滝あきら

滝あきら

 人 物

 たき あきら
 ・本 名 滝井 伊太郎
 ・生没年 1921年11月3日?~1992年2月23日
 ・出身地 大阪市?

 来 歴

 滝あきらは、吉本の名物芸人であり、漫才師や落語家の間に挟まって漫談を演じ続けた特異な存在であった。漫談以上に奇人変人として有名で、その奇行で今も名を残す。今日では村上ショージの師匠として知られているようである。

 この滝あきらは吉本でも一、二位を争うほら吹きであり、経歴も生年も出身地もけむに巻いていた――という変人であった。そのため、正しい経歴というものが今となっては判然としないのである。

 そもそも生年からして謎が多い。会うたびに別の生年を口にしていたそうで、今となってはどれが本当で嘘なのか本当なのかわからない。

『笑根系図』では「大正13年」といい、『出演者名簿』では「大正15年」といい、『よしもと大百科』では「大正14年11月2日」という。

 しかし、訃報を見るとどうも1921年生まれだったらしい。どの本にも「70歳歿」とあるので、そこから逆算するとそうなる。

 幼少期も謎が多い(嘘を交えていたため)が、数歳上の兄が「瀧井健二」という俳優をしており、この兄の引きで芸能界へ入ったという。そのため、師弟関係などでは大体、「師匠は瀧井健二」と記している。

 しかし、経歴等は謎が多い。若い頃は何と飛田新地の男衆をやっていたそうで、近畿建築士会協議会が出していた『ひろば』(1979年7月号)の「遊廓への御案内――滝あきら氏にきく」の中で

「滝あきら氏は大阪の人気漫談家。元飛田のある遊郭の帳場で働かれていたと聞き、是非!!とインタビューをお願いした次第である。」

とある。

 戦後、「瀧あきら」の芸名で本格的にデビューを果たした。当時漫才全盛の中で瀧は最初から司会漫談家として高座に出た。

 当人は戦後売出した西条凡児を私淑していたというが、皮肉にもその話術や芸風が西条凡児と一致してしまい、割を食う羽目になった。この西条凡児と瓜二つの話術は晩年まで続き、相羽秋夫の『上方演芸人名鑑』でも――

西条凡児とまったく同じ口調の漫談。そのための損得勘定は、損の方が多いと見た。艶ネタに走るのも、その苦しさのゆえだろう。しかし、独特のおかしみがあり、上方臭の強い漫談は一見の価値がある。

 と指摘されている。そうした境遇からか当人は早くから艶ネタや下ネタなどを平然とちりばめるお色気漫談を展開するようになったという。

 独特の芸風故、メディアからは余りお呼びの掛らない存在となったが、演芸場や余興ではよくウケたそうで、それこそ関西近郊の余興で引っ張りだこになる――といった一面も持っていた。

 そうした評価も相まって、1957年に演芸興行を復活させた吉本興業にスカウトされ、同社の貴重な漫談家として高座に立ち続けた。以来、30年以上余り、吉本を離れることなく、同社の漫談家として看板を張った。

 1966年に、近畿大学附属高等学校に通っていた秋本良博青年を弟子にしている。後に「滝トール」と名前を与え、今も活躍している。

 長らくお色気の漫談を得意としていたが、1970年代に本家の西条凡児がメディアに出て来なくなるようになると(近隣トラブルや精神状態の悪化などに伴い)、本家と比較されることもなくなったこともあり、「関西唯一の漫談家」を自称して奮闘をつづけた。

 晩年の漫談の腕前を評価する人は結構多く、後輩の落語家で、滝と親しくしていた桂文福は『文福の楽屋ほのぼの噺』の中で――

 漫談一筋の滝あきら師匠は、楽屋では普通のおっちゃんですが、出番になるとダブルの背広にアスコットタイ、黒縁のメガネをかけてダンディーになります。
 京都花月の出番のとき、高座を降りた僕は「お先でございました」とあいさつをして、 次の滝師匠に「きょうのお客は師匠のもんですわ。岐阜の団体さんらしいですが、師匠の漫談、きっと大受けでっせ」と声をかけた。師匠は「あかんあかん、わしら人気ないしな。出ても出んでも一緒やて。どうせ、受けへんで」と謙そんして、舞台へ。ところがです。
「このごろの物価どないだ。上がりっぱなしでんがな。下がるんは、うちの嫁はんのちちだけや。物価上がって、ちち下がるやてイヤ、アノネ……」で客席、大爆笑。
 楽屋に戻ったところで「師匠よう受けてましたがな」と水を向けると、「うまいやろ。笑わすやろ。だいたい、わしゃ間がええねん。テレビなんか出てへんでも、芸の力やな。このしゃべり一本で三十年、花月の板を踏んできたんや」
 さっきとえらい違いや。でも、なんとなく可愛いんですわ。ごきげんで、「ちょっと茶一いこか」「ごっつあんです」
 喫茶店に入ると、「さっきの漫談やけどな・・・」とまた、大きな声で同じことをやりはるんですね。
 けど、あの話術は絶品でっせ。司会の仕事も多いんですが、のったらすごい。

 と絶賛し、相羽秋夫も『演芸おち穂拾い』の中で、相変わらず「凡児に似ている」と指摘しながらも―― 

 さて、滝あきらであるが、容貌、声、しゃべり口調まで西条凡児にそっくりの漫談家である。 面白いし、話芸も達者なのだが、余りに凡児に似ていてマスコミでは受けない。
 だが地方の仕事では抜群に評判がいい。本人もそうした分野にどっぷりと浸りきっているところが、い
かにも昔気質の芸人らしい。

 とその精進と人気を評価している。

 お色気漫談も晩年はとげがなくなり、客いびりも一つの芸になった。文福は「古典も面白いものだった」といくつか紹介している。曰く――

「いや、こないだね、風呂から上がってテレビつけたら、びっくりしましたわ。あの山本リンダがウララ、ウララ、ウラウララ……パッと見たら、わたしのパンツ裏やった」
「あの三船敏郎さん、えらいもんでんな。冷えたビールをグイッと飲んで、泡をフッと ふいて一億円。一言もしゃべれへん。男は黙ってサッポロビールやて。泡ふいて一億円だっせ、うちの親父、泡ふいて死んでもたイヤ、アノネ」
「前のおねえちゃん、べっぴんさんや。(小声で)ほんま、化粧品ようなったイヤ、アノネ。どこの使てんの? 資生堂? ポーラ? あっ、ナショナルでっか!」

 漫談も相当なやり手であったが、漫談以上に知られたのは奇人変人ぶりのエピソードである。当時、若手たちの良き修業場になっていた中で、滝あきらの存在は異色だったとみえて、数多くの若手芸人からネタにされまくった。

 桂文福も「とくに若手の芸人は楽屋での滝あきら師匠を、おとっつあんか近所のおっちゃんのように慕い、ときに冷やかしたりして、いわば楽屋のアイドルだったのだ」と評価しているが、やらかしても「あきら師匠やらかしたで」と笑い話で終わり、誰とも敵対することもなかったのは人徳だったといえよう。

 その奇人変人ぶりを伝えるエピソードをいくつか紹介しよう。

・普通の芸人なら「漫談の〇〇です」という所を、「私は吉本に入って20年」というところから切り出し、毎月半分以上劇場に出ていること、吉本との契約、吉本芸人のあれこれ――と無駄話を並べた挙句、やっと「漫談の滝あきらです」と自己紹介する始末であった。ひどい時にはこの自己紹介で出演時間が終わってしまい、周りからいびられたという。
・吉本の劇場で司会を求められた際、最初に「場内禁煙をアナウンスしてください」と言われた。滝あきら、出番になるや「ただいまより開演いたします場内は全て禁煙です。」といったのはよかったが、片手には吸いかけの煙草がモクモクと煙を放っていた。
・スポーツ新聞などにも目を通したが当人スポーツのルールなどはほとんど知らず、「芸人も野球選手は売れなあきまへんな」「トレードされるのは売れている証拠や」と平然と口にして若手をあきれさせた。
・中曽根康弘がロナルド・レーガンと対話をしに渡米をした際、当人勉強をしたらしく、後輩たちに「今日は時事漫談をやるで」といった。しかし聞いて見ると「レーガンさんはアメリカへ行きはった」から始まり(中曽根がアメリカへいったの間違い)、「ホワイトハウス、ごっついでんな、あれは大統領の住居だそうで」などと誰もが知っているような知識を連発。そのくせ当人大満足で楽屋にいた西川のりお・上方よしおたちに「わしも政治のことを風刺するやろ」といい、のりおたちは「どこが風刺やねん!」とツッコんだ。
・河内家菊水丸の後援会のパーティに呼ばれた滝あきら。乾杯役の桂文福が気を利かせて、「滝あきら師匠も一言」と頼んだ結果、「ただいまより、乾杯でございますが、菊水丸君のますますのご活躍……」と厳粛な口上を始めてしまい、本来乾杯の音頭の折に言うセリフを全部言ってしまった。すべて言い終わった後、「それでは乾杯の音頭、文福君どうぞ!」
・芸人仲間の挨拶に「師匠最近売れてまっか」「忙しいですか」というものがある。大体は「ぼちぼちでんな」などといったり、忙しくなくとも「忙しうて」とうそぶくものであるが、滝あきらに「師匠どうですか」と聞くとスケジュールを取り出し、「今日はこの後〇〇の仕事!明日はどこどこで余興と司会!」と律義に一週間のスケジュールを大声で読み上げた。

・年齢を聞かれることはNGで何食わぬ顔をして年齢詐称をした。定期券をいい加減に買った際、車掌から「貴方いくつですか?」ととがめられた。滝はそれを聞くや「芸人に年はない!」
・吉本の中でも古参勢であった笑福亭松之助が「わしは1925年生まれで……」と言っているのを耳にした滝あきら。後日、松之助と年齢の話をした際、「わしは師匠より年下だんな」と何食わぬ顔をして年齢詐称をした。
・金銭感覚はしっかりしており、副業でお好み焼き屋を経営していた。吉本随一の小金持ちとまで言われたが、当人はいつでもアンケートに「ほしいものは家と金」と書いていた。
・貧乏な芸人が多い中で、服装には高い金をかける美学を持っていた。洋物のブランド品を持っていたが、それをほめてもらいたいときはあえてロゴがよく見えるようにチラつかせ、「師匠いい服着てますね」とほめられるや、「洋物らしいんやが、わしは英語をよう読めん」と若手にブランド名を読ませて一層褒めさせる――という悪戯をよくやっていた。
・時たま、若手に対して「金もあるし、牛肉でも食いいこか」と誘った。若手がぞろぞろついていくと滝が連れて行った先は「吉野家」。
・副業のお好み焼き屋では、キャベツが必要。ある時、新聞を読んでいたところ、「キャベツが高くなるかもしれない」とあった。滝はすぐさま金を握りしめ、キャベツ農家からしこたまキャベツを買ってきた。ここまではよかったが買ってきた量があまりにも膨大だったため、キャベツのほとんどが腐ってしまい、大赤字を記録した。

 1976年、高校を出たばかりの福地隆が入門。「滝シード」なる名前を与えている。しかし、この弟子とはうまく行かず、シードは上岡龍太郎一門へ移籍。九十九一として今日に至る。

 1977年、溶接工出身の村上昭二が入門。当人は「楽そうだから」「やすし・きよしさんなんかにあこがれていたけど、二人の弟子たちはもういるし、朝から晩まで忙しく駆け回っているしで無理だと思った」「劇場しか仕事ないし、テレビも年に数本。でも年はいっていたから頼りになりそうだったから」――と『村上ショージの弟子入りの思い出』の中で語っている。

 昭和末になると、弟子の村上ショージや後輩の月亭八方、明石家さんまなどが滝の伝説を話しまくったこともあり、プチブレイク。今もなお吉本きっての奇人として名を残す。

 1990年3月、梅田花月の閉場公演に出演。最後の日、「さびしおまんなあ」とつぶやいて、観客の涙を誘ったという。

 以降も高座に出ていたが、めっきり元気がなくなったようで、1991年末に入院。最後まで「舞台に出たい」と息巻いていたが叶わなかった。

 1992年2月23日、死去。享年70。月亭八方は『吉本芸人大百科』や連載『芸能界八方美人』で「敗血症」と記しているが、桂文福は『文福の楽屋ほのぼの噺』の中で「滝あきら師匠が平成四年二月二十三日午前三時十七分、間質性肺炎のため、天国に旅立たれた」とある。

 晩年は色々病気を抱えていたというので、どちらが死因でもおかしくはない。

 最後まで不思議なベールを残した人であった。

 

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