1932年にテイチクから、「玄治店・深川くづし 都々逸」(209-A・B)も出している

▼浮世亭出羽助・荒川歌江

出羽助は夢丸門下。昭和6年から9年にかけて盛んに吹き込んでいる。歌江とのレコードは多く、ツル、サロン、センター、ヤチヨ、ミカド、ルモンド、ニットー、タイヘイ、キリン、テイチク、テイチク大衆、スタンダードに8枚ある。ニットー・ツル盤はよくある。

※ツルに「掛合オン・パレード」「怪物退治」「出羽助の兵隊」「ヘソとヘソ」「昭和五十年の浪花節」、テイチクに「野球見物」「掛合歌合戦」、ニットーに「磯節旅行」サンデーに「萬歳屋の愚痴」、ミカドに「即席問答」がある。

 ほかに、1936~8年頃、砂川捨丸と組んで出したものがある。1937年、リーガルから「万才学校」、同年2月「心臓が強い」、同年4月「いろは行進曲 上・下」、5月「お国自慢」、10月「逢わせて頂戴」、1938年5月、コロムビア「産後銃後」、「バイバイづくし」など。

 1934年4月、テイチクより出した「つり自慢」の都々逸が猥雑だと批判され、治警報に基づいて製作停止の処分を受けた。

 同年9月、テイチクから出した「男女同権・数え歌」が同じく猥雑を理由に製作停止の処分を受ける。

 10月、キリンより出した「スポーツ花嫁」が猥雑だとみなされ、製作停止処分。

 さらに、12月、スタンダードから出した「数え歌テレクサイ」がの歌詞が猥雑とみなされ、製作停止処分を受けている。いくらなんでも停止され過ぎである。

 1940年1月より5月にかけて、千代の家蝶九主催の「愛国ショウ」に参加し、ハワイ巡業へ出かけた。

 一行は、千代の家蝶九、千代の家蝶々、千代の家お蝶、千代の家美蝶、千代の家みどり、ベビーテンプル、藤間静子(藤浪扇太郎)、荒川歌江、大谷伸蝶、大谷マサル、大谷ソング、大谷マンガ、大谷美佐子、砂川玉子の14人。

 蝶九は1920年代より何度も渡米している海外通として知られた漫才師であった。彼らの多くは新興演芸部に所属していたという。

 余談であるが、座員の一人・大谷マンガは戦前、人気を集めた剣劇俳優・団徳磨の弟だという(「Maui Rekōdo」1940年4月12日号)。

 この渡米の第一報は、1939年のクリスマスイブに届けられた。以下は日系人向けの地元紙『Kashū Mainichi Shinbun』(12月24日号)の記事。

日米興行會社招聘の
『愛國ショウ』
此れこそは素的! 

 當市日米興行會社にては新春初頭を飾る飾る初興業として今回故國より「愛國ショウ」一座を招聘することゝなり、一行は来る廿は知日桑港着の浅間丸便にて着米の豫定にて目下海上にあるが同地上陸後直に出迎へ人の案内で自動車にて南加し羅府に入る筈であるが、男子四人、女子七人の大一座は嘗て北中南支の皇軍将士慰問に渡航し漫才に所作事に勇猛果敢な皇軍将士を慰め其名を謳はれた合同一座で當市においては元日、二日三日の三日間大和ホールにおいて開演するすることになつてゐるが、プログラムは左の如きものである。 

△時局漫才と新舞踊女道楽所作事 プログラム 
△小唄漫才 千代の家マサル、美蝶 
△節まね漫才 千代の家蝶々、みどり 
△新舞踊 △時局漫才 千代の家お蝶、蝶九 
△女流漫才 荒川歌江、藤間静江(※原文ママ) 
△ナンセンス座員 同 
△天才少女漫才 千代の家伸蝶、テンプル 
△與太 大谷ミサコ、タマコ 
△女道楽 歌江、静子、みどり、お蝶、蝶々 
△アツクルバツト 大谷マンガ、リング 
△所作事

 上ではなぜか「男子四名、女子七名」と書いてあるが、実際は14人である。

 1939年12月28日、ハワイへ無事に到着し、当地で大晦日を迎える事となる。

 1940年1月1日、ハワイ大和ホールで、開演。以来、5月30日に帰国するまで、ハワイ諸島を巡業し、日系人を相手に漫才や所作事を披露。

 この時の資料や動向を目下まとめている。考察を含め、いずれ「藝かいな」に掲載いたします。

 5月30日、午前4時出港のピアース号で日本へ帰国。『日布時事』(5月30日号)に、

愛國ショウ歸國 ホノルルを初め各地で好評を博した愛國ショー一座は今三十日午前四時出帆のピアース號で歸國の途についたが出發に先立ち昨二十九日午後一行の代表者が日米興行布哇支社中濱氏の案内で告別挨拶に来社した

 とある。

 この時の縁なのかどうかわからないが、歌江は静子と仕事を共にするようになり、戦後も静子とコンビを続けた。

 戦後は、「ふじ浪真砂子」と改名した静子と共に、「あら川歌江・ふじ浪真砂子」と、女道楽風のコンビをやっていたそうである。松竹演芸部に所属していたという。

 1960年、芦乃家雁玉と別れた都家文雄に請われる形で、コンビを組む事となる。

 同年6月、角座中席にて「文雄・歌江」のお披露目。

 当初は、一切のネタ合わせや打ち合わせなしに舞台へ上げられ、文雄がぼやき倒すため、非常に苦労したというが、長年培った芸と勘でイキを掴み、文雄にはなくてはならぬ名相方へと成長した。

 初舞台、間もない頃の舞台を小山観翁が録音しており、息子さんがこれを動画サイトで公開している。貴重な資料である。

高級漫才「これからの我が国」都家文雄・荒川歌江 昭和35年9月 小山觀翁撰集

 以来、松竹演芸部の大幹部として君臨。夫婦ではなかったが、老齢の彼をよく支えた。

 1967年春、長年の功労と技芸を評価されて、大阪府民劇場賞を受賞。

 同年5月、受賞を記念してNHKに出演。『上方芸人ばなし』によると、文雄は「いまごろになってほうびもろても手遅れや」とボヤキながらも、若い人からの声援やサインを求められたことを喜び、噺家時代に鍛えたのどで「鬢のほつれ」を歌った。

 歌江も「色気づいたおっさん」「髪もないのに何が鬢のほつれや」と茶化しながらも、受賞を喜ぶ――という、和気あいあいとした会場だったそうな。

 晩年は林家とみ引退興行に出演したり、角座の漫才大会に出たり、と大幹部待遇で活躍を続けていたが、1970年6月、神戸松竹座に出演したのを最後に、文雄が病に倒れ、休演が続くようになる。

 もう一度舞台に立つ夢を描きながら闘病に励んでいた文雄であったが、結局再起叶う事なく、1971年5月4日に息を引き取った。

 相方を見送り、これから新たな相方や仕事にとりかかろうとした直後の1971年9月1日、午後0時20分頃、心筋梗塞に倒れ、死去。皮肉にも相方・文雄の後を追うような形となってしまった。

 長老格であったとはいえ、死ぬ直前まで元気だったところから、その急死は業界人を驚かせた。

 以下は『大阪朝日新聞』(9月3日号)に掲載された訃報。この記事こそが、本名「ウノ」説の裏付けであり、かつ大きな謎を残す一枚となってしまった――というのもなんだか皮肉な話である。

 余談であるが、喪主を務めた夫の成一郎なる人物が、「荒川助八」ではないだろうか。離縁していない限りは、多分そうである。

関係者提供

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