ミヤコ小蝶・鳥尾アキラ
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人 物
ミヤコ 小蝶
・本 名 高丸 鈴子
・生没年 1918年8月15日~没?
・出身地 大阪市 住吉区
鳥尾 アキラ
・本 名 高丸 一三六
・生没年 1910年10月30日~没
・出身地 ??
来 歴
ミヤコ小蝶・島尾アキラは戦後活躍した漫才師。名前の通り、上方女流漫才の傑物・ミヤコ蝶々の弟子である。夫婦漫才だったそうで、両人共に蝶々よりも年上であったにもかかわらず、弟子になった。小蝶は非常に小柄であったという。
生年は『出演者名簿』、本名は上方演芸協会の名簿から割り出した。
ミヤコ小蝶の経歴は『上方演芸人名鑑』に出ているので引用。
ミヤコ小蝶 みやここちょう【漫才】
本名高丸鈴子。一九一八年(大七~)
大阪市住吉区の生まれ。八歳で芸界入りし、浜口五十鈴と名のる。戦後、ミヤコ蝶々門下となってミヤコいすず、そしてこの名に改めた。横山アキラ、笹山タンバと組んだがうまくいかず、昭三九年一〇月春風カオルと組んだのを最後に俳優に転向した。
経歴は『週刊平凡』(1973年10月18日号)に詳しく出ていた。記事自体長いので概略のみ記す。
旧姓・矢田鈴子といい、父は「矢田喜楽」と名乗る芸人であり、興行主。二人姉妹の妹として生まれたが、母は鈴子を産んだ直後に夭折している。
父の一座の旅回りと共に成長し、7歳の時に初舞台を踏む。漫才の他、カッポレや舞踊も仕込まれたが、「舞台に出るのは楽しかった」という。旅回りの生活故か、住吉区安立尋常小学校を3年で中退。10歳にして既に一枚看板となっていた。
1929年頃、和歌山弁天座で「子供漫才3人会」なる大会が行われた際、ミヤコ蝶々に出会う。当時の蝶々は「大変おしゃまで、姉のように見えた」そうで、一緒にままごとなどをして遊んでいたという。
その後、父が芸人をやめたため、千代の家蝶九の一座に入門し、「浜口五十鈴」と名乗る。
この千代の家一座でバイオリンを弾いていたのが、高丸一二三こと「鳥尾アキラ」。無口で心優しい青年に心を奪われた小蝶は18歳の時に彼と結婚する。
アキラは一時期堅気になって働いていたが、父・喜楽が脳溢血で倒れて死去。さらに戦争の勃発で、二人の生活は息詰まるようになり、夫婦漫才を結成。その時すでに3人の子供がいた。因みに死産・堕胎を含めると8人も子供を産んだという。
コンビを結成して「浜口五十鈴・鳥尾アキラ」。1953年の名簿まではこの名義である。
しかし、アキラは漫才に向く性分ではなかったという。戦争でしぶしぶ漫才師になったために気乗りがしないこと、また内気で真面目なために達者な話術も期待できなかった。
これらの相反は仲良かった夫婦生活に亀裂を走らせ、「夫婦は台本の選択から掛合の間の取り方など、毎日のように激しい口論をたたかわした」といい、最終的には「卓袱台をひっくりかえしたり、モノを投げたりの暴力沙汰に発展した」という。
太平洋戦争敗戦直前、アキラは徴兵され、一時的にこの問題は凍結された。この間、小蝶はひとりで仕事をしていたが、空襲で家を焼き、子供たちを抱えてうろつくばかりであった。その時、「矢田の娘はおらんかい」と訪ねて来てくれたのがミヤコ蝶々であった。蝶々は着物やおむつを分け与えてくれたという。
1945年9月、アキラは復員。夫婦漫才を再結成する。長女に幼い弟たちを預け、巡業の日々を送ることになる。
数年後、千土地興行に入社する事になるが、長年の夫婦喧嘩と対立で、夫婦ともにノイローゼになってしまった。小蝶のノイローゼは余りにも酷く精神病院に収監されるほどであった。小蝶の入院と前後してこの精神病院に入って来たのが、ヒロポン中毒で倒れたミヤコ蝶々であった。
蝶々は「名前といい、境遇といい、親の死因といい、病までつくづく縁のある人だ」と語っている。
その後、何とか復活した彼女は夫とよりを戻し、夫婦漫才を再開。
1955年頃、ミヤコ蝶々に入門し、「ミヤコ小蝶」と名乗る。
風貌や芸風が、ミヤコ蝶々によく似ていたそうである。「ミヤココチョマキ」というアダ名があった。『米朝上岡が語る昭和上方漫才』に、
上岡 ミヤコ小蝶・鳴尾あきら。この小蝶さんはミヤコ蝶々先生のような小柄な人で着物を着てましてですね、
米朝 三味線をよく弾いた。前は浜口五十鈴といって、横山アキラという人とコンビを組んでいた。それが蝶々さんのところの内輪になってね、年は蝶々さんより上やったと思うねンけど、下のような顔をして弟子入りしてミヤコ小蝶という名前になった。ミヤココチョマキ……、と皆いうてた。ミヤコ腰巻というのが昔あった。
とある。
師匠について千土地興行などに所属したというが、漫才師としてはそこまで売れなかったという。
『上方演芸人名鑑』に、横山アキラや笹山タンバとコンビ結成とあるが、それらしい記載がない。一時的なコンビだった模様か。少なくとも名簿では「アキラ・小蝶」で登録されている。
当時の配役を見ると、結局、漫才師では売れなかった。その上、アキラとの関係も冷え込むばかりであった。
1961年、小蝶は高丸家を飛び出し、ミヤコ蝶々の家に転がり込む。「戸籍は子供のために残した」との事であるが、事実上の離婚であった。爾来、高丸家には帰らなかった。
それでも子供や孫とは付き合いがあり、何かの折に出会っていた。ミヤコ蝶々もそれを認識しており、「うちの使ってない部屋に泊まらせてあげればええ」と、小蝶に便宜を折るなど、麗しい師弟関係を見せた。
両者共に思う所はあったようで、アキラは晩年に墓を建てた際、長男に「お母ちゃん死んだらここに入れておくれ」と語った程であった。また小蝶も小蝶で夫の悪口を殆どいう事はなかった。
アキラは芸人をやめて、ミシン会社に就職。セールスマンとして生計を立てて、小蝶との間の子を皆育て上げた。最終的には10人近い孫に恵まれ、市井の人として幸せな晩年を送ったようである。
1966年1月、借金問題で回顧された藤山寛美の後釜で松竹新喜劇に入った師匠・ミヤコ蝶々について、新喜劇に入団。
当時の広告を見ると、脇役として舞台に出ている様子が確認できる。しかし、間もなく藤山寛美が復帰し、ミヤコ蝶々が退団したため、小蝶もこれについた。
その後は蝶々の世話役として公私に仕える傍ら、ミヤコ蝶々の喜劇公演やテレビ番組に出ていたという。1975年の出演者名簿を見ると「ミヤコ小蝶(TV)」として登録されているが――
1970年代に入ると、ミヤコ蝶々の人気が全国区になった事もあり、「30年来の弟子」という事で注目された。雑誌や新聞でミヤコ小蝶の存在が記される程である。
先の『週刊平凡』や『婦人生活』(1974年4月号)を見ると、「大阪府箕面市にレストラン小蝶を経営」との事である。
蝶々からの信頼も厚く、「もう10年以上彼女と同じ屋根の下に住んでます。ま、我が家の主婦役が彼女ですわ。家の中の主導権はぜんぶ彼女にあり」とまで言わしめている。
1982年、ミヤコ蝶々のリサイタルに出演したのが「ミヤコ小蝶」としての最後の出番か。
その後は本名に改名し、「高丸鈴子」の名義で舞台の脇役に出るほか、蝶々の付き人として静かに余生を送ったという。子供はまだご健在らしいので情報を求む。
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