浮世亭公園・日の出家男蝶

浮世亭公園・日の出家男蝶

公園・男蝶(ご遺族様提供)

公園・男蝶

 人 物

 浮世亭うきよてい 公園こうえん 
 ・本 名 安福 勇
 ・生没年 1903年4月15日~1943年
 ・出身地 神戸市垂水区

 出家でや 男蝶おちょう 
 ・本 名 安福 なつ子
 ・生没年 1911年3月10日~1941年
 ・出身地 兵庫県 和田山

 来 歴

 浮世亭公園・日の出家男蝶は戦前活躍した夫婦漫才。男勝りの男蝶が主導権を握り、ひょろひょろの公園をこき下ろすネタと、男蝶が男役、公園が女役で芝居の真似事をするアベコベの舞台で人気があったという。

 本名と生年は、アジア歴史資料センター所蔵の「支受大日記(普)其12 1/2 第12号 12冊の内 昭和13年次12月14日史12月27日」の「恤兵部 船舶便乗の件」より割り出した。以下はその画像。

 二人の前歴は不明――と思われていたが、御遺族より情報提供を受けて大体の経歴が判明した。随時更新していくことにする。

 公園は安福家の次男として出生。安福家は長らく実子がなく、養子をとって跡を継がせる予定であったが、嫡子の公園が誕生という形であったという。

 公園は家を継げる立場にありながら、家を出て、米関係の仕事(米屋?)か何かをしていたそうである。その時にセミプロみたいな形になっていたのか、或いは道楽でやっていたのか、その辺りは判然としないが、吉本の重役・林正之助にスカウトされて、漫才師になったという。

 1930年代にコンビを結成した模様か。結婚が先か、コンビ結成が先かもわからない。

 コンビ結成後、吉本興業に入社し、同社の寄席に出演するようになる。当初は端席を巡っていたようであるが、その実力が認められ、看板芸人として招かれるようになる。

 長らく南陽館の看板芸人であったそうである。

 1935年11月、『ヨシモト』(11月号)に、『荒ッぽい女』が掲載。

 1937年4月、はじめて北新地花月の下席(21日~)出演を許される。『上方落語史料集成』によると、

 △北新地花月倶楽部 円若、林芳男、公園・お蝶、牧野狂児郎、川柳・花蝶、小円馬、雪江・五郎、円枝、アチヤコ・今男、春団治、洋々・繁子、三木助、文雄・静代、九里丸。

 以来、南地、北新地花月に出演するようになる。

 ひょろひょろの公園に対し、男勝りの男蝶が主導権を握り、徹底的に男の公園をやり込める舞台で人気があったそうで、『大衆芸能資料集成』に「スパイ珍談」の速記が出、その芸風を偲ぶことができる。解説によると、

 公園はヒョロ長い男性、男蝶は、お蝶とも書いた背のひくい横幅のある女性で、男性のような太い声の荒っぽい口調で公園を手玉に取った。悲憤慷慨型のネタを得意とした。“ぼやき漫才”の系列に入れてもよいかもしれない。

 その独特な舞台はなぜか俳優の井上正夫が愛好していたそうで、秋田実は『大阪笑話史』の中で、「井上正夫氏は、古いファンの方なら記憶にあると思うが男蝶・公園という名の漫才さんが、特に好きだった。」と回顧している。贔屓の旦那として、時折プレゼントなどもしていたようである。

 1937年12月、『ヨシモト』(3巻5号)に『世相ぷんぷん』が掲載。

 1938年1月下席、北新地花月に出演。

△北新地花月倶楽部 染丸、ラツキー・セブン、芳男、公園・男蝶、円馬、奴・喜蝶、春団治、雪江・五郎、三木助、九里丸、中山悦子、川柳・花蝶、正蔵、結城孫三郎一座。

 1938年、吉本興業・朝日新聞主催の「わらわし隊」に抜擢され、香島ラッキー・御園セブン、浪曲の桃山天声と共に南支方面を巡業する事となった。早坂隆『戦時演芸慰問団「わらわし隊」の記録』などにその記録が出ている。

 12月22日、神戸発の高砂丸に乗船し、中国戦線へ出向く。南支戦線を巡業し、1939年1月中旬、帰国。南支前線では亜熱帯地域でしか見られない植物や気候など驚くべきものがあったという。

 帰国後も各寄席に出演。1940年2月には、ビクターより『スパイ珍談』を吹き込み。これが唯一面影をしのべる実演レコードとなったわけ。

 しかし、帰国後、男蝶は体調を崩し、床に臥せるようになったという。舞台に立てなくなってしまったために、男蝶は廃業する形となった。

 公園は「珠美」なる女性とコンビを組んだらしく、同年9月の北新地花月の番組表に、

 △北の新地花月倶楽部 桂せんば、金原亭馬生、桂文治郎、欣呆・三歩・幸児、珠美・公園、十郎・雁玉、菊春・太郎、玉枝・成三郎、桂春団治、柳家三亀坊、花蝶・川柳、鶴江・房春、桂三木助、敏夫・蝶々、左楽・右楽

 となっている。

 1941年に男蝶は死去。30になるかどうかの死だというのだから相当な夭折である。

 残された公園は、珠美と再婚して、子供たちの成長を見守っていたというが、太平洋戦争中の1943年、やはり40になるかどうかで息を引き取ったという。

 残された子供たちはバラバラになり、苦労を重ねたという。その内の一人は、かつての友人で同門であった浮世亭歌楽が面倒を見ていたそうである。

 夭折した二人の御霊は、1957年10月23日に四天王寺で行われた『物故関西演芸家追善回向の精霊』の中に納められている。

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